林哲司作品で好きな10曲。 | …

i am so disapointed.

8月20日は作曲家、林哲司の誕生日である。シティ・ポップがなんとなくトレンドな昨今だが、1980年代にそのサウンドがお茶の間化するにあたり、とても重要な役割を果たしたように思える。今回は、そんな林哲司の作品の中から、私が現時点で個人的に好きな10曲を選び、カウントダウンで挙げていきたいと思う。

 

10. 信じかたを教えて/松本伊代

 

1986年8月5日リリースの19枚目のシングルで、松本伊代にとっては転機となったシングルである。戸板女子短期大学を卒業してから初めてのシングルでもあるこの曲から、松本伊代はそれまでのアイドル・ポップス的な楽曲ではなく、より同世代の女性に共感されるようなタイプの曲を歌うようになる。「信じかたを教えて」からの3枚のシングルはサヨナラ三部作ともいわれ、すべて川村真澄・林哲司・船山基紀のトリオによって書かれた。当時はそのようなマーケットがまだ存在していなかったため、わりと苦戦したのではないかと思うのだが、これらの曲も収録した翌年のアルバム「風のように」は林哲司がプロデュースを手がけ、シティ・ポップ的な楽曲と松本伊代のユニークなボーカルとが化学反応を起こした、素敵な作品になっている。「風のように」には先日、このブログでも取り上げた「それから」など、大好きな曲がたくさん収録されているのだが、今回はこのプロジェクトの始まりとなったシングル「信じかたを教えて」を挙げたい。この曲は、すぐ後にリリースされたアルバム「天使のバカ」にも収録された。現在よりも人気の移り変わりが激しかった当時、松本伊代のアイドルとしての人気のピークはすでにすぎ、世間にはおニャン子クラブ旋風が巻き起こっていた。この年の松本伊代のコンサートツアーをプロデュースしたのは、おニャン子クラブやとんねるずのブレイクで飛ぶ鳥を落とす勢いの秋元康で、そのタイトルは「やっぱり伊代ちゃん」であった。私は厚木と渋谷の2公演に行き、渋谷の帰りにはまだ宇田川町にあった頃のタワーレコードでザ・スミス「クイーン・イズ・デッド」とスティーヴ・ウィンウッド「バック・イン・ザ・ハイ・ライフ」のレコードを買った。

 


風のように 風のように
 
Amazon

 

9. デビュー~Fly Me To Love/河合奈保子

 

河合奈保子はオリコン週間シングルランキングにおいて、計21曲を10位以内にランクインさせているが、そのうち1位になったのはこの1985年6月12日リリースの21枚目のシングル「デビュー~Fly Me To Love」のみである。当時のアイドルの中でも歌唱力が高く、色々なタイプの曲を歌いこなすことができたが、デビュー6年目にしてこのタイトルと実に明るく爽やかな曲調が、そのボーカルの魅力を十分に生かした。実は当時、東京で一人暮らしを始めたこともあり、それまでほどヒット・チャートを熱心にチェックしなくなっていた。そのため、この曲についてのリアルタイムでの記憶もそれほどないのだが、後から聴いてグッと好きになったような気がする。

 


 

 

8. サマー・サスピション/杉山清貴&オメガトライブ

 

1983年4月21日にリリースされた杉山清貴&オメガトライブのデビュー・シングルで、オリコン週間シングルランキングで最高9位を記録した。リリースされてすぐにヒットしたわけではなく、夏の始まりをテーマにした曲にもかかわらず、TBS系の「ザ・ベストテン」に初ランクインしたのは9月8日放送回であった。ラジオで聴いたのかテレビで観たのかは覚えていないのだが、私はわりと早い段階でこの曲を気に入り、シングル・レコードを買っていた(私が杉山清貴やオメガトライブ関連のレコードを買うのはこれが最初で最後だったのだが)。当時、地方に住む高校生にしては歌詞に登場する都会や車もイメージ、海にカモメが飛んでいるこれぞシティ・ポップという感じのジャケットに感じるところがあったし、「つのるジェラシーに 灼かれて」「こんな気持ちじゃ 気が狂いそうさ」といったフレーズに感情移入をして、心を痛めていた。高校の二学期が始まり、私が所属していた放送局ではレコードコンサートというのを行ったのだが、レコードは地元のミュージックショップ国原というレコード店から借りるかわりに、プログラムに無料で広告を載せていた。この曲は私が持って行った私物のレコードを使ったはずである。

 

 

 

7. 悲しい色やね/上田正樹

 

1982年10月21日にシングルとしてリリースされ、翌年の夏にオリコン週間シングルランキングで最高5位のヒットを記録した。上田正樹とサウス・トゥ・サウスとして1972年にデビューし、1976年に解散後はソロとして活動していた。シティ・ポップ的な楽曲、サウンドに関西弁の女性を主人公とした演歌のような歌詞、そして上田正樹のハスキーなボーカルが不思議な化学反応を生み、曲は有線放送を中心に少しずつ支持を広げていったという。フジテレビ系のバラエティー番組「オレたちひょうきん族」では明石家さんまが上田正樹に扮して、この曲のパフォーマンスをパロディー化していた。

 

 

 

6. 悲しみがとまらない/杏里

 

1983年11月5日にリリースされた杏里の14枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで最高4位を記録した。杏里は1978年に「オリビアを聴きながら」でデビューし、その後、女性ポップ・シンガーとして少しずつ人気を高めていた。この年には当時はまだそれほどメジャーではなかった角松敏生のプロデュースによりシティ・ポップ色を濃くし、8月5日にリリースしたテレビアニメ主題歌の「CAT'S EYE」がオリコン週間シングルランキングで5週連続1位の大ヒットとなった。その次にリリースされたのがこのシングルだったが、プロデューサーを任された角松敏生は杏里のヒットを「CAT'S EYE」1曲だけで終らせないように、あえて自分よりも幅広いリスナーに受ける曲が書けそうな康珍化・林哲司コンビに作詞作曲を依頼したのだという。恋人が友人に奪われるという歌詞の内容とキャッチーで都会的な曲調、アレンジが同性の音楽ファンからも大きな共感を得て、この曲は前作に続くヒットとなり、杏里は人気と実力とを兼ね備えた都会派のポップ・シンガーとして、その地位を固めていくのであった。なお、林哲司自身が歌った「悲しみがいっぱい」、上田正樹「悲しい色やね」、杏里「悲しみがとまらない」を合わせて「悲しみ三部作」ともいうらしい。

 


 

5. SUMMER EYES/菊池桃子

 

1984年7月10日にリリースされた2枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでは最高7位と、初めて10位以内にランクインした曲である。この曲も収録されたデビュー・アルバム「OCEAN SIDE」は全曲を林哲司が作曲・編曲しているが、演奏だけ聴くと完全なシティ・ポップアルバムである。このカッコいいサウンドと菊池桃子のやや不安定なボーカルとが生み出す独特な音楽を楽しめるかどうかは人それぞれだと思うのだが、シングル曲はよりアイドル・ポップス寄りであった。当時、旭川の高校生だった私にとって、菊池桃子は東京の女の子であるというところがとても重要であった。夏休みに札幌でこのシングルのキャンペーンがあり、デパートの屋上でミニライブと握手会に参加した。

 


オーシャン・サイド オーシャン・サイド
1,676円
Amazon

 

4. 北ウィング/中森明菜

 

1984年の元旦にリリースされた、中森明菜にとって7枚目のシングルであり、オリコン週間シングルランキング最高2位を記録している。この順位は発売日の関係で初動の売り上げが2週に分散してしまったことが原因であり、この辺りの対策があらかじめ取られていれば、わらべ「めだかの兄妹」を上回って1位だったといわれている。この時点で、ヒットチャートにおいては松田聖子と中森明菜がライバル関係という構図ができていた。松田聖子はシングル曲で呉田軽穂(松任谷由実)を起用するなど、音楽性のシティ・ポップ化がいち早くなされていた。タイトルの「北ウイング」は成田国際空港のある部分だが、私はこの曲によって初めてこの言葉を知った。そして、このタイトルは中森明菜自身によって提案されたものであり、松任谷由実「中央フリーウェイ」に着想を得たものだという。そして、新曲の作家に林哲司を指名したのもまた、中森明菜だったようである。この時点で中森明菜はすでに様々なタイプの楽曲を歌いこなしていたが、やはりブレイク当初の「少女A」のイメージもあり、ブリッコの聖子、ツッパリの明菜というような印象はなきにしもあらずであった。しかし、中森明菜はこの曲によって、ついにシティ・ポップをも歌いこなしたのであった。

 


 

3. 天国にいちばん近い島

 

1984年10月10日にリリースされた6枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングで1位を記録している。ニューカレドニア島で撮影された同タイトルの映画主題歌でもある。その存在感と同様に透明感のあるボーカルに、林哲司のシティ・ポップ的な楽曲はひじょうに相性が良かった。当時、地方の高校生でありながら伝説の歌謡曲批評誌「よい子の歌謡曲」に投稿し、掲載していただいたこの曲のレビューにも確か、原田知世の存在感は空気のようであり、だからこそわれわれの日常に必要なのだ、というような面倒くさいことを書いていたような気がする。

 

 

 

2. SEPTEMBER/竹内まりや

 

1979年8月21日にリリースされた竹内まりやの3枚目のシングルで、オリコン週間シングルランキングでの最高位は39位と、意外にも高くはない。当時、ラジオなどでかなり頻繁に耳にした記憶があるのだが。作詞は松本隆だが、借りていた辞書の「LOVE」という言葉だけ切り抜いて返し、それが別れの合図だという歌詞がとても強く印象に残った。この曲は編曲も林哲司が手がけているが、とにかくイントロからして当時の記憶喚起力がすさまじく、それでいていつでも新鮮に聴けるのだから、本当に私にとっては名曲なのだろう。当時はニューミュージックが流行していて、杏里や竹内まりやなどはアイドルなのかニューミュージックのアーティストなのかよく分からないような立ち位置で、活動せざるをえないようなところもあった。竹内まりやはこのこの曲によって、アイドルの倉田まり子、井上望、演歌歌手の松原のぶえと共にレコード大賞の新人賞に選ばれるが、最優秀新人賞は「私のハートはストップモーション」の桑江知子が獲得した。カップリング曲は竹内まりや自身が書いた「涙のワンサイデッド・ラヴ」だが、編曲を後に夫となる山下達郎が手がけている。

 


LOVE SONGS LOVE SONGS
1,709円
Amazon

 

1. 真夜中のドア~Stay With Me/松原みゆき

 

1979年11月5日にリリースされた松原みきのデビュー・シングルで、これもオリコン週間シングルランキングの最高位は28位と、印象ほど高くはない。当時から都会的でとてもカッコいい曲だと思っていたのだが、時の経過と共にすっかり忘れていた。1993年の初めによく分からない流れでよく知らない年上の女性の家に泊る流れになったのだが、さだまさしが好きだということで、私の音楽の趣味と大きく異なっていて激しく動揺したのだが、それ以外に懐かしくて好きな曲があるといって、ラジカセで流したのがこの曲であった。その時のシチュエーションはさておき、よく知らない街のよく知らない人の部屋でかなり久しぶりに聴いた「真夜中のドア~Stay With Me」はやはり名曲だな、と強く思ったのであった。当時は林哲司の曲だとはまったく意識していなかったのだが、ある時に気がつき、やはり中学生ぐらいの頃に好きになったものの影響は強いのだな、と実感したのであった。その後、この曲にインスパイアを与えたと思われる音楽の存在も知ったが、それでもやはり文句なく好きだといえる曲の一つであることに変わりはない。松原みきは2004年に若くして逝去したが、この曲はこれからも永遠にどこかのダンスフロアで流れ続けることだろう。

 

 

Pocket Park Pocket Park
2,239円
Amazon