1980年の旭川でプラスチックスを聴いていた。 | …

i am so disapointed.

先日、久しぶりにタワーレコード新宿店に行くと、売場のかなり目立つ場所でプラスチックスとジューシィ・フルーツの新しいCDが大きく展開されていた。YMOことイエロー・マジック・オーケストラの社会現象的ともいえるヒットを中心としたいわゆるテクノブームのもと、プラスチックスがアルバム「ウェルカム・プラスチックス」を発表し、ジューシィ・フルーツがシングル「ジェニーはご機嫌ななめ」をヒット・チャートの上位に送り込んだのは1980年、いまから38年も前のことである。

 

主に年配に人が見る演芸というイメージがあった漫才は、B&B、ツービート、紳助・竜介、ザ・ぼんちらのブレイク、及びこれらのコンビをフィーチャーしたフジテレビの番組「THE MANZAI」 によって、ナウなヤングのホットな流行となった。1970年代後半のヒットチャートにおいては、自作自演の歌手やバンドを中心とするニューミュージックが目立っていた。歌謡界ではピンク・レディー、沢田研二、山口百恵といったビッグスターたちがヒットを連発していたこともあり、新しいアイドル歌手はデビューしてもなかなかブレイクすることができなかった。

 

しかし、この年になると松田聖子、田原俊彦をはじめとしたアイドル歌手たちが、少しずつヒットチャートでも結果を残しはじめたのだった。この年の元旦に沢田研二がリリースし、大ヒットしたシングルのタイトルは「TOKIO」であり、派手なコスチュームで落下傘を背負って歌う姿が印象的であった。そのファッションは、後にMANZAIブームの人気者たちによるバラエティー番組「オレたちひょうきん族」において、ビートたけしが演じたたけちゃんマンによってパロディー化される。「TOKIO」を作詞していたのは、コピーライターの糸井重里である。

 

これらの現象がほぼ同時に起きていて、1970年代から1980年代に変わった瞬間に、すべてがよりライトでポップな感覚を志向しはじめたかのようであった。

 

私は北海道の旭川市に住む、中学生であった。いまとなっては記憶がそれほど定かではないのだが、確か土曜日のことだったと思う。学校から帰り、午後にテレビをつけると芸能人がものまねをするような番組が放送されていた。当時からそのような番組は人気であり、あのねのねが司会をしていたり、素人が出演するコーナーがあったりもしたような気がする。しかし、それらは大抵の場合、いわゆるゴールデンタイムに放送されていたはずだから、その時になぜそのような番組が流れていたのかがよく分からない。再放送だったのかもしれないし、もしかすると完全な記憶違いなのかもしれない。

 

とにかくその番組で、アイドル歌手の倉田まり子がプラスチックスのボーカリスト、佐藤チカのものまねで、「デリシャス」を歌っていたのだ。とううか、そう記憶しているのである。

 

倉田まり子は1979年にデビューしたアイドル歌手だが、やはり大ヒットに恵まれることはなかった。それでも3枚目のシングル「HOW!ワンダフル」はグリコポッキーのCMに使われ、テレビでもよく流れていた。また、年末の各音楽賞においても、新人賞に選ばれてもいた。この年のレコード大賞新人賞には倉田まり子の他に竹内まりやらも選ばれていたが、その中から最優秀新人賞に輝いたのは、「私のハートはストップモーション」の桑江知子であった。

 

確かNHK-FMの番組で、サザンオールスターズの桑田佳祐が倉田まり子が良いというような話をしていて、それから私も気にして見るようになった。また、当時、中学校の同じ学級にいた女子の中に気になる人がいたのだが、彼女がよく「HOW!ワンダフル」の「男がいて女がいて恋ができるの あなたがいて私がいてキスができるの」というところを歌っていたことも、好印象につながっていた。

 

そういったわけで、私は当時通っていた中学校の近くにあったレコードも売っている時計屋さんや、自宅に帰る途中にあったいわゆる街のレコード屋さんにおいて、倉田まり子のシングルレコードを買い集めるようになった。とはいっても、その時点では「グラジュエイション」「いつかあなたの歌が」「HOW!ワンダフル」の3枚しか発売されていなかったのだが。

 

私が新曲としてはじめて買った倉田まり子のシングルが1月21日発売の「イヴニング・スキャンダル」であり、このまったく同じ日に、プラスチックスのデビュー・アルバム「ウェルカム・プラスチックス」とシングル「トップ・シークレット・マン」が発売されてもいる。

 

芸能人がテレビでものまねをする場合、その元ネタが世間一般的に知られている人でなければ、あまり意味がない。当時、プラスチックスは一般的な日本国民にどの程度の認知を得られていたのであろうか。そう考えると、この年に倉田まり子がテレビでプラスチックスのものまねをしていたという私の記憶は果たして間違いがないものなのだろうかと、自分でもかなり不安になっているのである。インターネットで検索しても、私が過去に書いたブログ記事だけしか結果として表示されない。これはかなり怪しいのではないか。

 

しかし、私が旭川市内のレコード店で「デリシャス」がB面に収録された「トップ・シークレット・マン」のシングルを買ったのは、おそらくこれがきっかけであり、それまでに雑誌などで名前を見たことはあったものの、実際の音楽を聴いたことはなかったはずである。

 

おそらく倉田まり子の歌によってはじめて聴いたと思われる「デリシャス」はそれまで聴いたことがあるどの日本のポピュラー音楽とも異なる、新鮮なものであった。歌詞も日本語なのか英語なのかよく分からず、キャッチーなフレーズの羅列のようであり、それでいてどこかしら批評的であるようにも感じられた。それで、この曲が入ったシングルを買ったのである。

 

それからとにかく聴きに聴きまくった。A面の「トップ・シークレット・マン」は佐藤チカではなく、中西俊夫がリード・ボーカルを取っていて、歌詞は英語だったが、これもかなり気に入った。ジャケット写真に写ったメンバーの写真にも、どこか新しい時代を予感させてくれるものがあり、それも含めてすぐに好きになった。学校で使うノートの表紙や教室の机の上、家で使っていたテープカッターまで、プラスチックスのロゴを書きまくった。なけなしのお小遣いをかき集めてアルバム「ウェルカム・プラスチックス」も買ったのだが、これがまた最高にカッコよくて、毎日毎日聴いていた。録音したカセットテープを入れたラジカセを自転車のかごに入れて、旭川のサイクリングロードを走り、プラネタリウムや黄金バットの展示があった青少年科学館に行ったりしていた。

 

その頃にはヒカシュー、P-MODEL、チャクラといったテクノポップのバンドも人気で、テレビに出るようなこともあった。福岡出身のシーナ&ザ・ロケッツはこの年の夏に「ユー・メイ・ドリーム」をヒットさせたが、シンプルなロックンロールに近い音楽性を持つバンドであった。それでも、イエロー・マジック・オーケストラと関係の深いアルファレコードからレコードを出していたり、細野晴臣がプロデュースした作品があったりしたことから、私などはテクノ/ニュー・ウェイヴ系のバンドだと思っていた。

 

プラスチックスの2枚目のシングル「GOOD」は6月21日にリリースされ、それもすぐに買ったはずである。夏休みには親戚が家に遊びに来て、夜にこのレコードをかけながら、いとこたちと踊り狂った記憶がある。次のシングル「ピース」も買ったのだが、9月21日にリリースされた2枚目のアルバム「オリガト・プラスチコ」は買わなかった。その頃には関心がもう他のものに移っていたのかもしれないし、たまたま使えるお金が無かったのかもしれない。プラスチックスは翌年に3枚目のアルバム「ウェルカム・バック」をリリースし、その内容は1、2枚目のアルバム収録曲から抜粋された曲に新しいアレンジを施したものであった。FMラジオの番組で何曲か聴いたが、サウンドがよりヘヴィーになっているような印象があった。「ウェルカム・プラスチックス」の頃のチープなリズムボックスに象徴される軽快なノリから、かなり変わっているような感じがした。このアルバムは海外でもリリースされたが、プラスチックスはこの年で解散したのであった。

 

ジューシィ・フルーツは近田春夫のバックバンドであったBEEFから発展したもので、ヒットした「ジェニーはご機嫌ななめ」もメンバーの沖山優司と近田春夫との共作である。近田春夫&BEEFの演奏を、日曜日の昼に放送されていた鈴木ヒロミツが司会の番組「HOT TV」で観たことがあったような気がする。全米ヒット・チャートの情報があったり、日本のニュー・ウェイヴ系バンドがライブをやったり、地方に住むミーハーな中学生にとってはなかなかありがたい番組であった。この番組にはバンドコンテスト的なコーナーもあり、その2代目チャンピオンに輝いたのは、後にメジャーデビューも果たすザ・シャムロックである。バンドはすでに解散しているが、中心人物であった山森"Jeff"正之は自身のバンド、THE ORANGESやザ・コレクターズにもベーシストとして参加する一方、現在はジューシィ・フルーツのメンバーでもある。

 

今回リリースされたジューシィ・フルーツのアルバム「BITTERSWEET」は完全な新作であり、プラスチックスの「A」は2016年に行われた再結成ライブの模様を収めたものである。オリジナルメンバーの立花ハジメ、中西俊夫、島武美に加え、リンダdada、momoが参加している。このライブが行われた翌年、中西俊夫は逝去し、今回、このアルバムはその一周忌を偲んでリリースされたもののようである。

 

田原俊彦が「哀愁でいと」でデビューと同時に大ヒット、女性アイドルでは松田聖子、河合奈保子、柏原よしえ(後に芳恵に改名)らがデビューし、後のアイドルブームにつながる流れができたこの年、私はいずれのレコードも買っていなく、プラスチックスの「GOOD」と同じ6月21日にリリースされた倉田まり子のアルバム「ストーミー・ウェザー」は買っていた。家族で妹の幼稚園の運動会を観に行っていたのだが、それを抜け出して旭川の市街地で買ったのだったと思う。確か同じ日にビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」の輸入盤も買っていて、それが私が買ったはじめての洋楽のアルバムであった。その年にビリー・ジョエルはアルバム「グラス・ハウス」をリリースしていたのだが、NHK-FM「軽音楽をあなたに」で特集されていたのをエアチェック(何のことはない、ラジオ放送をカセットテープに録音することである)したものを何度も聴いていて、「ニューヨーク52番街」収録曲「オネスティ」「マイ・ライフ」「ビッグ・ショット」の方が「グラス・ハウス」収録の「ガラスのニューヨーク」などよりも気に入ったからである。いつの間にかポピュラーになっていた「中二病」というワードだが、ウィキペディアで調べてみると、その症例の1番目が「洋楽を聴き始める」である。その日、「軽音楽をあなたに」のビリー・ジョエル特集をエアチェックしようと思った理由は、そろそろ洋楽も聴いておいた方がいいかもしれないというような、いかにも「中二病」(言うまでもなく、当時そのような言葉は存在していない)的な理由ではあった。もちろんその時、私も中学二年生であった。

 

「ストーミー・ウェザー」には、洋楽のカバー曲がかなり収録されていたような印象がある。倉田まり子のこの前後のアルバムは数年前にCD化されたのだが、このアルバムはされていない。国内アーティストのLPレコードが2500円から2800円に値上げされてからはじめて買ったレコードが、確かこれだったような気がする。同じタイミングで、シングル盤は600円から700円に値上げされた。輸入盤で買ったビリー・ジョエルの「ニューヨーク52番街」は2200円ぐらいだったはずである。