17:33、今宵の一番乗り!と思った「中むら」には先客が。Aさんだ。
(「夜霧よ今夜もありがとう」かなんかを口ずさんでそうな雰囲気)
挨拶もそこそこにさっそくビール(瓶ビールがお約束)で乾杯。
さびしさはありません、とおっしゃるAさんだが、そうはいっても何十年も勤めた会社を辞するのだから万感迫るものがあるに違いない。
(つきだしは大根と手羽元の煮たやつ、右は「中むら」名物ポテサラタワー)
席はいつものカウンターである。ここはわずか二人分しかなくて店内がどんなに騒がしくなっても話がしやすい恰好の席だ。
6時も回ったころになるとどんどん客が入り始め、「すみません今日は予約で満席で」と断られるお客さんが続出した。人気店ゆえAさんは1か月も前にカウンターを予約してくれていたのである。ああ、ありがたや。
(じゃんぼつくね 「中むら」というとこれが頭に浮かぶ)
しんみりしたのも乾杯の時だけで、分厚いシメサバ、レバー、川エビなんぞをつまみに芋焼酎
のボトルをグビグビやり始めたころには定年祝いもどこへやら、ただのおじさん飲みと化していた。
落語好きのAさんは私が末広亭に行ったのが琴線に触れたようで、都内に4軒ある定席のそれぞれの特徴を教えてくださった。
こうなるとこっちもウンチクを垂れなくては人生の先輩としての沽券にかかわる。
「末広亭では昔「大正テレビ寄席」ってのやってましたね。ウクレレの牧伸二が司会で」
「それは見たことないなあ」
(これだ!「大正テレビ寄席」は1963~1978毎週日曜に放映 会場は末広亭でなく東急文化会館だった(汗))
「その前か後に「がっちり買いまショウ」ってのもやってました」
「あ~、10万円、7万円、5万円、運命のわかれみち!ってやつですね」
「違います、ひっく。3万円、5万円、7万円!(←目がすわってきている)」
「・・・」
(司会は夢路いとし喜味こいし 放映期間は1963~1975「大正」とほぼ重なる 60年代は3万円5万円7万円だったが経済成長とともに70年代には10万円7万円5万円に変更されたそうだ(汗×2)画像を見ると今にして思えばずいぶん地味な番組だった)
ボトルを飲み終えたところで河岸を変えることに。件の怪しげな店まで行ってみたが、
「ふふふ。席は空いているけど、何にもだせないです」とどこまでも怪しげだ。
やむなく進路を大きく東にとって、ダメ元でこれまた懐かしい東口「光壽」へ。幸い席が二人分だけ空いていた。
(初めて行ったのは2018年10月13日)
席に着くなり定番のつまみセットがでてきた。二軒目ならこれだけで十分。
(わりとビーガン系な品揃え)
酒は日本酒。「光壽」は日本酒好きのための店である。
左:Aさんの一杯目のチョイス「南」(高知・南酒造場)
右:私「青煌」(武の井酒造=我が北杜市(高根町箕輪)の蔵元)
Aさんとこうして飲む機会もこれからは減るだろう。
次回は寄席に行ってその後飲みましょう、ということで神田駅でお別れした。
惜春。
雑踏でそんな思いが去来した。
(翌朝Aさんから届いたパンの写真 美味だった由でなにより)