私が大橋荘で生活をしていた1985年の春から翌年にかけて、予備校で知り合った東京で初めての友人たちの中に、恵比寿に住んでいるという者が1人いた。彼の家に遊びにいくと、同じビルの1階にある中華料理店から出前をとってくれることがあり、特にチャーハンがとても美味しかったことを覚えている。
先日、恵比寿をフィールドワークしていた時に、いまさらながらおそらくその中華料理店を特定することに成功した。なぜならそのビルにはおそらく間違いがないし、1階の中華料理店の外に「お客様に愛され40年」というような貼り紙のようなものが貼られていたからである。店の中でも食べたことがあったと記憶しているのだが、外から覗いてみると、なんとなくそんな雰囲気もあったのである。
その日はその前に六本木の香月でラーメンを食べたばかりだったので、もちろん食事をする気にはならなかった。その香月も元々は恵比寿にあった有名店で、やはりこの友人に連れていってもらったのだった。その時のインパクトが強烈で、いろいろ調べてみたところ、紆余曲折の末に現在は六本木で営業していることを知って行ったのであった。
この中華料理店の名前は吉兆というのだが、店の看板には「らーめん 餃子 各種定食」と書かれていて、チャーハンのことはそれほど強調されてはいない。当時、チャーハンの他に餃子も食べたもとがあるような気がするのだが、ラーメンについてはまったく覚えていない。香月のインパクトがあまりにも強すぎたため、忘れているだけかもしれない。
今回はこの吉兆でチャーハンを約33年ぶりに食べることを目的として、出かけることにした。その前の予定が早々に終わってしまったため、恵比寿には想定していたよりも早く着いてしまった。恵比寿で降りる時にはだいたい上の方の改札を出て、長いエスカレーターで下りてくることがほとんどなのだが、今回は慣れないJR埼京線で下車したこともあり、下の改札から出てきた。すぐに東京メトロ日比谷線の駅入口があり、これは当時の感覚にわりと近いと思ったのだった。
あらかじめ取得していた情報によると、吉兆の開店は午前11時だということである。東京メトロ日比谷線の駅出入口を越えていくと信号があり、横断歩道を渡ると恵比寿一番会となる。LIVEMAXという不動産仲介業のような企業の大きな看板があり、よしもとクリエイティブエージェンシー所属の芸人がイメージキャラクターとして載っているのだが、陣内智則、入江慎也(カラテカ)、とろサーモン、かまいたちなどに混じり、クロスバー直撃の渡邊孝平がわりと大きめにフィーチャーされているのが印象的である。
吉兆にはわりとすぐに着いてしまう。大橋荘に住んでいた頃の記憶では体感でもう少し距離があったような気がするのだが、あてにならないものである。また、恵比寿一番会に入り、吉兆に着くまでの間には、少し地下に下りていくようなタイプの書店やレトロな雰囲気の喫茶店などがあったような気もするのだが、いまとなっては一体それがどこだったのか思い出すことができない。あまりにも早く着きすぎてしまったので、その向かい側にあるスーパーのピーコックに入り、なにか目新しいものが売っていないかと思い、売場を見ていた。蒲鉾のコーナーに、宇部かまの蒲さしが売られていた。宇部かまは山口県宇部市の蒲鉾メーカーである。2007年に道重さゆみについてのフィールドワークで山口県を旅していた時、地元のタクシー運転手にお土産について聞いたところ、蒲鉾が有名だという話を聞いたのだった。フジグラン宇部の食品売場に行くと、宇部かまの商品がたくさん売られていた。蒲さしは読んで字の如く蒲鉾のお刺身であり、切って醤油をつけて食べるようである。実際に買って食べてみたのだが、歯ごたえがあってなかなか美味しい。
それにしても時間がありすぎるので辺りを散歩して、11時近くなったので吉兆の近くを通ったのだが、店内に客の姿はまったく見られず、そもそも開店しているのかどうかすらはっきりしない。事前に入手していた情報によると、吉兆はおいしいのだが接客がまったくフレンドリーではなく、混雑時などはオーダーが通りにくかったりということもあるようである。このような事態を懸念して、昼休みの混雑がはじまる前に入店しようと思っていたのだが、客が私一人だけの状況というのもそれはそれで緊張感が走りそうである。理想は2、3組目というところだろう。などと思っていたのだが、開店時刻から20分ぐらいが過ぎたにもかかわらず状況は変わらない。心が折れかけて一旦、恵比寿駅まで戻ったのだが、11時30分に行ってそれでも状況が変わっていなかったとしたら、今日のところはやめておいて日を改めて出直そうと思った。
それで、11時30分に恵比寿駅前から歩きはじめたのでおそらくその数分後だったと思うのだが、店の前でメニューを見ている母親と息子のような2人組がいる。そのうちに1人の男性会社員風の人が店に入っていき、いまこそその時だと思い、私も入ったのだった。ほぼ同時に、若者の客も入ってきた。店内にはキッチンを囲むようにしてカウンターがあり、当時もこのような感じだったような気もするのだが、記憶が定かではない。そして、メニューが置かれているわりと無難そうな席に着くやいなや、すぐに中華定食と注文を告げた。
本当に食べたいのはチャーハンだったのだ。680円で、味噌汁も付いているという。スープではなく味噌汁である。チャーハンだけでは物足りないだろうと思い、これも当時、食べたような気もする餃子も一緒に注文しようかとも思った。そうすると1000円を超えてしまう。店頭のメニューを見ると、すすめの定食というのが3種類あり、いずれも950円だという。吉兆中華定食はラーメン、餃子、半チャーハン、吉兆焼肉定食が焼肉飯、餃子、半ラーメン、吉兆肉野菜定食はラーメン、肉野菜炒め、ライスである。看板に「らーめん 餃子 各種定食」と書かれていたので、ラーメンと餃子が売りなのだろう。本当に食べたいのはチャーハンなのだが、この中でチャーハンがセットに組み込まれているのは吉兆中華定食だけである。しかも、半チャーハン。別に量がそれほど食べたいわけでもないので、これでいいのではないかという気分になってきた。これでチャーハンと餃子をそれぞれ単品で注文した金額が定食を上回っていなければ間違いなくそちらにしたのだが、せっかく安い金額でいろいろな物を食べてもらおうと店側が工夫してくれているのだから、という謎のよく分からない気の使い方で吉兆中華定食にしたのであった。そして、この店が吉兆であることは明白なわけなので、注文時には中華定食と伝えるべきなのだろうと思い、そうした。
他の客もそれぞれ「すいません」と店員に声をかけて、それぞれの注文を伝えていた。メニューは他にもいろいろあるのだが、それを2人だけで切り盛りしているので、わざわざ注文を聞きにいく余裕などはないのだろう。このことは事前に調べて、知っていたのでよかった。 しかし、けして客に対して失礼な態度を取っているというわけではまったくなく、このようなスタイルなのだろうし、これはこれでグルーヴに身をまかせれば気持ちよくも感じられる。ネギ抜きなどというややこしめな注文にも、難なく対応しているようであった。私の近くに座った若者はチャーハンのセットのようなものを注文していて、そんなのがあったならそれにすればよかったと思ったのだが、メニューを確認したところ、その得々チャーハンセットというのはチャーハンと肉野菜炒めか麻婆豆腐らしく、餃子とのセットは無いようだったので、やはりこれでいいのだと安心をした。
そうこうしているうちに、まずラーメンが届いた。いわゆる東京ラーメンというか、中華そば的なものを想像していたのだが、わりと味が濃くて油も多めなガツンとくるタイプであった。具はチャーシュー、ゆで卵、ナルト、焼き海苔である。恵比寿でラーメンというと女性にも人気のスタイリッシュな人気店、AFURIのことが思い出される昨今だが、同じ恵比寿でもこちらはほぼ逆ベクトルである。そして、餃子は街で評判の中華料理店で出されるタイプの、間違いがないやつである。そして、最後に半チャーハンだが、これはとての懐かしくて、あくまで個人的な感想ではあるが、圧倒的に正しい。いわゆるパラパラ系であり、味も濃すぎず絶妙である。期待をまったく裏切らないクオリティーであった。この店の雰囲気や流儀的なものもなんとなく把握できたような気がするので、次にはチャーハンをメインとして、また来てみたいと思ったのであった。




