九十九一やうまか棒について。 | …

i am so disappointed.

1981年の夏、母、妹と一緒に、汽車に乗って海へ行った。留萌の黄金岬だったような気がするのだが、もしかすると市内の別の海水浴場だったかもしれない。また、弟も一緒だったかもしれないのだが、その記憶も定かではない。なぜこれほどあやふやなのにもかかわらず、1981年だということがはっきりいえるかというと、この日のことをおもしろおかしく脚色して、九十九一の「パックインミュージック」に投稿し、番組で読まれたからである。九十九一の「パックインミュージック」が放送されていた8月は、1981年だけだった。

 

九十九一が日本テレビ系の「お笑いスター誕生」に初出演した回は、1980年11月22日に放送された。午前中で中学校の授業を終えた私は帰宅して、居間のテレビでこの放送を観たと同時に、ビデオテープに録画してもいた。当時の実家にビデオデッキが届いたのは、この年のことだった。小学生の日記をパロディー化したようなそのネタに私はすぐに魅了され、翌週以降も楽しみにするようになっていった。この週、九十九一の他に出演していたのは、大木こだま・ひかり、海原さおり・しおり、ゆーとぴあ、でんでんであった。

 

大木こだま・ひかりは10週をストレートで勝ち抜き、B&B、おぼん・こぼん、ギャグ・シンセサイザーに続く、4組目のグランプリを獲得したのだが、収録の直後に大木ひかりが薬物所持により、はく奪されることになった。収録済みだった8週目以降は、放送すらされなかった。大木こだまはその後、大木ひびきと新コンビを結成し、後に成功するのだが、1985年にはこの頃に「お笑いスター誕生」に出演していた海原さおりと結婚するということもあった。ギャグ・シンセサイザーはアマチュア挑戦で初のグランプリに輝き、所ジョージと同じ事務所、マイルストーンに所属していたが、後にメンバーの交通事故が原因で解散、グランプリはく奪、芸能界引退となった。九十九一も後にマイルストーンに所属し、所ジョージがメイン司会を務めていた「TV海賊チャンネル」にもレギュラー出演していた。また、当時、「お笑いスター誕生」の審査員の中にタモリがいたが、九十九一は「第2のタモリ」などといわれることもあり、タモリが司会を務めていたテレビ番組「今夜は最高!」にも出演していた。また、漫才ブームの人気者が多数出演していた「笑ってる場合ですよ!」「オレたちひょうきん族」にレギュラー出演していたこともある。

 

「笑っている場合ですよ!」では、ザ・ぼんちと一緒に金曜日のレギュラーであった。ザ・ぼんちの里見まさとと九十九一とは、同じ高校の出身ということであった。九十九一は根が暗い人のことを指す、根暗をテーマにしたコーナーを持っていた。これは、週刊誌の対談で山下久美子から、根が暗いといわれたことに端を発していた記憶があるが、もしかすると違っているかもしれない。スコラから書籍「緊急ダイヤル991を廻せ!」、アルファレコードからアルバム「九十九1~九十九一」の部屋も発売され、私はそのすべてを持っていた。岐阜放送というひじょうに出力の小さいローカルラジオ局で番組をやっていたのだが、私はナショナルプロシード2600というBCLラジオで、雑音混じりの長距離受信を試みていた。

 

「パックインミュージック」はTBSラジオで放送されていた深夜放送で、「オールナイトニッポン」などの裏番組であった。北海道ではネットされていなかったが、TBSラジオは出力大きいので、岐阜放送に比べるとずっと聴きやすい。1981年の4月から九十九一は金曜日のパーソナリティーとなり、もちろん毎週、聴くようになった。

 

当時の私はハガキ職人というほどではまったくないが、ラジオ番組にたまにはハガキを投稿して、読まれたり読まれなかったりしていた。九十九一は大好きな芸人だったので、やはりハガキを出して、できれば読まれたいと思っていた。

 

九十九一のネタにはラジオドラマ、ニュースのパロディーなど、ひじょうにラジオ的な要素が強く、一方で「お笑いスター誕生」で10週目に披露したお好み焼きのネタのように、演技力が光るタイプのものもある。そして、筒井康隆にも通じるようなSFタッチな発想によるネタも、わりと好きだった。

 

「パックインミュージック」では、「お笑いスター誕生」でも好評だったニュースパロディーネタもやっていたのだが、最も強く印象に残っているのは、「うまか棒のコーナー」というものである。もちろん、私のハガキが読まれたという事実もその一因になってはいる。

 

うまか棒とは、明治から発売されていたアイスキャンディーである。というか、実際には現在も発売されているのだが、小さいのがいくつか箱に入って、スーパーなどで売られているタイプのやつで、私が当時、よく買って食べていたバラ売りのやつはもう存在していないようだ。ナウなヤング、というか、もはや中年と呼ばれて久しい年代の人たちにとっても、うまか棒よりはうまい棒の方が有名なのだろうか。ご存じ、ドラえもんによく似たキャラクターがパッケージに印刷されていて、いろいろな種類の味がある、価格が手ごろなスナック菓子である。

 

うまか棒は1979年に九州限定で販売され、大ヒットしたらしく、1980年には全国発売されるのだが、テレビCMの「うま~か棒~」という低音ボイスによるジングル的なフレーズが強く印象に残った。当時の画像を検索すると、チョコナッツ、あずき、バナナなどがあったようで、確かにそんな感じだったような気もする。

 

九十九一の「パックインミュージック」におけるうまか棒のコーナーとは、一体なんだったのか。それをじつははっきりと覚えてはいない。しかし、いつの間にか九十九一があの「うま~か棒~」という低音ボイスのジングル的なものをおもしろがって何度もやっていて、いつの間にかコーナーになっていた。コーナーといっても実際によく分からず、うまか棒がテーマにさえなっていれば、どんな内容の投稿でもよかったような気がする。当時、確かセスナちゃんという、おそらく女性リスナーのハガキがよく読まれ、九十九一にも気に入られていたような気がする。

 

私もぜひ投稿して読まれてみたいという気持ちは強くあったのだが、なかなかネタが思いつかなかった。当時、私は中学3年で、弟は小学6年であった。自宅から小学校までの間にはいくつかの駄菓子や清涼飲料水などを扱っている商店があり、小学生の頃には私もよく利用していた。つまり、ペプシコーラを買って飲んだり、店頭に置かれている10円玉を入れて弾いて穴に落ちずにゴールまで行くと景品がもらえるゲームをやったり、指先に塗って指同士を付けたり離したりしていると煙のように見えなくもない「おばけけむり」とか「たたりじゃー」とかいわれていたもので遊んだりと、そういうことをやっていたのだ。ある日、弟が加藤商店から買って帰ってきた駄菓子に、うまい棒というのがあった。ヒット商品のうまか棒をパクったようなネーミングに加え、パッケージにはドラえもんに耳をつけたようなキャラクターが描かれていた。チーズ味というのを食べてみると、明治カールとほぼ同じ味がする、と私には思えた。つまり、パチモノ感に溢れるお菓子のように、私には思えたのである。

 

これは格好のネタを見つけたと思い、おもしろおかしく渾身の本文を書き、ハガキではなく封書で、うまい棒のパッケージも封入して送った。文面ではうまい棒のパチモノ性を、中学生なりのイディオムとレトリックで、思う存分に表現した。九十九一は番組で隣にいるマネージャーか放送作家かよく分からない人と、「ドゥーワップ、ドゥーワップ」「うま~か棒~」「うま~か棒~」などと掛け合いをする、「ドゥーワップうまか棒」なるものを開発するなど、とにかくうまか棒に夢中だったようである。そして、私の投稿は読まれた。真夜中の布団の中でガッツポーズをし、英語の学習をするという目的で親から買ってもらったカセットレコーダーで録音したカセットテープは、何度も繰り返し聴いたし、友人や家族や親せきに聴かせた。

 

ここをぜひ強調して読んでほしいと思っていた箇所がちゃんと強調されていて、そこもひじょうにうれしかった。そして、最後に「10円?やっすいなぁ。10円でおいしさを求めようとしてるあんたの方が間違うてますよ」などと、有頂天だったところで言われ、軽く心を痛めたりもしていた。

 

母や妹と海に行った時の話は、この次の投稿で、これも読まれたのだが、次も採用されたいという焦りからか、必要以上に話を盛りすぎたところはあった。前回の投稿がコーナーのわりと後の方に読まれたのに対し、この時は冒頭で読まれた。途中で笑いはあったものの、前回のような大爆笑ではなく、しかも最後に「ほんまですかねえ、これ」などとも言われていた。

 

頭の中ではなぜか、ジョージ・ハリスンの「過ぎ去りし日々」が流れていた。あれは土曜日だったと思うのだが、ミュージックショップ国原のビルボードの紙は、おそらく翌日に取りに行ったのだろう。エア・サプライ「シーサイド・ラブ」かリック・スプリングフィールド「ジェシーズ・ガール」あたりが、1位だったはずである。「お笑いスター誕生」はアゴ&キンゾーがとんねるずを破って優勝した、第2回ゴールデンルーキー賞に突入していた。

 

うまか棒とうまい棒の発売開始はいずれも1979年であり、しかも、うまか棒はその頃、まだ九州限定販売ということなので、商品名が似ているのはおそらく偶然であり、私が当時、うまい棒に感じたパチモノ感というのは、じつはまったくの見当違いだったことになる。