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i am so disappointed.

「多幸感」なる日本語をそれほど以前からよく目にしていたかというと、そうでもないような気がする。私の場合、それはPerfumeが全国的にブレイクした頃、そのライブパフォーマンスの感想として、よく見かけるようになった印象がある。
 
とはいえ、いまひとつピンきていなかった。どちらかというと、より陰影にとんだ表現の方に魅かれる傾向にあるのではないかと、自分自身を分析していたというか、その方が深みがある人間ぽいのではないか、などと思っていた可能性もある。
 
しかし、2017年2月5日の時点で、私は思う。やはり、「多幸感」は最高だよね、と。
 
この期に及んで、私は「多幸感」という概念を、おそらく理解したのではないかと思える。
 
それは文字通り、とにかく幸福感に満ち溢れている。一片の曇りもなく、とにかく幸せなのである。このような精神状態が存在するとは、想像だにしていなかった。仮にあったとしても自分には無関係というか、もし体験したとしても、何やら薄っぺらいものに思えるに違いないと、そんな風に勝手に思っていた。しかし、これが濃密にして濃厚であり、至高の体験以外の何物でもないのである。
 
それは、ある特定の個人をきっかけとして、私の脳内で起こる現象である。他の状況では一切起こりえないし、想像すらできない。その人が私の言動などに対し、たとえきわめてライトでマイルドなレベルだとしても、笑ったり反応してくれるだけで、世界はあたかも天国にいちばん近い場所であるかのような幻覚を、きわめてリアルにヴィヴィッドに感じることができる。
 
人生最高の一日はもう過ぎ去ってしまったのか、あるいはこの先に訪れるのか、そんなことを考えることがあるが、いまならばその1日のことをはっきりと特定することができるし、おそらく私はこの先しばらく、あるいは死ぬまでのすべての日々を、その日の記憶の利息だけで食いつないでいくのではないかという気がしているし、それでもいいのではないかという気分にもなっている。
 
よく分からないが、脳内麻薬のようなものが出まくっているのではないかと思う。それは、おそらく普通の状態ではない。程度はどうあれ、おそらくすべては見抜かれているし仕組まれているので、それについて特に思うところは無いし、むしろ好都合なのではないかと思う。もはや生きていく上で、重要なこととそうではないこととの区別は悲しいぐらいにはっきりついていて、それがおそらく世間一般から見るときわめて些細な要因に左右されまくっていることを、いかにもくだらないなと思うし、内心ではとてつもなく誇らしく思っているのである。
 
もう本当にどうかしているのではないかと思わなくもないが、それならばそれで仕方がないな、とも思う。出来るだけ迷惑はかけないように、それだけは留意していきたい。
 
そろそろこのようなテンションになってきたので、また久しぶりに小旅行の計画を立ててみたいと思う。おそらく心の底から軽蔑されるのだろうとは思うが、それすらも快感になりつつあるので、いかんともしがたいところである。