WAVEというCDショップチェーンの思い出について。 | …

i am so disapointed.

六本木WAVEという「音と映像の新しい空間」が、1983年11月18日にオープンした。このことを私は「宝島」の記事で知ったが、当時は旭川の高校2年生であった。タイミングよく修学旅行があり、当日は京都の新京極という商店街を怖い人と目が合わないように注意しながら歩き、ロックファッションの店でPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)の缶バッジを買ったり、旅館で夜に騒ぎすぎて、担任の英語教師にこっぴどく怒られたりしていた。翌日、旭川まで帰る途中に東京で自由行動の時間があり、この時に六本木WAVEにはじめて行った。

 

1階には全米ヒット中の洋楽の輸入盤レコードが、たくさん陳列されていた。とても贅沢なスペースの使い方をしているな、と思った。店内は若者たちでいっぱいであり、誰もが都会的で洗練されているように見えた。エスカレーターを上っていくと、上の階にもレコードやよく分からないアート作品のようなものなどがいろいろ売られていた。なんて楽しい場所なのだろうと激しい興奮をおぼえ、カルチャー・クラブやホール&オーツなど、別に旭川のミュージックショップ国原や玉光堂でも買えるようなレコードを、わざわざ六本木で買って帰った。

 

袋にはグレー地に黒の文字で、「WAVE」というカッコいいロゴが描かれている。よく意味は分からなかったが、なんとなくポスト・モダーンな雰囲気があり、気分がよかった。その下には、「ROPPONGI SEIBU」と書かれていた。六本木WAVEを運営していたのはディスクポート西武であり、後にウェイヴ社号変更した。旭川の西武百貨店にあったレコード売り場もディスクポートという名前で、輸入盤も取り扱っていた。私はミュージックショップ国原、玉光堂に続く3番手というような感覚で利用をしていた。

 

この時の六本木WAVEの印象が、私にとっては東京のイメージとして強く心に残っていた。次に六本木WAVEに行ったのは約1年3ヶ月後の、1985年2月のことだった。東京の大学をいくつか受験するため、2週間ほどホテルに宿泊していたのだ。そのうち、虎ノ門パストラルは神谷町にあり、地下鉄日比谷線で六本木の隣という絶好の環境であった。もちろん六本木WAVEには何度も行ったし、その近くにあった青山ブックセンターにも行った。洋書がたくさん売られていることにも興奮したが、高校生の頃から投稿を何度か載せてもらっていた「よい子の歌謡曲」が書店に並んでいるのをはじめて見た時には感激した。そして、地下鉄の日比谷駅で降りて階段を上る時に見える高速道路、これが東京を強く意識させた。日曜日の開店直後に行くと、驚くほど空いていて、フィル・コリンズの「ワン・モア・ナイト」がかかっていた。アルバム「フィル・コリンズⅢ(ノー・ジャケット・リクワイアド)」が発売されたばかりであった。

 

大学受験には失敗したのだが、とりあえず東京で一人暮らしをしながら予備校に通うことになった。住みはじめた四畳半風呂なしのアパートの最寄り駅は地下鉄都営三田線の千石駅だったが、巣鴨駅にも歩いて行くことができた。2駅先に池袋があり、西武百貨店のディスクポートやパルコのオンステージヤマノを見つけた。六本木WAVEほどの売場面積はなかったが、それでも品揃えはかなりよくて、欲しい新作ならばたいてい買うことができた。それで、六本木WAVEにはそれほど行かなくなった。

 

それでもある秋の土曜日の夜、なんとなく行きたくなったのであった。地下鉄の階段を上りきり、右に曲がって近づいていくと、なにやらフリージャズのような音楽が聴こえてくる。入口付近でエントランスライブなるものが行われていて、若者たちが盛り上がっていた。こういうのなんだかとても良いな、さすが東京だな、と感じた記憶がある。その日は、シャーデー「プロミス」とロバート・パーマー「リップタイド」を買って帰った。

 

大学受験に合格すると小田急相模原に引っ越したので、六本木はますます遠くなった。それでもたまには遠路はるばる行って、フィリー・ソウルの重たいボックスセットを買って帰って来たりしていた。3年に進学するとキャンパスが厚木から青山通り沿いに変わった。六本木WAVEはとても身近になったのだが、その頃には渋谷ロフトにもWAVEができていた。近いので、こっちの方によく行くようになった。

 

アルバイトをすごくしていて、使えるお金がわりとあったのだが、そのほとんどを本かCDにあてていた。なんでも買えるので、ありがたみがあまり無くなっていた時期でもある。

 

フリッパーズ・ギターの「カメラ・トーク」は入荷してすぐに渋谷のWAVEで買って、特典のオレンジ色のキーホルダーのようなものももらった。このアルバムには強い衝撃を受けたのだが、後日、大学の講義が終わってからバスに乗って六本木WAVEに行くと、「カメラ・トーク」のチラシのようなものが置かれていて、裏面にはフリッパーズ・ギターが選んだネオアコ名作選的なものも掲載されていた。このチラシはもしかすると他のWAVEにも置かれていたのかもしれないのだが、私が見たのが六本木だったので、これで六本木WAVEはやはりすごいと思うようになった。

 

ただCDを陳列しているだけではなく、そこは新しい世界への入口のようにも思えた。インターネットなどまだなかった時代、この店は最高のメディアであった。

 

音楽雑誌にもまだ載っていないCDが、大々的に展開されていたりもする。まったくなんの情報も知らず、六本木WAVEでやたらと推されていたキャロン・ウィーラーの「UKブラック」を買ったら、やたらと良かった。実はSOUL Ⅱ SOULのボーカルだったとかいろいろあったのだが、これは間違いないと、よく分からない信頼があった。次にハッピー・マンデーズの「ピルズ・ン・スリルズ・アンド・ベリーエイクス」である。イギリスのマンチェスターで大流行し、マッドチェスターなどと呼ばれているインディー・ロックとダンス・ミュージックとを融合した音楽らしい。情報としては知っていたのだが、その中でも最も重要なバンドとされているストーン・ローゼズのアルバムが、買って聴いてみたものの、ただのロックにしか当時のリスナーとして未熟だった私には思えず、正直よく分からないとも思っていたのだが、六本木WAVEでの推しっぷりを見て、このハッピー・マンデーズのアルバムは買った。これはとても分かりやすかった。ロック的でもありながら、グルーヴ感もある。これからはイギリスなのではないかと、私の音楽の聴き方もそっち寄りになり、六本木WAVEにもよく行くようになった。

 

ある日、入口を入ってすぐのところからしてすでにKLFの「ホワイト・ルーム」が大量に陳列されていて、よく分からないのだが、なんだかこれはすごいのではないかと思って買った記憶がある。小田和正の「Oh! YEAH!/ラブ・ストーリーは突然に」やKAN「愛は勝つ」が大ヒットしていたあの頃、六本木でKLFをあれだけ猛プッシュしていたというあの頃の六本木WAVEは、やはりかなり攻めていたと思うのである。

 

当時、アルバイトでお金はわりと稼げていて、欲しい本やCDはだいたい買えていたのだが、貴重な青春時代をこんなことばかりに費やしていていいのか、という疑問も感じていた。その思いはどんどん大きくなっていき、やがて爆発した。本当はどこでなにがしたいのだろうかと考えるに、六本木WAVEで働けたらどんなにいいだろう、という考えになっていった。しかし、人材を募集しているところを見た記憶がなかった。おそらく働きたい人がいくらでもいて、なんらかのコネクションがないと入れないのだろうと思っていた。ある日、渋谷のWAVEに行くと募集の告知が掲示されていて、渋谷でもじゅうぶんに素晴らしいと思って問い合わせてみたところ、六本木を紹介してもらえた。しかも、まんまと採用されてしまうのだが、人材不足のクラシック売り場でまずは、ということであった。まったく興味がなかったのだが、やはり同じ希望を持った人たちも何人かいて、彼や彼女たちと休憩時間に「BEAT UK」の話をしたりするのはとても楽しかった。自動販売機では、カルピスウォーターがいつも売り切れていた。

 

休憩時間にはインド料理店のモティやサムラート、中華料理の四川飯店、イタリア料理のカプリチョーザなどに行くこともあったが、ポンパドウルで買ったパンを公園や休憩室で食べることも少なくなかった。22時の閉店まで働くと、渋谷行きのバスは深夜料金で通常の倍の金額になっている。当時も京王線沿線に住んでいたが、都営大江戸線はまだなかったのと、渋谷までの通学定期券を持っていたので、バスで渋谷まで出るのが最も早く、安く帰る方法であった。それでもお金がもったいなくて、渋谷から六本木まで歩くことも時にはあった。コンビニエンスストアの深夜のアルバイトをやっていた頃と比べ、収入は10万円ぐらい減っていた。バスに乗って発車を待っていると、吉野家で牛丼をかきこむ他の階の店員が見えた。プライマル・スクリームのライブに彼が来ていたと聞いて、いつか話してみたいと思っていた。青山ブックセンターの店頭に貼られていた宮沢りえ写真集「サンタ・フェ」のヌードのポスターを見て、私の後ろの席に座っていた商品管理の女性社員が「なんか寒そう」と言っていた。あと、防衛庁の方にあるドラム缶ラーメンとやらがやたらと美味いと評判であった。ここは天鳳という店で、現在は乃木坂に行く途中に場所を移して営業中である。数年前に、当時、モーニング娘。のサブリーダーであった飯窪春菜のブログにも取り上げられていたので行ってみたのだが、このご時世でも咥え煙草で調理をするファンキーな店であった。

 

宮沢りえといえば、売り場でおすすめのバースデーソングのCDを聞かれ、よく分からなかったのでスティーヴィー・ワンダーの「ハッピー・バースデー」が収録された「ホッター・ザン・ジュライ」をすすめた記憶がある。後に破局に終わった貴乃花との婚約会見も、六本木WAVEの休憩室のテレビで観た記憶がある。「ツイン・ピークス」もものすごく人気があって、休憩室でよく話題になっていた。

 

有名人ミュージシャンや芸能人はやたらとよく来店して、ミーハーである私はその度に冷静を装いつつ内心で大騒ぎしていたのだが、個人的に最も高まったのはモリッシーである。フリッパーズ・ギターは二人とも別々に見たが、当時、近所に住んでいたらしい小山田圭吾を見かける頻度は半端ではなかった。あと、後に三島由紀夫賞作家にもなる中原昌也が六本木ウェイヴに入ったミニシアター、シネ・ヴィヴァン・六本木や青山ブックセンターでアルバイトをしていてよく来ていたが、暴力温泉芸者という名義でCDを出しているとも言っていた。一時期、デス渋谷系などとも言われていたような気がする。ダグラス・クープランド「ジェネレーションX」の翻訳本を彼に貸したことがあるのが秘かな自慢なのだが、おそらく彼は覚えてはいないだろう。最後に会ったのは明大前にある会社の面接に行く時だったが、彼はモダーンミュージックに行くと言っていた。

 

レッド・ウォーリアーズが再結成した時にメンバー全員で来ていてそれぞれCDを買って行ったのだが、ダイヤモンド・ユカイだけが領収書を切らなくてロックを感じたとか、プリンス来日時にバックバンドのニュー・パワー・ジェネレーション御一行様のようにも見えるのだが確証がないので「ダイヤモンド・アンド・パールズ」をかけたら、ファンキーな女性ボーカリストがそれに合わせて歌いはじめたのでおそらく間違いないとか、そういう小ネタはまあ良いとして、マイケル・ジャクソンに接客できたのは貴重な経験だといえるだろう。もちろん当時のマイケル・ジャクソンといえば超大人気なわけで、営業時間中に来店されてはパニック必至である。それで、閉店後に貸し切り状態で買い物ができるようにしたようである。大学で英米文学科に通っていたので、それを理由に問い合わせなどを受ける係に任命された。サウンドトラックはどこかと聞かれたので、2階だと答えたことぐらいしか覚えていない。本当にああいう高めの声だったので、やたらと気分が盛り上がった。というわけで、よくある誰が一番メジャーな有名人を見たことがあるか対戦のようなものでは、いまだに負ける気がしないのである。


マイケル・ジャクソンはまだ売り場を見たそうだったのだが、何らかの時間切れによって、退店を余儀なくされた。そして、翌日に営業時間に来店した時には従業員一同、感激したものである。

 

この頃、六本木WAVEのメインの客層は大人のビジネスパーソンといった雰囲気もあり、J-WAVEでパワープッシュされがちなおしゃれなポップスを強力に推していたように思える。当時の私は六本木WAVEで知り合ったインディー・ポップ好きの人たちの影響も受けまくって、聴いている音楽もそっち寄りになっていたのだが、六本木WAVEそのものはそっちの方面をまったく推してはいなかった。それで、休みの日には西新宿のラフ・トレード・ショップなどでそれらのレコードを買っていたのである。ニルヴァーナが「ネヴァーマインド」でブレイクしたのと、オアシスやブラーの活躍でブリットポップが盛り上がるのとの間ぐらいの時期に、UKインディー方面でものすごく注目をあつめていたバンドがスウェードである。「NME」や「メロディー・メイカー」などで大絶賛されていたデビュー・シングル「ザ・ドラウナーズ」は当初、なかなか入手できなかったが、それでもその少し後に、ラフ・トレード・ショップで買うことができた。

 

六本木WAVEのやっと異動することができたポピュラーの売り場で仕事をしていると、スウェードについての問い合わせを受けた。個人的に大好きだったので、もちろん気持ちは盛り上がったのだが、売り場にスウェードのレコードは無い。聞いてみたところ、ソニーの社員らしく、新しいバンドをチェックしているのだという。私は店には置いていないけれど、個人的には持っていて、ものすごく気に入っているので、今度、カセットテープに録って持ってきましょうか、などとよく分からないことを言っている。そして、実際にそうした。数ヶ月後に彼女が売り場を訪れ、イギリスまで行ってライブも観たがすごく良かったので、今度、うちから出すことにしました、とのことであった。これには、良いことをしたという誇らしい気分に酔いしれたものである。店の売り上げには一切貢献していないが。その頃、少し前にはKLFを大量にディスプレイしていた入口を入ってすぐ辺りのスペースでは、アロマキャンドルなどを売っていた。

 

当時の六本木WAVEの私を含めた弱小メイト社員の間になぜか阪神タイガースのファンが多く、明治神宮球場に応援に行ったりもした。その年、阪神タイガースはペナントレースの終盤までヤクルトスワローズと優勝を争ったのであった。気になる女性店員がいて、休憩時間を合わせて一緒に食事に行ったりしていたのだが、帰りのエレベーターで会うと私服がヒョウ柄の細いパンツであった。ボン・ジョヴィのファンで、趣味がまったく合わないと知るのだが、まだ発売されていないボン・ジョヴィのサンプルカセットテープを入手してプレゼントするなど、涙ぐましいことをやっていた。

 

この頃、WAVEはいろいろな場所にでき、というか、かつてディスクポートと呼ばれていた西武や西友のCD売り場がWAVEになっていったのである。彼女は六本木WAVEを辞めた後で、地元である錦糸町の店舗で働いていたのだが、なにも言わずに会いに行ったり、後楽園遊園地でやっていた夜の部、ルナパークに誘ったりと、かなり迷惑なことをやっていた。ルナパークではじめて、韓国風お好み焼きとして売られていたチヂミを食べて、上に高く上がるタイプのアトラクションから地上を見下ろすと、東京スカパラダイスオーケストラがフリーライブをやっていて、すごく盛り上がっていた。水道橋であさりのスパゲティなどを食べて、彼女は中央線と総武線を乗り継いで小岩に帰った。私も一人で帰り、その日に買ったウルトラマリン「キングダム」のCDシングルを寂しく聴いた。そのうち、弟が電話を取り次いでくれなくなった。しあわせに暮らしていてくれたらいいな、と心から願う。

 

池袋のWAVEは西武百貨店に移転する前はLIBROの向かい辺りにあって、アナログ盤が六本木に比べると充実していて、日曜日に行くとニール・ヤングがかかっていた。大人の夫婦の夫の方が妻に、「これ買ってもいい?CDもいいけどレコードもいいね」などと言っていた。あと、小川美潮がインストアライブをやっていて、ビートルズの「ヒア、ゼア・アンド・エヴリホエア」をアコースティックでカバーしていた。

 

プロ野球で西武ライオンズが優勝するとエントランスでセールが行われ、私も何度かレジに立ったのだが、高校1年の頃にファンクラブに入り、誕生日にはオリジナルのバースデーソングを作って低クオリティーなギター弾き語りを録音したカセットテープをサンミュージックに送りつけるという嫌がらせめいたファン活動を行っていた早見優が来店して、20代ながら長生きはするものだなと思ったのであった。

 

その他にもいろいろあったのだが、とりあえずいまのところすぐに思い出せるのはこれぐらいである。

 

六本木WAVEは都市開発で六本木ヒルズができるので、1999年に閉店したのだが、当時、特に感慨もなく、行ってみることもろくにしなかった。ある時期以降は普通のCDショップとそれほど変わらなくなっていた印象があるのだが、それはかつての六本木WAVEが蒔いた種が他の場所でも花を咲かせたということでもあり、一定の役割は終えたということだったのかもしれない。WAVEそのものも少しずつ店が閉店していき、いろいろな会社に売却を繰り返し、2012年には完全に消滅した。

 

もうじき渋谷のパルコが大きく生まれ変わってグランオープンするらしいのだが、その中でWAVEというブランドも復活するらしい。当日も仕事で行けないし、当時とは何もかもがあまりにも違っていて、あの頃の興奮がよみがえるとはまったく期待していないのだが、あのロゴを見るとやはり興奮をおぼえずにはいられない。