1981年10月10日にフジテレビのバラエティー番組「オレたちひょうきん族」が放送を開始したらしい。といってもこれはレギュラー番組としての話であり、「決定!土曜特集」という特番枠では同じ年の5月16日から放送されていた。この境目を当時はまったく意識していなかったし、特番時代は毎週放送されていたわけではなかったことも知らなかった。
この年の春に中学校の修学旅行があり、おそらく函館のホテルに泊まっていたのではないかと思う。私が当時、通っていた中学校は旭川にあり、修学旅行で同じ都道府県内なのかと思われるかもしれないが、よく知られているように北海道は1つの都道府県にしてはとても広いので、これはごくありふれたことだったのではないかと思う。私が函館に行ったのは、いまのところこの時が最後であった。
その宿泊したホテルの部屋で、特番時代の「オレたちひょうきん族」を観た記憶がある。修学旅行は5月の後半に行われていたはずである。オープニングを観て、すごいメンバーによる番組がはじまったなと思ったのだが、内容はよく覚えていないので、その時はオープニングぐらいしか観ていない可能性も高い。
漫才ブームは1980年ぐらいにはじまった印象があり、その大きなきっかけとなったのはフジテレビ系で放送されていた「THE MANZAI」であった。2011年から数年間、同じタイトルの番組がフジテレビで年末に放送され、ジングルも同じものが使用されていたが、あれはテレビ朝日系で年末に放送されていた「M-1グランプリ」の終了による、他局ではあるものの後継番組的な意味合いがあった。その年の最も面白い漫才コンビを決めるという名目のコンテスト番組である。それに対し、1980年から放送されていた「THE MANZAI」にコンテスト的な要素はなく、ただ人気の漫才コンビが次々と登場し、漫才を披露するというものであった。
1980年4月1日に放送された第1回に出演していたのは、ツービート、島田紳助・松本竜助、B&B、ザ・ぼんち、星セント・ルイス、中田カウス・ボタン、横山やすし・西川きよしの6組であった。フレッシュな若手と安定したベテランがバランスよく組み合わされた印象であり、星セント・ルイスなどはすでに東の漫才界を代表するような存在感を持っていたが、結成年はツービート、B&B、ザ・ぼんちよりも1年早いに過ぎなかった。
また、この年の5月20日に放送された第2回からは、オール阪神・巨人と西川のりお・よしおが出演している。当時、中学生だった私の印象としては、オール阪神・巨人は横山やすし・西川きよしと同様にベテラン枠という印象があったのだが、結成はツービート、B&B、ザ・ぼんちよりも遅く、島田紳助・竜介より1年早いだけであった。また、オール阪神・巨人と同じ年に結成された西川のりお・上方よしをは、B&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜助、若手落語家の春風亭小朝と共に、「THE MANZAI」と同じ横澤彪プロデューサーによってこの年の10月1日からはじまった平日正午からのバラエティー番組「笑ってる場合ですよ!」のレギュラー出演者に抜擢された。
「THE MANZAI」の第1回が放送される時点で、漫才の人気はある程度は盛り上がっていた。やはりフジテレビ系で1980年1月20日に放送された「花王名人劇場」の「激突!漫才新幹線」には横山やすし・西川きよし、星セント・ルイス、B&Bが出演し、高視聴率を記録していたという。また、「THE MANZAI」の第1回が放送された11日後、4月12日からは日本テレビ系で土曜正午からのオーディション番組「お笑いスター誕生」がはじまり、7月5日の放送においてはB&Bが番組初の10週勝ち抜きグランプリを獲得している。
この4日前である7月1日にフジテレビ系では「THE MANZAI」の3回目が放送されているのだが、初回から好調だった視聴率が爆発的に上がったのはこの回だったという。出演者はB&B、ザ・ぼんち、ツービート、島田紳助・松本竜助、西川のりお・上方よしお、春やすこ・けいこ、横山やすし・西川きよしだが、私が漫才ブームの中心メンバーとして最もしっくりくるのも、このラインナップである。
翌日、登校すると、前の晩にテレビを観ながらネタの印象的なフレーズを紙にメモして持ってきた者がいたり、同じクラスのO田君のように「漫才つまんねえええ」などと早くも逆張りをはじめる者すらいたのであった。私はその少し前にたまたまテレビで観たB&Bの漫才を結構面白いじゃないかと思った記憶があるが、ブームの到来をその時点では実感していなかったと思う。しかし、この「THE MANZAI」の第3回が放送された翌日、水曜日の教室で、それは確実に訪れたのだと強く実感した。
私は「THE MANZAI」を第1回から観ていたと思うのだが、「お笑いスター誕生」を観はじめたのはたまたま九十九一が1週目の回だったので、11月22日からである。同じ週に1週目のチャレンジをした大木こだま・ひかりは10週勝ち抜きグランプリを獲得するのだが、大木ひかりの不祥事により失格となり、8週目以降はすでに録画されていたものの放送はされなかった。この週には「THE MANZAI」の2回目にも出演していた海原さおり・しおりが5週目の挑戦をしていたが、この5年後に大木こだまと海原さおりは結婚をする。大木こだまは新たな相方とコンビを組み直し、それが現在の大木こだま・ひびきである。
「オレたちひょうきん族」は「THE MANZAI」「笑ってる場合ですよ!」と同じく、横澤彪プロデューサーによる番組である。出演者もこれらの番組とかなり重複していて、漫才ブームで人気絶頂のメンバーが中心になっていた。しかし、コンビを一旦解体し、各メンバーを自由にシャッフルさせて、コントやパロディーなどをやっているところが面白かった。
「THE MANZAI」の成功は、それまで主に中高年が好んで観る演芸であった漫才に、あえて当時でいうところのナウなヤングをターゲットとした演出をほどこしたことによるものであろう。ラスベガスのショーのような出囃子、小林克也によるDJ風の紹介、客席にも若者ばかりを集め、特にはじめの頃などは不自然なぐらいに盛り上がっている。
そして、「オレたちひょうきん族」にもやはり、若者受けするようなポップで都会的な演出がなされていた。象徴的だったのは、エンディングテーマに使われていたEPOの「DOWN TOWN」であろう。元々は山下達郎や大貫妙子が所属していたことで知られるバンド、シュガー・ベイブが1975年にリリースした曲だが、その当時はヒットしていない。EPOによるカバーバージョンは1980年3月21日にリリースされたが、これも特にヒットはしていない。しかし、ラジオではよくかかっていた印象がある。リリースから1年以上経って、「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマに使われた「DOWN TOWN」は、しかし、この番組の雰囲気にとてもマッチしていた。
「土曜日の夜はにぎやか」「暗い気持ちさえ すぐに晴れて 皆 ウキウキ」という歌詞が、とても印象的である。当時、私は中学3年生であり、高校受験を控えて、わりと精神的に不安定になっていたようなところもあるが、この番組を観ている間は頭を空っぽにして楽しむことができた。そして、エンディングでこの曲がかかる頃には、あー今週も面白かったな、と思うのであった。しかも、土曜日の夜にはまだラジオ関東の「全米TOP40」を聴くという楽しみもあるし、翌日は学校が休みである。この開放感に、「DOWN TOWN」の曲調はピッタリであった。
また、1980年に入って、ライトでポップな感覚こそが新しくてカッコいいという風潮になり、それを象徴するのがテクノポップ、アイドル、漫才のブーム、そして、シティ・ポップのお茶の間化だったのではないかと思う。よって、われわれは「暗い」と言われたり思われたりすることに対して、必要以上に神経質になっていた。そのような状況での「暗い気持ちさえ すぐに晴れて 皆 ウキウキ」はかなり強い。
「オレたちひょうきん族」には、「ひょうきんベストテン」というコーナーがあった。「ザ・ベストテン」のパロディーであり、司会ははじめは明石家さんまだったが、わりと早い段階で島田紳助に交代した。当時は漫才ブームということもあり、お笑い芸人がレコードを出すケースがひじょうに多かった。最も有名なのは1981年の元旦にリリースされ、オリコン週間シングルランキングで2位を記録したザ・ぼんちの「恋のぼんちシート」である。同じ日にニッポン放送で「ビートたけしのオールナイトイッポン」が放送開始するのだが、この番組では「恋のぼんちシート」のパクリ疑惑を追及するのだが、作詞・作曲者の近田春夫があっさり認めたため、すぐに終息した。
「ひょうきんベストテン」には、このようなお笑い芸人によるレコードが多くランクインしていた。第1回の1位は、ザ・ぼんちの「ラジオ」だったようである。当時のお笑い芸人のレコードで、私がひじょうに印象深く覚えているのが、うなずきトリオの「うなずきマーチ」と山田邦子の「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」である。
うなずきトリオは、島田紳助・松本竜介の松本竜介、ツービートのビートきよし、B&Bの島田洋八による3人組である。元々は漫才のネタにおいて、早口でボケる島田紳助に対し、ツッコミである松本竜介の話す量が少ない、うなずいているだけであるという指摘から、同様のスタイルを持つツービート、B&Bのツッコミとトリオを組んだらどうなるか、というような話から生まれた。「オレたちひょうきん族」では、第1回からうなずきトリオによる漫才を観ることができた。一方で、B&Bの島田洋七、西川のりお・上方よしおの西川のりお、ザ・ぼんちのおさむによる、やかましトリオというのも結成されたが、こちらは定着しなかった。
うなずきトリオによるレコードとして1982年1月1日にリリースされたのが「うなずきマーチ」で、作詞・作曲は大瀧詠一、編曲はその変名である多羅尾伴内である。1981年の春にアルバム「A LONG VACATION」、秋には松田聖子「風立ちぬ」、ナイアガラトライアングル「A面で恋をして」をヒットさせていた大瀧詠一(アーティスト名は大滝詠一)は、このような曲も書いていたのである。1981年の大瀧詠一といえばすっかり後にシティ・ポップと呼ばれるような音楽のイメージだったが、1970年代にはノベルティソングも得意としていて、1980年代にも金沢明子「イエローサブマリン音頭」をプロデュースしたりしている。「うなずきマーチ」はそのような大瀧詠一のノベルティーソングの系譜に属する曲であり、マーチでありながらもサーフ・ロックのトラッシュメン「サーフィン・バード」からの影響も感じられる。オリコン週間シングルランキングで最高55位を記録した。B面は高平哲郎の作詞による「B面でうなずいて」である。
また、「邦子のかわい子ぶりっ子(バスガイド篇)」は1981年12月5日にリリースされた山田邦子のデビューシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高30位を記録している。曲の内容は、当時の山田邦子の得意ネタであったバスガイドのコントを丸ごと収録したようなものであり、作詞も山田邦子本人となっている。作曲・編曲は渡辺直樹となっているが、シックの「グッド・タイムス」というか、そのベースラインを使ったシュガーヒル・ギャング「ラッパーズ・デライト」からの影響も感じさせる。個人的にはブロンディ「ラプチュアー」やトム・トム・クラブ「おしゃべり魔女」に近い雰囲気も感じ、ヒップホップの要素を取り入れた日本のポップスとしてはひじょうに早かったのではないかという気がしている。演奏には日本のブラスロックバンド、スペクトラムが参加しているという話もあるようだ。確かにいま聴いてもかなりカッコいい。また、山田邦子の歌詞というかネタにおいては、「江川なんて大きらい 小林をかえせ」と、プロ野球界を震撼させた1978年から翌年にかけての「江川問題
」をこの期に及んで話題にしているのが印象的である。
また、さらに悪ノリが過ぎる例としては、「オレたちひょうきん族」のディレクターである佐藤義和、三宅恵介、荻野繁、山縣慎司、永峰明がひょうきんディレクターズとして「ひょうきんパラダイス」なるレコードをリリースしていたことである。しかも、軽快なテクノ歌謡としてなかなかクセになるこの曲を、私はわりと気に入っていたりもするのである。
「ひょうきんベストテン」にはこのようなお笑い芸人や、時には番組ディレクターの持ち歌がランクインすることもあれば、一般のアーティストの曲もちゃんと入っていた。時にはアーティスト本人がゲストとして出演することもあったが、大抵はお笑い芸人が演じていた。西川のりおによる沢田研二、片岡鶴太郎による近藤真彦などが強く印象に残っているが、薬師丸ひろ子を少し似ていなくもないタレントや、小泉今日子をなぜか子役のような人が演じていたりもした。田原俊彦は当初、松本竜介が演じていたが、やがてトシちゃんつながりで「アホの坂田」こと坂田利夫が演じるようになった。
1981年10月には日本テレビ系で裏番組として「ダントツ笑撃隊!!」がはじまり、ザ・ぼんちはこの番組に出演するために「オレたちひょうきん族」のレギュラーを外れた。この番組にはとんねるず、コロッケ、小柳トム、九十九一といった「お笑いスター誕生」出身のお笑い芸人が出演したが、年内で打ち切りになった。この番組には「お笑いスター誕生」出身者ではないが、コント赤信号もレギュラー出演していた。特にリーダーの渡辺正行はビートたけしが謹慎している間の「オレたちひょうきん族」で、明石家さんまと共にメインを張っていた印象が強いのだが、コント赤信号が「オレたちひょうきん族」にレギュラー出演しはじめたのは、1983年になってからのようだ。
「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマにはEPOの後も山下達郎、松任谷由実など、シティ・ポップ系のアーティストによる楽曲が使用され続けた。東京で一人暮らしをはじめた一年目は、浪人生という立場もあり、風呂のない安アパートに住んでいた。土曜日の夜、「オレたちひょうきん族」を観終わった後で、近所の銭湯である草津湯に行った。昔、喫茶店やゲームセンターに置かれていたようなテーブル型のゲーム筐体があり、小学生が10円硬貨を積み重ね、テレビゲームに興じていた。当時、明石家さんまがひじょうに卑猥な手のアクションを加えながら、「オレたちひょうきん族」でよく言っていた「やめられまへんなあ」というギャグを、小学生が真似をして言っていた。
