風にさようなら。 | …

i am so disappointed.

遠い春の日の記憶は薄れていくのかと思いきや、むしろディテールが固定されてきている。それはもはや実際の記憶とは少し違って、毎年、思い出す度に脚色され、まったく別のものになっている可能性もある。よく晴れていて、未来は明るく光り輝いていたのだろう。バスが停車して、他の学生たちと一緒に降りる。私は一人であった。バス停のすぐそばに有隣堂書店があるが、そこにはおそらく寄らなかったのではないだろうか。道路をわたった向こう側にまた別の書店があったが、そこにも寄らなくて、本厚木駅のすぐそばにあった書店には寄ったかもしれない。

 

オリエンテーションでたくさんの書類や冊子のようなものをもらった。これから履修登録だとかいろいろあるはずである。キャンパスのムードは明るい。様々なサークルの人たちがお揃いのジャンパーを着て、新入生に声をかける。明るい。

 

小田急線の各駅停車の電車に乗った。部屋は厚木の不動産屋でわりと簡単に決めた。同行してくれた父はもう少し慎重に選んだ方がいいと言ってくれたが、私はとにかく早く決めたかったし、どこであろうと大差はなく、いずれにしても4月からは楽しいキャンパスライフがはじまるのだと、そう信じて疑わなかったのである。

 

隣の部屋には同じ大学に入学することになった、九州の福岡出身だという男の子だった。部屋に遊びに行くと、坂本龍馬のかなり大きなパネルが飾ってあった。尊敬しているのだという。陣太鼓という羊羹のようなものをプラスチックスのへら状のもので切り分けて食べるお菓子をもらい、それがとてもおいしかった。マルタイ棒ラーメンももらったと思うのだが、それはあまり記憶に残っていない。

 

いわゆるワンルームマンションで、新築であった。真っ白な壁に囲まれていて、物はまだ少なかった。町田の丸井でパイプベッドを買い、カバーやシーツ、ピローケースなどはレノマのグレーのもので統一した。よく分からない間接照明まで買って、部屋をカフェ・バーみたいな雰囲気にしようとしていた。要はかなり調子に乗っていたということができるだろう。

 

小田急相模原駅で停車した電車を降り、ホームから出るためには階段を上らなければならない。改札を出て右手側の階段を下りると交番やパチンコ店や富士銀行があり、少し歩くとイトーヨーカドーがあった。その斜め向かいには、レコードレンタル友&愛がある。ほとんどがレコードだが、CDのレンタルも少しずつはじめるようになる。

 

私が帰るには左手側の階段を下りなければならない。小田急の商業施設があり、その中に確か新星堂が入っていたような気がする。マクドナルドがあり、外国人の家族をよく見かけた。近くにアメリカ陸軍の住宅施設があった。商店街にはアイブックスという書店があり、ここではよく本を買っていた。途中にオウム堂というレコード店があった。何かレコードを買って帰ろうと突発的に思い、ここに入ったのだった。いわゆる街のレコード屋さんであり、店内はそれほど広くない。はじめからそれを買おうと思っていたのか、あれこれ迷った末にそれを選んだのか、いまとなってはまったく覚えていない。3週間ほど前に発売されたそのアルバムを、私はそれほど買いたいと強く思っていた記憶がない。それどころか、約2年前にデビューした彼女のレコードを、それまでに一度も買ったことがなかった。

 

コンビニエンスストアのサンクスでその日、買物をしたのかどうかもやはり覚えていないのだが、やはり何かしら買って帰ったのではないかと思う。酒屋のところで左に曲がり、それからかなり歩いて、スーパー三和の少し手前を左に入った辺りに、私が住むワンルームマンションはあった。階段を上り、誰もいない部屋に着いた。夕暮れが近づいてはいたが、まだ暗くはなかったと思う。部屋の電気を点けていた記憶はないのだ。私は買ってきたレコードをジャケットから取り出し、レコードプレイヤーのターンテーブルに載せた。再生のボタンを軽くタッチすると、アームが自動的に動き、レコードの上にゆっくりと針を落とす。ジャケットは立てかけておいた。デビュー当時と比べ、少し大人っぽくなった彼女が頬づえをついて、こちらを見ている。A面1曲目の「WONDER TRIP LOVER」はテクノポップの影響が感じられる、アイドル歌謡としては実験的な曲である。作曲を坂本龍一、編曲をムーンライダーズのかしぶち哲郎が手がけている。このアルバムにも収録されている「くちびるNetwork」はこの年の1月にシングルとして発売され、彼女にとってはじめてのオリコン1位を記録した。作詞は事務所の先輩で、結婚休業中の松田聖子である。

 

1984年に「ファースト・デイト」でデビューすると、すぐに人気者になった。竹内まりやによるキャンパスポップ路線は彼女のイメージにとてもよく似合っていた。愛知県出身で芸能界入りを目指すが、家族から猛反対にあった。それでも意志は強く、ハンガーストライキまでやったのだという。そこでこれを達成できたら芸能界に入ってもいいと母親が出した条件は、当時、成績がかなり良かった彼女をしてもひじょうに困難なものであったのだという。しかし、彼女は猛勉強をしてこれらをすべてクリアしてしまう。

 

流行歌、特にアイドルポップスは好きだったので、彼女の曲もよく聴いていた。歌も上手かったし、とても好ましく思っていた。個人的な好みとしては、やや優等生的すぎるという印象もあり、同じ年にデビューしたアイドルでは菊池桃子の方がおもしろいと感じていた。彼女はこの年のレコード大賞で最優秀新人賞に輝き、翌年のはじめにリリースした「二人だけのセレモニー」は、それまでよりもやや快活なイメージの曲であった。

 

春に私は高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめた。はじめの頃は東京で友達もそれほどいなかったので、アパートではじまったばかりの「夕やけニャンニャン」を観るのを楽しみにしていた。「ザ・ベストテン」や「夜のヒットスタジオ」などの歌番組はとりあえず観てはいたのだが、高校生の頃と比べるとそれほど熱心ではなくなったような気がする。「Love Fair」という曲を歌っている姿を、テレビで観た。デビュー当時のキャンパスポップ的な路線とはかなり異なり、かなりユニークな曲を歌っている印象を持った。秋からテレビドラマ「禁じられたマリコ」に主演していたが、これは何度か観ていた。TBSで火曜の夜8時から放送されていたのだが、この枠といえば堀ちえみの「スチュワーデス物語」や小泉今日子の「少女に何が起ったか」など、アイドルがユニークな演技をするドラマの印象が強い。「禁じられたマリコ」において、彼女は超能力を持つ少女を演じ、その演技はやはり強い印象を残すものであった。

 

「くちびるNetwork」は大ヒットしたが、この曲のパフォーマンスを観た記憶があまりない。この頃は大学受験や合格にまつわるいろいろで、あまりテレビの歌番組などを観ていなかった可能性が高い。それでもおニャン子クラブやその派生ユニットなどについてはよく覚えているので、「夕やけニャンニャン」は観ていたのだろう。また、新宿ルイードで網浜直子のライブを観たりもしていた。

 

そして、大学入学の少し前にキャンパスに近い小田急相模原に引っ越したのであった。ところが、なぜその日に「ヴィーナス誕生」というそのアルバムを買おうと思ったのか、よく思い出してみてもまったく分からない。

 

その日、相模原市の日没時刻は18時9分だったらしい。だから、少なくとも薄暗くはなっていたはずである。壁に掛けた時計を見ると、18時までは少し時間があった。ということは、「夕やけニャンニャン」がまだ放送されている。私はレコードの再生を一旦止め、14インチのテレビに電源を入れた。チャンネルを8に合わせると、スタジオから報道センターの逸見政孝アナウンサーに映像が切り替った。。18時から放送されるニュースのヘッドラインを伝えるためである。ここではいつもスタジオとの冗談っぽいかけ合いがありがちなのだが、この日はどこか神妙な表情である。そして、逸見政孝アナウンサーはこう言った。

 

「岡田有希子さんの自殺はショッキングでしたが...」

 

一瞬、一体何を言っているのかさっぱり分からなかったが、おそらく言っている通りなのだろう。立てかけたレコードのジャケットでは頬づえをついた彼女がこちらを見つめていたが、その彼女はもうこの世にはいなかったのだ。

 

私は「ヴィーナス誕生」をレコード棚にしまい、2曲目以降を聴くことができたのは、かなり後になってからであった。若者たちの後追い自殺が多発し、それは「ユッコシンドローム」などと言われたらしい。そのことを知ったのも、やはりかなり後である。原因は分からない。様々な推測が報道されたり、そのような本も出ていた。小田急相模原のアイブックスで、それを買った。その事実を消化しようと、原稿用紙に文章を書き続け、「よい子の歌謡曲」に投稿した。池袋のパルコブックセンターで、やっと発売された別冊のような本を見かけた。パラパラと見ていくと、私の原稿が一部だけ抜粋して、掲載されていた。よく分からない後味の悪さを覚え、その本は買わなかった。

 

パール兄弟というバンドの記事を、「ミュージック・マガジン」で読んだ。何となくおもしろそうだとは思っていたのだが、ミニアルバム「未来はパール」に続いてリリースされた初のフルアルバム「パールトロン」を買ったのは、リリースから半年以上が経過した1987年の秋であった。

 

いろいろなジャンルのポップ・ミュージックを取り上げ、サエキけんぞうの歌詞は都市生活者としてのリアリティーとシニシズム、そして、ヒューマニティーに溢れているところが大好きになった。首都高から見た千葉の夜景を歌ったシティ・ポップ風の「TRON岬」や、同調圧力的なコミュニケーションについて歌われた「ごめんねエイリやん」、夏の失恋はつらいというテーマの「ナミダの太陽」など、名曲が目白押しである。私がいままでに聴いてきたすべての日本人アーティストによるアルバムの中でも、最も好きな10枚には確実に入るだろう。

 

A面の最後、CDでは5トラック目に「風にさようなら」という曲が入っている。

 

当時、写真週刊誌には、彼女が所属事務所のビルの屋上からダイブした、その現場の写真までもが掲載されていた。

 

原因は分からないし、私はそれほど熱心なファンであったというわけではない。結果的に、生前には1枚もレコードを買わなかった。しかし、彼女を知っていたし、好きであったことには間違いがない。このことは簡単にはスルーできなかったし、自分なりに解釈をしようとも試みた。しかし、なぜそのようなことをするのか。その必要はあるのか。というか、それだけの資格があるのだろうか。それはよく分からないのだが、とにかくまったく無関係ではいられなかった。こんな気持ちを上手く言えたことはない。

 

「イヤなことが耳について離れない モノクロームのグラビア 気のせいだと思っても」

 

「風にさようなら」は、このような歌い出しではじまる。そして、次の一節である。

 

「君のことはよく知らずにいたままで 微笑みだけがリメイン 手をのばして探っても」

 

その通り、いつも彼女の微笑みだけが心の中に残っている。私のような者が言う資格は無いのかもしれないが、少なからず当時の私は彼女が属していたリアルタイムのポップ・カルチャーを享受していたし、そこに彼女の存在は不可欠であった。微笑んでいる彼女が確実にいたし、彼女の存在が無ければ、あの頃の記憶は完全ではない。

 

「空気の色はBroken Toys 傷が直らないまま だれも、なにも思いだせない」

 

この曲を聴いて、私がどれだけ救われたことだろう。この曲を聴かなければ、私がふたたび彼女の歌や映像を聴いたり観たりできるようになるまでには、もっと多くの時間を要したかもしれない。

 

「ごめんね、そっとしたままで 風にさようなら 風にさようなら さよならを繰り返すくりかえす晴れた日の午後だよ」

 

サエキけんぞうの歌はものすごくポップである。それでいて、やさしい。

 

「風にさようなら」には、当時のアイドルファンであればスルーできるはずのない、かと言ってどのように受け止めていいのかも分からない、ひじょうに複雑な感情に、やはりアイドルを好む者として真摯かつ切実に対峙したであろうリアリティーが感じられる。歌はいかにもサエキけんぞうらしく、過剰な感情移入をすることもなく、サラッとポップに歌われている。

 

「風にさようなら」の動画が残念ながら見つからなかったので、残念ながらここに貼ることができない。しかし、出来るならばぜひ聴いてもらいたい。「パールトロン」などのパール兄弟の曲は、Apple Musicなどのストリーミングサービスでも配信がされているようである。

 

当時、私はアイドル業界というシステムに加担すること自体にすら自責の念を覚えていた。あれから30年以上が経ち、帰宅すると机の上にビクターエンタテインメントからの封筒が載っていた。中身が何なのかは分かっているし、マンションのポストからここまで持ってきてくれた妻に見られたならば相当にややこしいことになるのは明白である。要は私が大好きなWHY@DOLLのライブに行った時にメンバーと一緒に撮ったチェキであり、それにサインをして送ってくれたわけである。そのことをすっかり忘れてしまったわけではなく、それを踏まえてファンでいようと思う。そういった思いも含め、結果的に推せるユニットだと思うからである。

 

彼女の理由を私は知らないし、知ることも望まれてはいないはずである。しかし、彼女が短い年月の中で残した作品の輝きは失せることがないし、今後も語り継がれるべきであろう。

 

「永遠」という言葉を、私は信用しない。なぜなら、そうでありそうな可能性のある思いを、幾度にもわたり、いとも簡単に裏切られてきたからである。大好きなWHY@DOLLのリーダー、ちはるんこと青木千春さんが作詞をした「Forever」という曲があり、それは不可能であるからこそ美しいと思う。しかし、たとえ終わったとしても、その時に実在した思いの強さ、感動などは記憶や印象として残るわけであり、それが心を満たしてくれるとするならば、それこそが「永遠」なのであろう。