1990年代のはじめにフリッパーズ・ギターと山下達郎を聴いていた。 | …

i am so disapointed.

机の上の棚に、シンコーミュージックから2011年11月15日に発行された「ディスク・コレクション ジャパニーズ・シティ・ポップ」という本がある。Part1では「FEATURING ARTISTS」として、日本のシティ・ポップを代表する11組のアーティスト、はっぴいえんど/ティン・パン・アレー(大滝詠一、細野晴臣、鈴木茂)、松任谷由実(荒井由実)、吉田美奈子、南佳孝、山下達郎、大貫妙子、竹内まりや、杉真理、村田和人、安部恭弘、角松敏生が取り上げられ、Part2からPart7では1970年から2010年までを数年ごとに区切って、その時期にリリースされたアルバムが紹介されている。日本のシティ・ポップの全盛期はおそらく1970年代後半から1980年代前半にかけてなので、この時期は約3年分が1つのセクションにまとめられているのだが、黎明期ともいえる1970年から1976年までは7年分、1986年から1989年までは4年分、1990年から2010年までは21年分が1つのセクションとなっている。

 

この本を私は2012年ぐらいにつつじヶ丘の書原という書店で買ったと記憶しているのだが、日本のシティ・ポップはブームというほどのことはなかったと思う。「昭和40年男」が「オレたちシティ・ポップ世代」特集号は2014年2月号だったが、前年の暮れに大瀧詠一が急逝し、その後には関連する雑誌や書籍がいくつか出ていたような記憶がある。2016年のはじめに、今度は仙川の書原で牧村憲一「シティ・ポップ・クロニクル 1979-1989」という本を見つけ、表紙のカバーがツルツルして気持ちよかったのと、内容が面白そうだったので買ってみた。山下達郎のシュガー・ベイブ時代の話や忌野清志郎+坂本龍一「い・け・な・いルージュマジック」にまつわるエピソード、さらにはフリッパーズ・ギターのデビューに至るまで、シティ・ポップにとどまらず、私が好きな音楽についていろいろ書かれていて面白かった。また、同じ頃に萩原健太「70年代シティ・ポップ・クロニクル」、泉麻人「僕とニュー・ミュージックの時代[青春のJ盤アワー]」といった本も読んで、このジャンルの音楽を聴き直したり、まだ聴いていなかったものを新しく聴いたりしはじめた。山下達郎のアルバムも1970年代の作品はそれほどちゃんと聴いていなかったので、この機会にまとめて聴いてみて、すごくカッコいいじゃないかと思ったのであった。

 

その頃、有楽町の三省堂書店で中年ファンとアイドルとの関係性について書かれた新刊を目にし、当時、私はアイドルファンから足を洗って久しかったのだが、いくつか記録として持っていたい記事もあったので、買って帰ったのであった。読みはじめるととても面白くて、一気に最後まで読んでしまったのだが、そこで紹介されていた聴いたことのないいくつかのアイドルグループにも興味を持った。新潟のローカルアイドルであるNegiccoというグループが、ピチカート・ファイヴの小西康陽、オリジナル・ラブの田島貴男といった、いわゆる「渋谷系」のアーティストが楽曲を提供したりしていて評価が高いということで少し気になった。Apple Musicで検索すると、その時点での最新アルバム「Rice&Snow」はなかったのだが、他の楽曲はそこそこ揃っている。興味本位で聴いてみたところなかなか良い、というかかなり好きで、それから集中的に曲を聴いたり動画を観たりする日々が始まり、月末にはリリースイベントのミニライブに行き、さらに翌月には新潟まで足を運んでいた。

 

Negiccoのどこがそんなに気に入ったのかというといろいろあるのだが、いわゆる「渋谷系」にとどまらず、音楽性は幅広いのだが、その中で私が当時、好んで聴いていた1970年のシティ・ポップ的なムードを感じさせる曲もあり、それが決定打になったといっても過言ではない。そして、4月27日に行われた中野サンプラザでのコンサートで初披露された「土曜の夜は」が、完全な山下達郎へのオマージュであった。7インチ・シングルには、ナイアガラ・レーベルのロゴによく似たものまで印刷されているのだが、よく見ると「Niagara」ではなく「Niigata」であり、実は2文字しか違わないのだということに気づかされた。

 

そのような経緯もあり、シティ・ポップと「渋谷系」というのは、なんとなく繋がっているというか、1つの系譜のように思いがちであった。先ほど挙げた「ディスク・ガイド ジャパニーズ・シティ・ポップ」には、ピチカート・ファイヴ「カップルズ」「ベリッシマ!」「女王陛下のピチカート・ファイヴ」、オリジナル・ラブ「結晶~Soul Liberation」「RAINBOW RACE」「Desire」「ムーンストーン」、また、小沢健二「犬は吠えるがキャラバンは進む」「LIFE」といった、いわゆる「渋谷系」的な作品が取り上げられている。一方、フリッパーズ・ギターとコーネリアスの作品については、まったく取り上げられていない。

 

1980年、カセットテープのCMで山下達郎の「RIDE ON TIME」が流れ、オリコン週間シングルランキング最高3位のヒットを記録した。その年は、イエロー・マジック・オーケストラを中心とするテクノブームが巻き起こった年であり、また、ニューミュージックに押されてしばらく勢いのなかったアイドル・ポップス界が、松田聖子、田原俊彦らのブームによって息を吹き返していた。翌年には寺尾聰が「ルビーの指環」をはじめ、シティ・ポップ的な世界観を持つシングルやアルバムを大ヒットさせ、大滝詠一の「A LONG VACATION」も売れまくった。当時、私は旭川の公立中学校に通う、普通の流行歌好きではあったが、この頃から洋楽のレコードも買いはじめるようになっていた。特にマニアックな音楽好きというわけでもなかったので、はっぴいえんどもシュガー・ベイブもまったく知らず、山下達郎も大滝詠一も、あるいはイエロー・マジック・オーケストラも、単に新しいアーティストとして認識していた。また、「RIDE ON TIME」「君は天然色」などをシティ・ポップというカテゴリーで認識することもなく、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」、シャネルズ「ランナウェイ」、長渕剛「順子」、ザ・ぼんち「恋のぼんちシート」、矢野顕子「春咲小紅」、寺尾聰「ルビーの指環」などと同じ、1980年代初めのヒット曲として捉えていた(「君は天然色」のシングルは実際にはそれほどヒットしていないが、アルバムが売れていたこともあり、ラジオではよくかかっていた)。

 

1982年には山下達郎「FOR YOU」、大滝詠一・佐野元春・杉真理「ナイアガラ・トライアングルVol.2」、佐野元春「SOMEDAY」などがリリースされ、これらはすべてよく聴いていた。あえて好きで選んでいたというよりは、それがこの時代の主流だったからである。以前に何度も書いているように、私がポップ・ミュージックを聴いていた主な理由はモテるためだったわけだが、これらの音楽は好んで聴いている女子もたくさんいて、話題にしたりレコードを貸し借りしたりもしていたのである。だから、別にシティ・ポップが好きだったというよりは、流行っていてなんとなく好きだったので聴いていたら好きになっていて、どうやらそれらはシティ・ポップと呼ばれるらしい、というのが正直なところである。

 

というか、シティ・ポップという言葉を当時、字面で見たことはあったような気もするのだが、それほど積極的に用いていたかというと、そうでもなかったような気がする。オフコースなどのニューミュージックの一部がさらに都会的になった感じで、山本達彦だとかその辺りを指していたようなイメージがある。佐野元春はその後、音楽性が変わるので先ほど挙げた「ディスク・ガイド ジャパニーズ・シティ・ポップ」にもアルバムが紹介されなくなるのだが、シティ・ポップ的に聴いていたファンの中には、そこで離れて行った人達も結構いたような気がする。そして、シティ・ポップ的な音楽はそれほど主流ではなくなり、よりロック的な音楽が好まれるようになったのではなかっただろうか。

 

それでも私はとりあえずその時に流行っているものについては何となくチェックして、好きになったりならなかったりはしていたのだが、どこかに良さは感じていた。それが1980年代の半ば過ぎ辺りにBOØWYがものすごく流行って、これはどうしても分からなくて、それでもポップ・ミュージックは基本的には若者のものなので、そろそろ現役を引退する時なのではないかと思ったのである。それでも山下達郎や松任谷由実のレコードは売れ続けていたのだが、これは若者というよりは大人が買っていたような印象が強い。1987年にブルーハーツがメジャーデビューするのだが、これは良さが分かった。というか、もし14歳ぐらいでこのバンドに出会っていたら間違いなく夢中になるだろうし、洋楽なんか聴かなくてもいいのではないか、とすら思った。その後、バンドブームというか、ビートパンクの時代になり、1989年から始まった「三宅裕司のいかすバンド天国」がそれにさらに拍車をかける。これはパンク・ロックのような音楽性なのだが、歌っている内容はあまりオリジナリティーのないようなタイプの音楽であり、この翌年にリリースされるスチャダラパーのデビュー・アルバム「スチャダラ大作戦」にはこの辺りの状況を歌った「ビートパンクSUCKERS」という曲が収録されていた。

 

当時、私は大学生だったのだが、六本木のディスコがたくさん入ったスクエアビルという所を貸し切ってパーティーをやるとやらで、チケットを売りつけられそうになったことが何度かあった。買ったこともあったかもしれない。そこではユーロビートがかかっていて、お揃いのジャンバーなどを着た大学生たちがヒューヒュー言っていたと伝え聞く。また、渋谷駅前の109の前にはサークルで作成したオリジナルのジャンパーを着た大学生たちが、コンパなどをやっていたようである。購買部に行くと、ラジカセから流れるリック・アストレーのヒット曲に合わせ、髪をワンレングスにしてボディコンシャスな衣服を身に着けた女子大学生がすました顔をして踊っていた。サービスランチでも食べようと思い、地下の学生食堂に行った。軽音楽サークルに入っていて、ハード・ロック系を好んでいると思われる女子大学生が少年マンガ誌を読んで爆笑していた。細長くて色白の男子学生が来て、私の横に座った。同じ授業をいくつか取っているはずだが、それほど親しくはない。しかし、一度、オーラルイングリッシュという授業で英語の寸劇をやらなければいけない時に同じグループになり、練習のために三軒茶屋のワンルームマンションに遊びに行ったことがある。音楽のバンドをやっているようなのだが、マイナーなイギリスのニュー・ウェイヴのようであった。ちなみに当時は、メインストリーム以外のロックのことを大雑把にニュー・ウェイヴと呼ぶ傾向があり、それは必ずしもポストパンク的な音楽のこととは限らない。アメリカに留学する女子がいて、彼女はロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」をとても好んでいたのだが、その送別会でもやはりずっと音楽の話をしていて、「三宅裕司のいかすバンド天国」で審査員の吉田建がエヴリシング・バット・ザ・ガールの名前を間違えたとか、そういう話をしていた。この番組では、同じ大学からイエロー太陽’Sというバンドが出場してイカ天キングに輝いたりしていた。彼らに番組には出ないのかというような話をすると、またその質問かというような表情をされ、あれはちょっと違うというような答えが返ってきた。しかし、グランドイカ天キングに輝き、CDデビューも果たしたLITTLE CREATURESについては、後に評価していたようである。

 

彼らは英国音楽研究会なるものに属しているらしく、厚木キャンパスの頃から学生食堂でレコード袋からアナログレコードを取り出し、見せ合っている姿を見ることがあった。同じ授業を取っていたりもしたので、音楽の話も何度かしたのだが、イギリスのニュー・ウェイヴ以外には興味がないようであった。当時、私はパブリック・エナミーや岡村靖幸などが最もカッコよくてすごいと思っていたので、いつまでも暗いインディー・ロックなんて聴いている場合ではないなどと思っていたのだが、おそらくそういうことではなかったのだろう。

 

その日、フリッパーズ・ギターというバンドのことを勧められた。きっと気に入るはずだと言われたので、バンド名だけは頭の片隅に入れておいた。J-WAVEの「TOKIO HOT 100」のチャートを、当時は深夜にテレビでも放送していて、1曲につき何十秒かずつぐらいかかるのだが、その下の方にフリッパーズ・ギターの曲がランクインしていた。おそらく、「three cheers for our side~海へ行くつもりじゃなかった」の収録曲であろう。ほんの数十秒間だったので、判断するも何もないのだが、歌詞が英語で爽やかな曲であった。良質なポップスという印象であり、どうしてもこれを聴かなければいけない、というような気分には奈良なかった。しかし、同じ英語の歌詞にもかかわらず、翌年にリリースされた「フレンズ・アゲイン」は、何となくポップでいいじゃないかと思い、シングルCDを買ったのであった。この頃はお金と時間がわりとあったので、欲しいCDはあまり考えずに何でもよく買っていた。特にこの頃は、日本人アーティストによるシングルCDをよく買っていて、「フレンズ・アゲイン」が特別に気に入っていたというわけではなく、同時期にドリームズ・カム・トゥルー「笑顔の行方」、EPO「エンドレス・バレンタイン」、高野寛「虹の都へ」、高岡早紀「フリフリ天国」なども買っていたはずである。

 

そのフリッパーズ・ギターが次のシングルでは日本語で歌っているという記事を、確か雑誌の「宝島」で見た。これは楽しみだと思い、すぐに買ったはずである。この頃もCDはちょっと気になればすぐに買っていたのだが、このシングル「恋のマシンガン」もそんな中の1枚にすぎなかった。しかし、これには衝撃を受けた。音楽性が私が10代の頃に気に入って聴いていたザ・スタイル・カウンシルなどにひじょうに近いものでありながら、日本語の歌詞がものすごくユニークで良いのである。カップリングの「バスルームで髪を切る100の方法」は、英語のタイトルが「HAIRCUT 100」で、1980年代に一時的に売れたあの「渚のラブ・プラス・ワン」のバンド名ではないか。そして、曲にはザ・スタイル・カウンシル「マイ・エヴァ・チェンジング・ムーズ」へのオマージュと思える部分もある。また、歌い方がロック的ではないというか、弱そうなのだが、あえてスタイルとしてそれをやっている感じで、この辺りのセンスがとても気に入ったのである。

 

6月にアルバム「カメラ・トーク」がリリースされたので、渋谷のロフトにあったウェイヴで買って、特典のキーチェーンのようなものももらった。1曲目の「恋とマシンガン」はシングルですでに聴いていたのだが、2曲目の「カメラ!カメラ!カメラ!」が打ち込みだったので、これでこのユニットの一筋縄ではいかなさを感じた。当時のバンドブームにおいて、ロックにおける打ち込みサウンドというのはけして新しくはなく、むしろレトロ感すら漂うものだったのだが、これがすごく良かった。オリジナリティーというか芯の強さというかパンクスピリッツというか、どれもおそらく少しずつ違い、カッコいいと思うことへの確信の強度がずば抜けていたのだろう。この曲で予感したこのアルバムの素晴らしさは、聴きすすむにつれ確固たるものになった。スタイルもコンテンツもすごい。これは最高である。

 

雑誌の「宝島」で「フリキュラマシーン」という連載もはじまって、これではほぼずっと悪口を言っていたような印象がある。とにかくダサいもの、頭が悪そうなものに対する憤りというか恨みつらみなのだが、それがものすごくポップでキャッチー語り口なので、これがたまらない。全方位に対して喧嘩を売っているというか、下に見ている。覚えているところでは、「月刊カドカワ」に出ているようなアーティストは頭が悪く、それをありがたがるような雰囲気も気持ち悪いというような流れで、尾崎豊や村上龍に毒づいたり、ビートパンクは全体的にダサいがCOBRAだけは良いとか、そういうことを言っていたような気がする。また、そのように悪口ばかり言っているから友達も少ないという自虐から、街に出て友達をつくるという企画もやっていた。「恋とマシンガン」はテレビドラマ「予備校ブギ」の主題歌に使われているのだが、街で出会った若者と友達になるために、そのドラマに出ていた的場浩司とマブダチだと嘘をついたり、勝手なことをわりと自由に行っていた。

 

また、「ロッキングJAPAN」においては、フリッパーズ・ギターのようなフニャフニャしていてモラトリアム的なメンタリティーを指して、「フニャモラー」などと言われていたのだが、ロングインタビューの最後には「フニャモラーズ・ミーティング(焼肉屋MIX)」なる延長戦的なものも掲載されていた記憶がある。また、1991年のアルバム「ヘッド博士と世界塔」においては、イギリスでのインディー・ロックとダンス・ミュージックの融合、たとえばプライマル・スクリーム「ローデッド」などからの影響も指摘されているが、当時のフリッパーズ・ギターがイギリスのインディー・シーンからリアルタイムで影響を受けていたことは明白であり、逆に日本のシーンはまったく意識していないというか、下に見ていたのではないかと思われる。因みに、この全方位的に悪口を言い、下に見ているような発言についてだが、「カメラ・トーク」に収録された「偶然のナイフ・エッジ・カレス」における以下の歌詞を参照すると、関係があるかどうかは定かではないが、味わいは深まるのではないかと思われる。

 

「唇噛んで 仕方がなくて 軽蔑の言葉を探した」

「間抜けな言葉で僕を取り囲む 得意げな薄ら笑いに腹が立つのさ」

 

「カメラ・トーク」の数週間前にリリースされ、当時、音楽評論家から高く評価されていたアルバムに、ニューエスト・モデルの「クロスブリード・パーク」がある。現在、ソウル・フラワー・ユニオンを率いている中川敬によるミクスチャー・ロック・バンドである。パンク・ロックをベースにしながら、ファンクやヒップホップなど、様々なジャンルの要素を取り入れた音楽と、批評性のある鋭くユニークな歌詞が特徴的であった。当時、ひじょうに新しく、ユニークな音楽をやっているアーティストということで、「ロッキング・オンJAPAN」において、中川敬とフリッパーズ・ギターによる鼎談記事が掲載された。同時代の音楽にそれほど注目すべきものはなく、むしろ過去の名盤やルーツ音楽的なものを参照すべきだというようなことを言う中川敬に対し、フリッパーズ・ギターのどちらかが、でもストーン・ローゼズのインタビューとか読むと笑っちゃうよね、というようなことを言う。そして、中川敬が、いや、笑わへんというようなことを言うのだが、このやり取りをなぜかよく覚えている。

 

当時、ユニコーンが大人気であった。ビートパンク的な人気に加え、音楽的にもかなり面白いことをやっているということで、「ミュージック・マガジン」などでも評価されはじめていた。やはり「ロッキング・オンJAPAN」においてなのだが、インタビュアーがフリッパーズ・ギターに対し、同年代でユニークな音楽をやっているということで、ユニコーンのことはどう思うか、というような質問をする。そして、フリッパーズ・ギターのどちらかは忘れてしまったのだが、ユニコーンはサッカー部がやっているバンドだという。それは、クラスの人気者だという意味であり、それに対し、自分たちは文化祭などにも参加せず、階段でギターを弾いていたタイプなのだと、そのようなことを言っていた記憶がある。

 

山下達郎は1982年の「FOR YOU」に続き、翌年の「Melodies」も大ヒット、しかもこのアルバムには後にスタンダードとなる「クリスマス・イブ」が収録されていた。翌年にはサーフィンをテーマにした映画「BIG WAVE」のサウンドトラックを手がけ、妻である竹内まりやの復帰作「VARIETY」のプロデュースも行う。それぞれオリコン週間アルバムランキングで2位、1位のヒットを記録し、山下達郎ブランドをさらに強固なものにした。1985年の春に私は高校を卒業し、東京での一人暮らしを始める。それから間もなくしてシングル「風の回廊」がリリースされ、これはすぐに買った。また、秋にはシングル「土曜日の恋人」がリリースされ、テレビ番組「オレたちひょうきん族」のエンディングテーマに使われた。当時、予備校生として四畳半のアパートで土曜の夜のテレビから流れるこの曲を、よく聴いた覚えがある。その後で近所の銭湯に行ったのだが、テーブル型のテレビゲームをやる小学生が、「やめられまへんなあ」と明石家さんまのギャグを真似していた。

 

翌年、大学受験に合格して、通いやすいように相模原に引っ越してからすぐにアルバム「POCKET MUSIC」がリリースされ、これもすぐに買ったのだが、実はあまり聴いた記憶がない。予備校で一緒だった友人が青山学院大学の二部に入学し、彼と会って遊ぶことにした。レコード店でアルバイトしているのだが、山下達郎のレコードばかり販促させられてつまらないと愚痴っていた。私もそのアルバムは買ったというと、そんなの買うなよ、と言われた。この後も私はいろいろなレコードやCDを買っては聴いていたのだが、この「POCKET MUSIC」はあまり聴かなかったばかりか、1988年の「僕の中の少年」に至っては買うことすらしなかった。その年は岡村靖幸の「DATE」に衝撃を受けて、ほぼそればかり聴いていた印象がある。私は買わなくなってしまったのだが、山下達郎のアルバムはずっと売れ続けていた。「POCKET MUSIC」も「僕の中の少年」も、オリコン週間アルバムランキングで1位になっている。誰が買っていたのかというと、おそらくコアな山下達郎ファン、そして、大人の音楽ファンであろう。

 

山下達郎はおそらくひじょうにコアでマニアックな音楽をやっているのだが、その当時においては大人が安心して楽しめる良質なポップス、という感じで流通していたような気がするのだ。「RIDE ON TIME」「FOR YOU」などをBGMに青春を送った世代は社会に出て、それなりに重要な地位を得たりもして、新しい音楽を積極的に追いかけるほどの余裕も必要もないのだが、音楽は好きなので好きなアーティストの新譜が出れば買うし、やっぱり良いなと思う。ところが私は当時もまだ大学を卒業してすらいなく、「オリーブ」を読んでいるような年下の女性からモテようとしている。そこで、フリッパーズ・ギターである。動機が不純すぎるとも思われがちだが、そもそもポップ・ミュージックを聴くのはモテるためだと断りを入れているので問題はない(知らんがな)。

 

フリッパーズ・ギターの「恋とマシンガン」がリリースされる約10日前に、山下達郎の「Endless Game」というシングルが発売されていて、これはオリコン週間シングルチャートの5位になっている。私も当時、このCDシングルを買っているのだが、なんだかアダルトな内容で、あまり感情移入ができなかった記憶がある。

 

その前の年、つまり平成元年で1989年で道重さゆみ(♡)が生まれた年で、私は同じアルバイト先にいた女子高校生とたまに遊びに行っていたのだが、渋谷で猫は好きですかとかいうよく分からないアンケートを受けた。荻野目洋子などが出演した「公園通りの猫たち」という映画についてだったようだ。私はまだ猫を飼っていた現在の妻の部屋に転がり込む前なので、猫に対して一切の思い入れがなく、適当に答えたことを覚えている。その時にたまたまお金があったので、山下達郎の2枚組ライブアルバム「JOY」を買ったような気がする。「POCKET MUSIC」以来、久しぶりに買った山下達郎のアルバムだったのだが、この内容がすごく良くて感動したのであった。当時の山下達郎というのは大人が聴くトレンディーな音楽というイメージだったのだが、そこに収録されたライブ音源には、もうこれはロックではないかというほどの熱さがあり、ひじょうに気に入っていた。

 

1983年のアルバム「Melodies」に収録されていた「クリスマス・イブ」がこの前の年、1988年の暮れにJR東海のクリスマス・キャンペーンCMに使われ、話題になった。そして、続けてこの年にも使用された結果、オリコン週間シングルランキングで1位になった。こ時点で、この曲は国民的なスタンダードソングになったのであった。「クリスマス・イブ」の1位は12月25日付から翌年の1月15日付まで4週間続いたのだが、その間に2位だったのは、前週の1位だった長渕剛「しょっぱい三日月の夜」、オヨネーズ「麦畑」、牛若丸三郎太「勇気のしるし」、翌週に1位になるのは工藤静香「くちびるから媚薬」(「クリスマス・イブ」は7位にダウン)であった。また、「クリスマス・イブ」がシングルランキングで1位になった週、アルバムランキングの1位は松任谷由実の「LOVE WARS」であった。これは1987年の「ダイアモンドダストが消えぬまに」から続く「純愛3部作」の最終作で、「愛の任侠」がテーマになっている。1987年9月に「100パーセントの恋愛小説!!」と帯に書かれた村上春樹の小説「ノルウェイの森」が出版され、ベストセラーになった。これ以降、日本ではよく分からない純愛ブームのムードが高まり、「クリスマス・イブ」もその流れで広く支持されたような印象もある。

 

そして、4月25日にリリースされたのが「Endless Game」であり、わりと重厚なトーンの曲だと思ったのだが、どうやらTBS系テレビのドラマ「誘惑」のために作られたものだったようである。山下達郎の新しいシングルでこの前にオリコン週間シングルランキングの10位以内に入ったのが、この前年リリースの「GET BACK IN LOVE」で、やはりTBS系テレビのドラマ「海岸物語 昔みたいに・・・」であった。このシングルも私は買っていたのだが、ドラマはいずれも観ていない。しかし、「昔みたいに・・・」というぐらいだから、やはり大人をターゲットとしたドラマだったのだろう。そして、「Endless Game」が主題歌になっていた「誘惑」は、どうやら不倫をテーマにしたドラマだったようである。蓮城三紀彦の小説「飾り火」を原作としているようで、紺野美沙子が演じる魔性の女によって、林隆三と篠ひろ子が演じる夫婦が崩壊していくという内容のようだ。また、TM NETWORKの宇都宮隆が役者として出演していたようである。

 

という訳で、当時の日本において山下達郎の存在はすでにエスタブリッシュメントであった。そして、聴いている人もまた、大人で本物志向のリスナーが多かったように思える。また、山下達郎自身も当時、文化人化するアーティストが多い中で、作家主義・楽曲主義を貫く職人であろうという意識で、作品を作っていたようである。「Endless Game」も収録した翌年リリースのアルバムには、職人を意味する「ARTISAN」というタイトルが付けられた。

 

「宝島」の「フリキュラマシーン」などでとにかくあらゆるものに対して毒づいていたフリッパーズ・ギターだが、確か「ロッキング・オンJAPAN」のインタビューだったと思うのだが、「ムーンライダーズにはなりたくない」という発言をして、数ヶ月後の号でそのことを伝えたインタビュアーに対し、鈴木慶一が「なれるものならなってみろ」と言うようなこともあった。それでは、フリッパーズ・ギターが当時、山下達郎について何か言っていたかというと、あまり記憶にない。というか、当時、私はフリッパーズ・ギターも山下達郎も聴いていたが、音楽性もリスナー層もまったく異なっていたため、接点などまったく感じていなかった。山下達郎のCDを買っていたのは、佐野元春やサザンオールスターズと同様で、10代の頃から好きなアーティストの新作が出たから買うという感じである。「僕の中の少年」辺りの頃は一時期、買わなくなっていたのだが、その頃にはまた買うようになっていた。フリッパーズ・ギターや岡村靖幸については、これまでにないまったく新しい音楽にふれているという感覚を持って、とてもわくわくしながら買っていた。フリッパーズ・ギターの音楽に強く影響を与えたのはおそらくインディー・ロックであり、そこには技術よりもセンスの方が重要だというような価値観があったように思える。職人とは逆のベクトルである。フリッパーズ・ギターを発見したオリーブ少女たちは彼らが紹介するレコードを買うために、アニエスベーのベレー帽をかぶって、宇田川町のノア渋谷という建物の中にあるマンションの一室のような小さなレコード店に行き、そこでは当時、ブリッジというバンドをやっていたカジヒデキがレジを打っていることもあった。そのレコードには、歌も演奏もヘロヘロなものが多く、まさにセンスで聴くようなものも少なくなかった。

 

私もそのようなオリーブ少女的な人たちと知り合うことができ、アズテック・カメラやスタイル・カウンシルをリアルタイムで聴いていたというだけで一瞬だけ尊敬されるのだが、DJをやっているので来てくださいとか、カセットをつくったのでよかったら聴いてくださいと言われ、そういうのを聴くと、まったくよく分からない音楽がたくさん入っている。しかし、それがすごく良いのだ。また、それらについて話している時の彼女たちの表情がキラキラしていてたまらないのである。これは相当にポピュラー音楽全般について詳しいのだろうと思い、少し話をするのだが、いわゆるロックの名盤的なものはまったく聴いていない。ビートルズすらよく知らないという。これはとんでもないことが起きているぞと、衝撃を受けたのであった。あれはやっぱり革命だったと思うのだ。

 

1991年に山下達郎が雑誌のインタビューでフリッパーズ・ギターについて言及していたということを、つい数日前に初めて知った。それは、ネオ・アコースティックや渋谷系についての考察をされている、あるフォロワーさんのリツイートによってであった。当時、フリッパーズ・ギターと山下達郎、どちらもCDを買っていたが、おそらくそれぞれのリスナー層に交わるところがないだろうし、まったく別のカテゴリーの音楽として認識していたので、これには驚いた。しかし、よく考えてみると、いわゆる「渋谷系」とシティ・ポップとは日本の都市音楽として同じ流れにあるとされているし、むしろ関係ないとする方が不自然な感じもする。

 

私が当時、フリッパーズ・ギターに対して持っていた印象というのは、大学の食堂にいた英国音楽研究会の人たちのもっとすごい奴らというものであり、とにかくマニアックなものばかり聴いているという印象であった。日本のエスタブリッシュ的なイメージがある山下達郎など聴いているはずがないだろうというか、その可能性を考えたことすらなかった。また、現在は和モノなどといわれ、日本の過去のポップ・ミュージックを再評価するような動きがあるが、当時はまだあまりなかったのではないかという気がする。それは単純にポップ・ミュージックの歴史の浅さゆえだったのだろうとは思うのだが。

 

フリッパーズ・ギターは既存の価値観をぶち壊すまではいかないまでも、風穴を開けたという意味において、姿勢としてパンクだったということも言われたり言われなかったりす。おそらくそれは本当で、当時、私がフリッパーズ・ギターを面白がっていた理由の何割かもそのような部分に対してだったような気がする。音楽も大好きだったが、インタビューや雑誌の連載を読んで、爆笑したりスカッとしたりしていた。そして、その既存の価値観というものには、当時の日本における文化的エスタブリッシュも含まれていたと思うのだ。当時のフリッパーズ・ギターがイエロー・マジック・オーケストラだとかムーンライダーズ的なものに対して敵意を剥き出しにしていたらしいのも、そのような姿勢のあらわれであろう。

 

私はフリッパーズ・ギターが解散してから、小山田圭吾が始めたコーネリアスのCDは買い続けていた。小沢健二のデビュー・シングル「天気読み」はアルバイト先の有線放送で聴いて、スティーヴィー・ワンダーというか、少し前にアシッド・ジャズのインコグニートもカバーしていた「くよくよするなよ!」に似ていて好きだったのだが、その後の作品についてはどうも良さが分からず、聴かなくなってしまった。「渋谷系」とはまったく縁がなさそうで、植田まさしの4コマ漫画に出てきそうな会社の先輩がパチンコの景品で「LIFE」のCDをもらったと言っていた。カラオケで「ラブリー」をよく歌っていたが、「OH BABY」のところで王貞治の一本足打法の動きをしていて、一度目はお情けで受けたのだが、受けなくなってからもずっとやっていた。

 

それからしばらくは日本のポップ・ミュージックを一部を除いてほとんど聴かなくなってしまったので、シーンでどのようなことが起こっていたのかほとんど知らない。1998年に仕事を変えて、音楽CDをまた扱うようになったので、「COUNT DOWN TV」を観たり「オリコン・ウィーク The Ichiban」や「CDでーた」を読んで、ラルク・アン・シエルだとかGLAYだとかEvery Little Thingのことを覚えていった。「渋谷系」はいつの間にかそう呼ばれるようになって、それから終わっていた。1976年にリリースされた「ナイアガラ・トライアングルVol.1」に収録されていた山下達郎の「パレード」がフジテレビ系のテレビ番組「ポンキッキーズ」のエンディングテーマに使われ、1994年にシングルがリリースされた。その数ヶ月後には、シュガー・ベイブの「SONGS」が初CD化されたようである。1995年に東京スカパラダイスオーケストラのアルバム「グランプリ」で、小沢健二が小坂忠の「しらけちまうぜ」をカバーしている。

 

シティ・ポップという言葉は、すっかり目にも耳にもしなくなっていた印象がある。1997年に私が精神的に暗黒時代であった時期、曲を書いて宅録でアルバムを作ろうかと思い立ったことがある。当時としてはまだ目新しかったMDが使えるマルチトラックレコーダーを買ったりもしたのだが、結局、使いこなせないままどこかに行ってしまった。神戸連続児童殺傷事件とか東電OL殺人事件とか山一證券破綻とか、とにかく暗く憂鬱な事件が次々と起こり、レディオヘッドが「OKコンピューター」をリリースしたり、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が流行ったりもしていた。私は35万円ぐらいで初めてのマックブックを買った。給料はたくさんもらっていたのだが、やっている業務内容が本当にクソで、高校生の頃に聴いた尾崎豊の歌の「自分のくらしが一番自分を傷つけると泣いてる」とはこういうことか、と思ったりもしていた。

 

それで、そういう状況から逃れたいという現実逃避的なアルバムを作ろうと思うと、やはりイメージが1980年代前半的なものなのだ。ジャケットは夜の街で白いスーツを着て、サングラスをかけている。タイトルとして「SUMMER NIGHT CITY」、または「CITY POP」というのが思い浮かんだ。「SUMMER NIGHT CITY」はおそらくABBAのディスコ・ヒットからの連想だが、「CITY POP」は久しく聞かない言葉だし、またく流行らないイメージだが、おそらくかつて私がなりたいと思っていた大人とは、そのようなものではなかったのかと思った。それは、たとえば佐野元春のアルバム「NIGHT LIFE」のジャケットに写っている男のような感じである。しかし、街も自分自身もそれとは大きくかけ離れていて、まさに現実逃避的であった。

 

仕事でふたたび音楽CDを扱うようになって、ヒット・チャートに入っている音楽については情報としてならば何となく把握しているような状態になった。2002年にキンモクセイというバンドが「二人のアカボシ」という曲をヒットさせたのだが、その時にシティ・ポップなどとも言われていたような気がする。それから、その翌年にキリンジというバンドが「For Beautiful Human Life」というアルバムをリリースした時にも、そのようなことが言われていた記憶がある。

 

2006年にブログを始め、主に海外のロックのことなどを書いていた。読者の中によくコメントをくれる大阪の女性がいて、大阪には安くておいしいお店がたくさんあるので、来られた時には案内しますとずっと言われていた。当時は遠い街に行くという習慣もなかったし、実家にすらしばらく帰っていなかったので、そんな日はおそらく来ないだろうと思っていた。2007年になぜか突然、それまでまったく興味がなかったモーニング娘。の道重さゆみを発見してしまい、スケジュール的に見に行ける日程がそこしかなかったので、生まれて初めて大阪に行った。いろいろ衝撃的すぎて、それどころではなかったのだが、それからあまり死にたくはなくなった。道重さゆみが生まれ育った山口県にも翌週には初めて行くのだが、そこで自分の過去だとか家族だとかを大切にしなければいけないということに気付かされ、翌年からは毎年実家に帰ることにした。そして、2009年の秋にまた大阪に行くことにしたので、彼女と会う約束をした。おそらく20代後半ぐらいかと思っていたのだが、茶屋町の待ち合わせ場所で会うと、高校の制服を着ていたのでひじょうに動揺した。新世界の串カツ屋さんに行きたいというので、御堂筋線に乗り、動物園前で下車し、ジャンジャン横丁を通って八重勝というお店の行列に並んだ。回転が意外と早いことは何度か来ていたので分かっていた。Base Ball Bearという日本のバンドを強くすすめられた。日本の若手バンドやアーティストはいろいろすすめられていたのだが、そういうのはやはり若者が聴くからこそ同時代性が感じられて良いのであり、私のようないい大人に理解できるとはあまり思えない。とりあえず聴いておくというような返事をなんとなくしておいて、また御堂筋線に乗り、私は泊っているホテルがあった本町で降りたので、そこで別れた。

 

次の朝、早く起きたのだが体がだるくて、音楽でもかけながら少し横になっていようと思った。当時はノートパソコンを持ち歩いていたので、まだ運営されていたNapstarという定額音楽ストリーミングサービスのアプリケーションを起動し、新作をチェックすると、前の夜に彼女が言っていたBase Ball Bearのニュー・アルバムがあった。どうせ良さは分からないだろうと思いながらも適当に流していると、これは意外と良いのではないか、という気がしてきた。いまどきのギター・ロックなのだが、どこかニュー・ウェイヴの影響を感じさせるところもあり、だからといってそれほど捻ってもいない。後にフロントマンの小出祐介がハロー!プロジェクトのファンで、アルバムのCMスポットにもBerryz工房の熊井友理奈を起用しているとか、ライブが始まる前に必ず XTCの「がんばれナイジェル」を流していることなども知り、なるほどと思ったのであった。

 

過去の作品もいろいろ聴いていくと、2003年にリリースされた「夕方ジェネレーション」という曲があり、歌いだしの歌詞が「渋谷系聴いて雨止み待ち」というものであった。なるほど、いまや「渋谷系」とはこのように歌詞の中に歌い込まれるようなものなのか、と軽く感動したことを覚えている。

 

ここ数年、シティ・ポップや「渋谷系」について、話題にすることが多くなったような気がする。それはおそらく2016年からNegiccoの音楽を聴くようになって、その情報を集めるようになったというのが大きな理由だと思う。ツイッターで相互フォローさせていただいている方々も結構いらっしゃるのだが、ピチカート・ファイヴを好んでいる方の率がひじょうに高いような気がする(というか、私がたまたま個人的にお話させていただいているのがそのような人達ばかりという可能性もある)。そして、ライブやイベントの感想などを書いたり書かなかったりしているうちに、Negiccoや同じレーベルのWHY@DOLLに楽曲を提供されている作曲家の吉田哲人さんともやり取りをさせていただくようになり、そこからまた新たな方々との出会いがあり、さらに話題が深まるという状態である。今回のフリッパーズ・ギターと山下達郎の件についても、このような経緯がなければ知らずじまいだったのだが、これは書いておかなければいけないと思い、いろいろなことを思い出したり調べ直したり、おかげでとても楽しい時間を過ごすことができた。

 

フリッパーズ・ギターが1991年にリリースし、それが最後のアルバムとなった「ヘッド博士と世界塔」に、ビーチ・ビーイズ「ペット・サウンズ」からの引用があり、このアルバムの日本盤CDライナーノーツに文章を書いていたのが山下達郎なのだという。山下達郎がビーチ・ボーイズの影響を強く受けていることは知っていたのだが、私がビーチ・ボーイズを聴きはじめたのは早見優の影響だし、「ペット・サウンズ」も輸入盤でしか持っていなかった。フリッパーズ・ギターは雑誌のインタビューで「ヘッド博士の世界塔」に入っているのはサンプリングではなくて、実際にオーケストラとかが演奏しているというようなことを言ったりもしていたが、あのアルバムの一部が1960年代のサウンドに強く影響を受けていることは明白である。しかし、私はどちらかというと、プライマル・スクリームだとかストーン・ローゼズだとか、イギリスのセカンド・サマー・オブ・ラヴ経由なのかなと思っていて、山下達郎との関連性などまったく考えていなかった。

 

真実はまったく分からないのだが、いろいろな方々の意見を読めて、とても面白かった。これだから、ポップ・ミュージックはやめられない。