1994年の4月9日は土曜日であった。私は京王線と井の頭線の電車を乗り継いで渋谷で降り、ロフトの1階にあったウェイヴというCDショップに行った。毎週土曜日にはそうしているように、イギリスの週刊音楽誌「NME」の最新号と何かしら新しくリリースされたCDを買うためである。
店内にはスタッフがセレクトしたと思われる音楽が流れていた。売場の上の方に小さなモニターがあり、いま演奏されているCDのジャケットが映し出されるようになっていた。その時に一体、誰の何がかかっていたのかはまったく覚えていないのだが、次に突然、ニルヴァーナ「ネヴァーマインド」に収録されていた激しめの曲が流れた。おそらく「テリトリアル・ピッシングス」だったような気がするのだが、記憶が定かではない。
なぜ2年以上も前に出たメガヒットアルバムからの1曲が、いまこのタイミングでかかるのか。ニルヴァーナならば前の年の秋に最新アルバムの「イン・ユーテロ」が出ている。モニターを見上げると、そこには直近の約2年半の間におそらく何十回となく見ていたであろう、あの水中で赤ちゃんがアメリカ紙幣に向かって泳いでいるジャケットが映っている。そして、コメントカードには手書きの文字で「カート・コバーン自殺」と書かれていた。
衝撃は受けたが、それほど驚いてはいなかった。つい最近もドラッグのオーバードーズか何かの記事を読んだような気がしていた。
1990年にソニック・ユースがアルバム「GOO」をリリースし、まあまあ売れたということであった。アンダーグラウンド・シーンで人気の高いベテラン・バンドがメジャー・レーベルと契約し、アルバムを出したということで話題になっていたはずである。売れたとはいっても、オルタナティヴ・ロックのバンドにしてはという話であり、もちろんマイケル・ジャクソンやガンズ・ン・ローゼズと全米アルバム・チャートの上位を争うという規模には程遠い。というか、そもそもそのレベルでのセールスを期待するような音楽ではない。
1980年代後半に、アメリカのアンダーグラウンド・シーンではノイジーなギター・バンドが活躍しているという記事を、音楽雑誌などでたまに目にしていた。現在のようにインターネットですぐに試聴するような環境はもちろん無く、これらの音楽は私が観たり聴いたりするテレビやラジオの番組でもかからなかったので、しばらくの間は文字での情報で知るのみであった。
ダイナソーJRのJ・マスシスやピクシーズのブラック・フランシスなどはキャラクターも立っていたので、「ロッキング・オン」などではおもしろおかしく取り上げていたような記憶がある。それらの音楽はラウドでヘヴィーでノイジーであり、場合によっては殺伐としてものに聴こえることもある。おそらくそのような理由で、「ロッキング・オン」ではこれらの音楽のことを「殺伐系」などと勝手に呼んでいた。
私は主にパンク/ニュー・ウェイヴ的な価値観を持つ音楽を中心として、その周辺の様々なジャンルのポップ・ミュージックをも節操なく聴いていたのだが、ハード・ロック/ヘヴィー・メタルについては、ほぼ対立的な概念を持つ音楽と見なしていたので、なるべく聴いたり好きになったりしないように気をつけていた。どのような音楽を聴くのかは、自分自身がどのような人間であるのかを規定するものでもあった。
とはいえ、私が高校生だった頃、日本のハード・ロック/ヘヴィー・メタルシーンはわりと盛り上がっていて、1970年代に「赤頭巾ちゃん御用心」をヒットさせたアイドル的バンドのレイジーはラウドネスに解明し、本格的なハード・ロック・バンドとして海外でも高評価を得ているということであった。他にもアースシェイカー、44マグナム、アクション、女性ボーカリストの浜田麻里、本城未沙子などいろいろなバンドやアーティストがいた。友人の中にもそれらの音楽をやるバンドを組んでいる者もいたが、特にいがみ合うというようなことはなく、そこは普通に接していた。また、このジャンルの音楽が嫌いだと公言してはいたものの、NHKで放送されるハード・ロック/ヘヴィー・メタル系のライブの番組などは観ていたりもした。
当初、爆風スランプはサブカル的な受け方もしていたのだが、デビュー・アルバム「よい」にはヘヴィー・メタルを戯画化して茶化した「たいやきやいた」という曲があり、ライブではヘヴィー・メタルのバンドメンバーにありがちな長髪のウィッグを着けて演奏していた。
1986年にRUN-DMCがエアロスミスの「お説教」をカバー、メンバーもゲスト参加した「ウォーク・ジス・ウェイ」が大ヒットし、ヒップホップの人気をお茶の間レベルにした。ビースティ・ボーイズのデビュー・アルバム「ライセンス・トゥ・イル」にはハード・ロック/ヘヴィー・メタル系のサンプリングが多用されていて、全米1位の大ヒットを記録した。話題になっていたので私も買ったのだが、当時はあまり好みではなかったのと、ステージで下品な下ネタのようなことをやっている記事を見て大嫌いになって、CDはすぐに処分した(後に買い直すのだが)。
1990年代にはソニック・ユースやダイナソーJRのCDも買い、わりと気に入っていた。翌年には大好きなパブリック・エナミーがスラッシュメタルのアンスラックスとの共演でシングル「ブリング・ザ・ノイズ」をリリース、さらにピクシーズの「世界を騙せ」がラウドでヘヴィーなサウンドだったため、このような音楽に対する抵抗がかなり無くなってきた。夏ぐらいにはメタリカのアルバムすら買って、わりと気に入って聴いていたのである。そのようなタイミングでの「ネヴァーマインド」であった。
渋谷から六本木へ向かうバスの中で「ロッキング・オン」を開くと、アルバム・レビューのぺージで「ネヴァーマインド」が取り上げられていた。扱いは大きくはない。そして、付けられた見出しは「売れそな殺伐」というようなものであった。
「ネヴァーマインド」のCDを買い、やはり気に入ってよく聴いていた。ラウドでヘヴィーなのに、メロディーはひじょうにポップである。パンクっぽいフィーリングも感じる。何かの雑誌でビートルズ・ミーツ・レッド・ツェッペリンなどと書かれていた。ソニック・ユースと同じ、メジャーのゲフィンに移籍して最初のアルバムであり、やはりサウンドは売るために分かりやすくしたのだろう。
当時、ヒットチャートを見るのを楽しみにしていたのだが、「ネヴァーマインド」はみるみるうちに全米アルバム・チャートを駆け上がっていった。すでにこのタイプの音楽ではあり得ないような高順位まで来ていたのだが、ついにはマイケル・ジャクソンやガンズ・ン・ローゼズよりも売れて、第1位にまでなったのであった。その様は、見ていてじつに痛快であった。
アルバムの1曲目に収録され、先行シングルとしてリリースもされていた「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は後にポップ・ミュージック史上最も印象的なものの1つとなるイントロを有し、ニルヴァーナの音楽の特徴でもある静けさと騒々しさとのギャップを効果的に生かしたポップソングである。ヒットのきっかけの1つでもあるビデオでは、まったくロック・スターらしくはないメンバーの後ろで、チアガールたちが踊っている。映像は常にどこかくすんだ色合いであり、チアガールたちに笑顔はない。まるで朽ちていくアメリカの商業的なカルチャーに対する痛烈な批判のようにも見える。ラウドでヘヴィーではあるがものすごくキャッチーなメロディーを持つこの曲でカート・コバーンが歌う歌詞は、「ハロー、ハロー、ハロー、どれぐらい酷い?」というようなものであった。
「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」は、全米6位、全英7位のヒットを記録した。タイトルに出てくる「ティーン・スピリット」とはアメリカのデオドラントの名前であり、友人であるビキニ・キルのキャスリーン・ハンナによる「カートはティーン・スピリットの匂いがする」という落書きが、このタイトルの元になったということである。「ネヴァーマインド」からはその後、「カム・アズ・ユー・アー」「リチウム」「イン・ブルーム」の3曲がシングル・カットされた。
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NEVERMIND/REMASTERED
560円
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「ネヴァーマインド」の大ヒットは、当時のポピュラー音楽界や若者文化に大きな衝撃と影響とをもたらした。カート・コバーンは一躍、若者の代弁者のような扱いをされるのだが、当人はただ好きな音楽がやりたいだけであり、ロックスター的な振る舞いにはむしろ嫌悪感を抱くような人物だったようである。
「ネヴァーマインド」のようなキャッチーなアルバムが期待されていたと思われるが、カート・コバーンはオルタナティヴ・ロック界のカリスマ的存在であったスティーヴ・アルビニをプロデューサーに迎え、自分自身が本当にやりたい音楽に近いものになった。「ネヴァーマインド」と比べ、よりダークでヘヴィーな音楽性となり、セールスもやはり落ちたのだが、カート・コバーンの孤高のアーティストとしてのカリスマ性は、より高まったといえるのかもしれない。
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In Utero
804円
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私がカート・コバーンの死を渋谷のウェイヴで知ったのは、「イン・ユーテロ」のリリースから半年と少しを過ぎた頃であった。現地時間で4月8日に発見されたが、死亡が推定されるのは5日だという。自殺として報道されたが、死因については諸説あるようである。
「ネヴァーマインド」よりもセールスが落ちたとはいえ、「イン・ユーテロ」も全米1位を記録していた。そして、カート・コバーンの死が衝撃をあたえたこの年、秋にはライブ・アルバム「MTV・アンプラグド・イン・ニューヨーク」がリリースされ、これも全米1位の大ヒットになった。
1993年の11月に行われたアコースティック・セットによるライブの模様を収録しているが、カート・コバーンのシンガー・ソングライターとしての魅力がよく分かり、ニルヴァーナのスタジオ・アルバムとはまた違った良さがある。
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Mtv Unplugged In New Y
606円
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ニルヴァーナの活動期間はひじょうに短いが、ポップ・ミュージック界に遺したものはあまりにも大きい。そして、この季節になると、あの日の渋谷ウェイヴでのことを思い出す。
インターネットやスマートフォンを手に入れたいま、今後、あのようにして訃報にふれることは、もう無いのかもしれない。


