1985年4月1日に、フジテレビでバラエティー番組「夕やけニャンニャン」の放送が開始された。人気お笑い芸人の片岡鶴太郎が司会を務め、当時、若手お笑いコンビとして人気急上昇中であったとんねるずがレギュラー出演していた。この番組のコンセプトは1983年から土曜深夜に放送され、女子大生ブームを巻き起こした「オールナイトフジ」の高校生版であり、片岡鶴太郎、とんねるずの出演もその流れを汲むものだったのであろう。
「オールナイトフジ」の人気を牽引したのが出演している女子大生たちからなるオールナイターズだったのと同様に、「夕やけニャンニャン」には現役の女子高校生が出演し、おニャン子クラブと名付けられていた。このネーミングセンスには、若干の悪ノリを感じないでもなかった。というのは、当時、「ニャンニャン」という言葉が性行為の隠喩としても用いられていたからである。元となったのは、1983年に未成年の女性タレントがホテルのベッドで喫煙している写真が掲載された際に、記事の中で「ベッドで二人仲良くニャンニャンしちゃった後の、一服」と書かれたことである。
おニャン子クラブのメンバーには一般の現役高校生も多かったが、すでに高校を卒業していたり、芸能事務所に所属していたりする者も少なくなかった。
河合その子は愛知県の出身で、1983年にCBSソニーが主催した「ティーンズ・ポップス・コンテスト」で準優勝したことをきっかけに、芸能活動を開始したようである。しかし、その後、特に仕事がたくさんあるわけでもなく、専門学校を卒業後は就職も内定していたという。ところが、「夕やけニャンニャン」のオーディションコーナーに出演したところ、高得点で合格し、それからおニャン子クラブとしての活動がはじまったということである。
おニャン子クラブは次第に視聴者からの人気を獲得していき、7月5日には「セーラー服を脱がさないで」でレコードデビューもすることになった。番組開始時にはチェッカーズ「あの娘とスキャンダル」だったオープニングテーマ曲は、この曲に変わった。発売記念のイベントが池袋サンシャインシティの噴水広場で予定されていたのだが、予測を大きく上回る人が集まったため、やむなく中止に追い込まれた。
「セーラー服を脱がさないで」はタイトルからして確信犯的ではあったのだが、秋元康による歌詞には「友達より早くエッチをしたいけど」「デートに誘われてバージンじゃつまらない」といったフレーズも入っている。
「エッチ」という言葉はは元々「変態(Hentai)」の頭文字から取られたらしく、明治時代に女子学生の間で使われはじめたのだという。しかし、「エッチをする」のように性行為そのものを意味する言葉として使われはじめたのは1980年代になってからであり、テレビにおいてはお笑い芸人の明石家さんまや島田紳助が言いはじめたとされているようである。つまり、「セーラー服を脱がさないで」がリリースされた時点において、「エッチをする」はまだ新しい言い回しであったわけである。
「セーラー服を脱がさないで」はフジテレビと同じフジサンケイグループのキャニオンレコードからリリースされ、パフォーマンス時におけるフォーメーションの前列でありメインボーカルに抜擢されたのは新田恵利、中島美春、福永恵規、内海和子の4人であった。国生さゆり、河合その子、城之内早苗といった、後にCBSソニーからデビューするメンバーは後列であった。
そして、河合その子は9月1日に「涙の茉莉花LOVE」で、おニャン子クラブから初となるソロ・デビューを果たす。作詞は秋元康ではなく、T2となっている。これはレコーディングディレクターの稲葉竜文と作曲・編曲も手がけた後藤次利との共同ペンネームである。後藤次利と河合その子は、このリリースから約8年半後の1994年4月に結婚することになる。
「涙の茉莉花LOVE」はオリコンで1位となる大ヒットを記録した。当時、20歳の河合その子はおニャン子クラブのメンバーの中でも年上であり、大人のイメージがあった。テレビ出演時のパフォーマンスにおいては一部、キーボードを弾く場面もあった。
当時、私は高校を卒業後、東京で一人暮らしをはじめて1年目であった。千石の大橋荘というお風呂がなくて日当たりも悪いアパートに住み、水道橋の予備校、研数学館に通っていた。授業は午前中で終わるのだが、それから帰ってきて勉強をしたりしなかったりしていた。予備校で友人が増えはじめてからは一緒に自習室で勉強をしたり、街で時間を潰すようにもなるのだが、それまでは真っ直ぐ帰ることがほとんどであった。そんなわけで「夕やけニャンニャン」も自然に観るようになったのだが、当初は平日のこんな時間の番組を観ているような人はそんなにいないのではないかと思っていた。しかし、同じ高校から東京に出てきた友人たちと久しぶりに会って話をすると、ほぼ全員が観ていて、すぐにおニャン子クラブでは誰がタイプかというような話になっていた。
私は特にメンバーの中で誰が好きということはなかったが、とにかく「夕やけニャンニャン」が放送されている時のテレビの向こう側が楽しそうで、早くこの浪人生という立場を脱して向こう側に行きたいと、そのようなことを考えていた。河合その子についてはとても美しいと思っていたのだが、やはり自分よりも年上という意識が強く、疑似恋愛的な感じにはならなかった。それは当時、私がまだ十代だったからであり、後に年上も年下もあまり関係なくはなるのであった。知らんがな。
また、ひじょうに大人っぽいイメージではあるのだが、時々、子供っぽい表情や発言をすることがあり、そこにまた良さを感じてもいた。吉沢秋絵「季節はずれの恋」のB面に収録された「会員番号の唄」は、おニャン子クラブによる自己紹介ソングなのだが、河合その子のパートは「20歳を過ぎても子供と まわりのみんなに言われるの 大人のその子をいつか見せたい」である。
その後、高井麻巳子と岩井由紀子からなるユニット、うしろゆびさされ組が同名のシングルをリリースするとオリコン5位のヒットとなり、おニャン子クラブ「およしになってねTEACHER」、河合その子「落葉のクレッシェンド」が2位と、おニャン子クラブ関連のレコードは出れば必ず売れるというような状況になっていくのである。
年が明け、1986年になっても勢いは衰えず、新田恵利「冬のオペラグラス」、うしろゆびさされ組「バナナの涙」が1位、国生さゆり「バレンタイン・キッス」が2位、おニャン子クラブ「じゃあね」、吉沢秋絵「季節はずれの恋」が1位と、数ヶ月間の間に大ヒットを連発していた。
そして、3月21日にリリースされた河合その子の3枚目のシングル「青いスタスィオン」も、順当に初登場1位になったわけである。
どこかヨーロピアンな雰囲気も漂う曲調で、歌われている内容は夢を追いかけて都会へと旅立つ恋人との別れである。
世は卒業シーズンであり、この時点におけるおニャン子クラブの最新シングルも、「じゃあね」という卒業ソングであった。リードボーカルを取るのは会員番号5番の中島美春である。おニャン子クラブにおいては前列でメインボーカルのうちの1人、人気もあったのだが、高校卒業後は進学し、学業に専念したいという理由での卒業であった。また、河合その子も同じく、おニャン子クラブを卒業することになっていた。こちらはソロ活動を本格的に行うことが理由であった。
「青いスタスィオン」には、どこか旅情をもかき立てるところもある。タイトルにある「スタスィオン」は駅を意味する「station」のフランス語読みなのだが、フランスでは「station」というと停留所のようなものを指すらしく、歌詞にあるような「駅のホーム」がある場合、それは「gare」なのだという。この曲のタイトルは、元々は歌詞にもある「思い出着替えて」でだったのだが、フランスっぽいタイトルにしたいというディレクターの意向により、「青いスタスィオン」になったのだという。
河合その子のデビュー曲「涙の茉莉花LOVE」のB面、「恋のチャプターA to Z」の歌詞には、「知りたいの HOMME 色を変えて ギャルソン」と、フランス語の単語が登場する。また、2枚目のシングル「落葉のクレッシェンド」のB面「午後のパドドゥ」と、タイトルの時点ですでにフランス語の単語(「Pas de deux」は「2人のステップ」という意味で、バレエにおいて男女のペアで踊られるダンスを指すようである)が用いられている。作詞者は「恋のチャプターA to Z」が島武美、「午後のパパドゥ」が芹沢類、そして、「青いスタスィオン」が秋元康と、それぞれ異なっている。その美貌には、清楚で上品な雰囲気があり、雑誌「オリーブ」の世界のようなリセエンヌ的なイメージを打ち出そうとしていたのかもしれない。
河合その子のシングル曲には哀愁の漂う、切ない内容のものが多く、テレビでそれらの曲を歌う姿にもそのような印象があるのだが、「恋のバドドゥ」は楽しい曲であり、シングル曲とはまた違ったキュートな魅力を発見することができる。
「青いスタスィオン」にはプロモーションビデオが存在し、それは広島県にあった今井田駅で撮影されている。
おニャン子クラブやそののメンバー、ユニットによるレコードはその後も量産され、この年のオリコンシングルランキングで1位になった46曲のうちの30曲を、それらが占めるような状況であった。
「青いスタスィオン」は歴代のおニャン子クラブ関連のレコードの中で、最も売れた作品である。おニャン子クラブや河合その子の人気だけではなく、曲そのもが支持されたことが大きいような気がする。
河合その子は「青いスタスィオン」をオリコン1位のヒットにした後、おニャン子クラブを卒業したが、「夕やけニャンニャン」にはゲストとして時々、出演していたし、短期間だけ放送されていた「夕食ニャンニャン」の司会を務めてもいた。
7月2日にリリースされたシングル「再会のラビリンス」は「青いスタスィオン」の続編のような内容を持つ曲であり、やはり内容は切なく、これもオリコン1位を記録した。
その後、作品を発表し続ける過程でアーティスト志向を強め、全曲が自らの作曲によるアルバムをリリースしたりもしていた。1990年代半ばに引退、結婚したが、2010年には活動を再開し、資生堂化粧品のCMに出演していた。
「青いスタスィオン」がヒットした春、私は大学受験に合格し、4月からは第1志望の大学に通うことになっていた。キャンパスが神奈川県の厚木市にあったのと、とにかく大学に合格したらお風呂が付いている部屋に引っ越そうと思っていたので、大橋荘は出ていくことになった。荷物を段ボール箱に詰めながら、14インチのテレビで「夕やけニャンニャン」を流していた。河合その子は切なげに春の日の別れを歌っていたが、それは新しい未来への旅立ちのように思えた。日当たりの悪い部屋ではあったが、心の中で未来はどこまでも明るく輝いていた。この季節にこの曲を聴くと、いつもあの時の感じを思い出すのだ。
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