仲井戸麗市「THE 仲井戸麗市 BOOK」の記憶。 | …

i am so disappointed.

1985年、私が高校を卒業し、東京で一人暮らしをしてからはじめてRCサクセションのライブを観たのは8月11日だったようだ。これまで一度も気にしたことがなかったが、調べてみたところそうだった。その日、昼間には雨が降っていたことも、当日に参加していた方のブログ記事を読んで思い出した。このライブのチケットは、巣鴨駅前の電話ボックスから電話をして、丸井チケットガイドで買ったような気がするのだが、もしかするとチケットぴあかチケットセゾンだったかもしれない。とにかく、深夜にテレビをつけていると情報番組でこのライブの告知をしていて、先行予約を受け付けるというようなことを言っていたのだ。当時、住んでいた千石のアパートには電話を引いていなかったし、もちろん携帯電話などはまだ持っていないので、10円硬貨を何枚かポケットに入れて、巣鴨駅前まで行ったのだった。おそらく違法だったような気もするのだが、当時、電話ボックスにはたくさんの風俗のチラシのようなものがベタベタ貼られていた。私は公衆電話に10円硬貨を投入し、メモした電話番号にかけるのだが、ずっと通話中の状態が続き、つながるまでずっとそれを繰り返した。その間、風俗のチラシのようなものを貼る仕事をしている人が外で待っていて、ついに耐え切れず、とりあえず貼らせてくださいという感じで、まだ電話がつながっていないうちに電話ボックスのドアを開けて、貼っていったような記憶がある。

 

このライブはなぜか夏の終わりに観たような記憶があったのだが、8月11日ということはお盆の前であり、まったく違っていたことが分かった。当時、私は水道橋の予備校に通っていて、この少し後に短い夏休みがあったので、その期間を利用して旭川の実家に帰っていたのだ。RCサクセションのライブを観たのはその後だったような気がしていたのだが、実はそれよりも前であった。そして、この翌日、8月12日には多数の死者を出した日本航空123便墜落事故が起こっている。この事件のことはテレビで観ていたのだが、それがRCサクセションのライブを観た翌日だったことはまったく覚えていない。記憶とは実にあやふやなものである。

 

ライブが行われたのは埼玉県所沢市の西武球場、プロ野球の西武ライオンズが本拠地としていたところである。この年のプロ野球では吉田義男監督が率いる阪神タイガースがバース、掛布、岡田のクリーンナップトリオの大活躍もあって、21年ぶりのリーグ優勝を果たした。パシフィックリーグでは西武ライオンズが優勝したが、日本シリーズで阪神タイガースに敗れ、大阪の道頓堀川には興奮した阪神ファンによって、ケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダーズ像が沈められた(24年後の2009年に発見された)。1999年に西武ドームとして生まれ変わるのだが、当時はまだ屋根のない球場(というか、ドーム球場そのものがまだ日本には存在していなく、1988年の東京ドームがその第1号となった)であり、雨が降るとその影響を大きく受けていた。

 

私がRCサクセションのライブを観るのはこれが2回目であり、最初はこの2年前の1983年、季節はやはり夏で8月6日のことであった。RCサクセションとサザンオールスターズの当時における2大人気バンドが競演した伝説のイベントが、北海道札幌市の真駒内屋外競技場で行われた。その後、RCサクセションにはレーベルの移籍や所属事務所からの独立などがあり、私が東京で一人暮らしをはじめた少し後の1985年4月21日にはシングル「すべてはALRIGHT (YA BABY)」をリリースしていた。他に忌野清志郎に関連したリリースとしては、どくとる梅津バンドとのユニット、DANGERによる4曲入りミニアルバム「DANGER Ⅱ」が7月20日にリリースされていて、これは日曜日に巣鴨のDISC510こと後藤楽器店か西友のレコード売場のいずれかで買ったはずである。

 

1981年の「BLUE」以降、RCサクセションのアルバムには仲井戸麗市がリードボーカルを取る曲が1曲収録されていた。「BLUE」の「チャンスは今夜」、「BEAT POPS」の「ハイウェイのお月様」、「OK」の「ブルドッグ」、「FEEL SO BAD」の「セルフポートレート」、そして、1982年にオリコン週間シングルランキングで最高6位のヒットを記録したシングル「サマーツアー」のカップリング「ノイローゼ・ダンシング」でも、仲井戸麗市がリードボーカルを取っていた。RCサクセションの音楽を特徴づけているのは、やはり忌野清志郎の独特なボーカルなのだが、それだけに仲井戸麗市によりリードボーカル曲はアルバムやライブにおいて、程よいアクセントになっていたようなところがある。

 

そしてこの日、西武球場で行われたライブにおいて、仲井戸麗市は発売前の初のソロアルバム「THE 仲井戸麗市 BOOK」から、「ONE NITE BLUES」を演奏した。RCサクセションの、それまでに仲井戸麗市がリードボーカルを取ってきた曲ともまた違う、ひじょうにブルージーな曲調であり、会場は驚きにつつまれていたような印象がある。しかし、当日、この同じライブを観ていた方の感想ブログを読むと、別にそうでもなかったというようなことも書かれていて、当然のことながら人の感想というのはそれぞれである。私の隣にいた高校生ぐらいの男性は、「チャボ、すげえブルースしてんな」というようなことを呟いていた。

 

「大磯まで逃げられりゃ 逃げ切れるはずなのに 久里浜年少 久里浜年少 ONE NITE BLUES」という歌詞は聴き取れた。但し、「久里浜」という地名をおそらく当時の私は知らなかったので、それがどのような漢字なのか、また、タイトルでもある「ONE NITE BLUES」の「NITE」が「NIGHT」ではないということも、アルバムを買って歌詞カードを読むまでは知らなかった。「大磯」という地名については、よくテレビで観た芸能人による水泳大会がよく行われる大磯ロングビーチの存在によって、かろうじて知っていた。「年少」が少年院を指していることは、中学生の頃に同じ学年の「ツッパリ」がそう言っていたので知っていた。神奈川県横須賀市には実際に久里浜少年院があるようだが、調べてみたところ、大磯までは思っていたよりも距離があった。

 

「THE 仲井戸 BOOK」は1985年8月31日にリリースされ、私はすぐに買ったはずである。どこのレコード店で買ったかはよく覚えていない。アルバムはRCサクセションでの仲井戸麗市の延長線上にはあったものの、かなり異なった音楽性を持ってもいて、ひじょうに衝撃を受けた。

 

1曲目に収録された「別人」のまず最初に出てくる歌詞が「俺の脳ミソ レヴォリューション」である。「Oh! 俺は別人」と、これはいわゆる変性意識状態のことを歌っているのだろうか。続く「カビ」には、やや密室的な雰囲気がある。「夏に冬を過ごし 冬に夏を感じる インテリアの植物園でも心なごむ」「ビデオとオーディオセットで夜を越せる」と、部屋の環境を快適にカスタマイズして日常を豊かにするライフスタイルは、この頃に流行していたような印象があるが、それはRCサクセション的なロックンロールのイメージにはあまり似合わなかった。しかし、仲井戸麗市はRCサクセションに加入する前、古井戸の頃にも「早く帰りたい」という曲をつくって歌っていたようなアーティストである。そのような生活を快適だと思いながらも、「カビの生え出す頭 カドの取れ出す顔」と自嘲もする。「まぎれ込んだ幸福(しあわせ)なら失いたくない 生まれながらの不幸福(ふしあわせ)なら逆手に取っとく めぐまれてる分だけ やさしく出来る」は名フレーズである。「カビ」は「黴」であると同時に「華美」や「過美」でもあり、最後の「美し過ぎて君がこわい」は野口五郎の1973年のヒット曲「君が美しすぎて」からの引用だろうか。

 

「BGM」はロック・アーティストの立場から当時のライト感覚のポップ・ミュージックシーンに毒づいた内容である。「まじめはみじめ 明るい振舞い 醜さ隠して 綺麗にやろう」は当時の1980年代的なムード全般に対する皮肉のようにも聞こえる。「夏に浜辺 冬にゲレンデ」「恋人達へステキなBGM」はまさに「SURF&SNOW」のコンセプトのようであり、当時のシティ・ポップ的な音楽の浸透を逆に記録しているかのようである。

 

「ティーンエージャー」は「ティーンエージャーだった頃のように ボーイフレンドにしておくれよ」と、当時、34歳だった仲井戸麗市が青春時代を懐かしむかのような作品であり、「学校は卒業したけれど ハッピーバースデイは重ねているけど 何を卒業したんだ.....」は同じ年の春にヒットした尾崎豊「卒業」と似たテーマを、より大人の立場から歌っているようでもある。「夏なら おまえはサーファーガール 俺は無理して ビーチボーイ」という歌詞が、微笑ましくてグッとくる。

 

続く「秘密」は二人だけの秘密を持とうと歌われ、「隠れ蓑を着よう 口裏合わせよう 奥歯に物を挟んでしゃべろう」「いい逃れさがそう 狭い心持とう 腹を割らずに彼等と話そう」という歌詞は、忌野清志郎が書いたRCサクセションの「君が僕を知ってる」「わかってもらえるさ」などにも通じるところがある。

 

当時、私が買ったアナログレコードではA面の最後に収録されていた「打破」には、個人的には「カビ」と対になっているような印象がある。「変りばえのしねえ 判で押した毎日 いい加減 打破 打破 打破」という歌いだしの部分にその内容は凝縮されているが、やはり「退屈しのぎにゃ 他人の不幸をのぞく 俺にゃ痛くもかゆくもねーもんな」「沁(し)み込んでる 贅沢三昧」などと自嘲的な表現がある。ライブでは最後が「ダハハハハ」と、まるで笑っているようにして終わる(1986年にリリースされたRCサクセションのライブアルバム「the TEARS OF a CLOWN」で聴くことができる)。

 

B面は「早く帰りたい PART Ⅱ」からはじまるが、この曲には忌野清志郎がコーラスで参加している。当時、「PART Ⅱ」と付いているぐらいなのでおそらく「PART Ⅰ」もあるのだろうと思っていたのだが、それは加奈崎芳太郎とのデュオ、古井戸が1974年にリリースしたアルバム「fluid vol.2 四季の詩」に収録された「早く帰りたい」だったようである。曲調やテーマには似たところがあるが、歌詞もメロディーも別の曲である。

 

そして、次にこのアルバムの中でも最もプライベートな感触を持つ「MY HOME」が収録されている。「MY HOME」とは「我が家」というような意味だが、カタカナで「マイホーム」と表記した場合、それは「マイホーム主義」のような、仕事や社会よりも家庭を大切にするというニュアンスを持ち、それ自体は人の生き方としてひじょうに正しいのだが、なぜかある時期までやある種の日本人にとっては否定的に捉えられる場合が多い。しかし、社会とは家庭をも含むものであり、けして企業で働くことだけが社会活動ではないことは当然であるし、仕事は基本的に生活をするためにするもので、仕事をするために生活をするわけではない。よって、「マイホーム主義」は人間性や個であることを肯定してくたロックというアートフォームの本質となんら矛盾するものではない、と私は考える。

 

このアルバムは妻であるカメラマンのおおくぼひさこに捧げられてもいるのだが、「狭いながらも 楽しい我が家さ」「お前の胸で眠るさ お前の胸で眠ればいい」と歌われる「MY HOME」からは、その仲睦まじい関係性が伝わってくるようである。そして、さらにグッとくるのが次に収録された「月夜のハイウェイドライブ」であり、「もうずいぶん二人一緒にいるようで おまえの匂いみんな覚えたさ」「バラを持って帰ると喜ぶなら いつか花屋と顔なじみさ」というところなど、これこそが大人のラヴ・ソングという感じである。そして、「みんな思い出になるくらい 一緒に出かけよう」である。

 

続いて、私がこのアルバムのリリースに先がけて、西武球場で行われたRCサクセションのライブで聴いていた「ONE NITE BLUES」である。このアルバムの裏ジャケッとには、「私は学校や教師への憎しみでいっぱいである」という意味の英文が手書きの文字で印刷されている。そして、その気分が最も表れているのがこの曲である。しかし、これは昔はヤンチャしてました的な作品ではあるはずがなく、「事無かれの団体主義は表情の無い顔につけ変える」という歌詞にも表れているように、個であることを否定する権力に対するレジスタンスである。そして、その気分はずっと続いている。

 

アルバムの最後に収録されているのは、インストゥルメンタルの「さらば夏の日’64 AUG」である。1960年10月9日生れの仲井戸麗市が13歳で、中学2年生だった夏である。そう、そしてこのブログ記事がアップされたこの日は、仲井戸麗市の誕生日である。

 

音楽性はルーツであるロックやブルーズの影響を受けたものだが、どこか突き抜けたポップ感覚があり、そこがまたとても良い。このアルバムを聴くと、東京で一人で暮らしはじめた頃の18歳の気分が甦ってくる。そして、それはまったく懐かしくはなく、むしろとても生々しいものでもあり、私の精神性の根幹をなすものだと気づかされる。

 

 

 

 

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