妻と黒猫と腰痛と不眠症と戦うデスパレートな男の日記 -53ページ目

最近思うこと

ブログを書き始めて1週間弱くらいになりますか。

最近、思うのですが、自分の書いたブログを見てくれた人達にぺタをします。


ぺタしてくれた人達に、どう接してよいのかわかりません。

ただ、流し読みして「ぺたっと」するのは、いかがなものかと思うし、かといって隅々まで読むのも面倒な事だし。大変失礼かとは承知の上でどなたか、ブログの楽しみ方をご教授戴けませんでしょうか?助かります。


私は基本的に、はまったらとことんいく、はまるまでに時間がかかってしまうのです。

そして、ここのところ、ブログを書いたり読んだりするのが仕事のようになってしまって、なんか変な重圧というか、プレッシャ-みたいなものを感じる時があります。


しかし、他の人達のブログに癒されることも沢山ありますし、影響を受けたりします。

また、励まされる事も。


私がブログという言葉をはじめて耳にしたのは、曖昧ですが4~5年前だったとおもいます。

何度かいろいろな人に聞いたのですが、当時はブログ自体の意味が理解出来ませんでした。何度教えてもらっても。


そして現在、自分でブログをやるようになりました。

妻の薦めで。

妻は私のためになることしか、私に薦めません.。


そしてブログをはじめてみて、小学生とか中学生とか大学とか社会にでてからとか、

まあ、いってみれば作文なり感想文といった類のものは苦手でした。


でも、実際にやってみると日々の日記感覚でどんどん文章は出てきます。

これはどういう事なのでしょうか?


自分自身のことを他人に聞くのも、おかしなものですが、何をもってブログというものに人はかき立てられるのでしょうか?


やはり、意味が理解出来ないのです。

とは言え、ブログを書くのが日課みたくなって、それを中心に生活が回りはじめました。


人はやなことはしないわけで、好きなことには時間もお金も費やすと思います。

少なくとも私は。


ブログは情報提供の場なのか?自己を顕示する場なのか?人を勇気ずけてくれる場なのか?人の愚痴を聞く場なのか?


それぞれの楽しみ方があるものなのか?わかりません。


中にはミクシ-でダメだったからアメブロに来た人がいたり、ミクシ-で何がダメだったのか?そのブログを読んだ時、「ミクシ-では心が挫けたんだろうな、この人。」って感じました。


さっき自分のブログにTVプログラムのはなしがのっていました。

「逃走中」という番組で、AKB48のなんとかって子が誹謗中傷されていたり、逆に勇気付られていたり、やっぱり意味がわかりません。


それは、直接であろうと間接であろうと表現方法の違いであって、有名人ならその数はおおく、一般の人なら少ないわけですよね。


うがった見方かも知れませんがアメとムチ、アンビバレンツのスパイラルに感じてしまうのです。


アナログの時代にあった、喧嘩とか、チョットしたいざこざとか、人対人の対話や話し合いとは違うと思う。

「俺はこう思うけど、おまえどう思う?」「このドラマカッコイイとか」「いやいや、趣味悪いねえ」とか、そんでそっから距離を少しとったり、また、仲良くなったり。


友達の家なり、部屋でなんとなく心地よく時間を共有したり、訳もなく遊んだりわらったり、言い合いになったり。そんで思いっきり言い合いになった後、じゃ、「飯食いに行きましょうか」とか。


今はコミュニケ-ションという名のケ-ブルで、顔も素性も、もちろんどんなやつかも知れない人とバ-チャルな世界に浸っている気がする。


私はゲ-ムが好きだが、昔はゲ-センのインベ-ダ-で、どうやったらゲ-ム機にいれた百円を取り戻すか、紐をつけたり針金でグリグリやって残りゲ-ム数増やしてある日ばれて怒られたり。


今日、銀座にいったけど若い人はあまりいなかった。

春休みという事もあって、家族連れは多かったけど。高齢な人が多い。

渋谷もそんなには見かけなかった。


唯一、新宿は活気があった。でもカップルが多く、男同士でつるんでいるのはほとんど見なかった。


何かが違う。


下町は少年右翼みたいのもいるし、男同士何人かでつるんでいるいるのも見かける。今時はやらない暴走族もいてうるさい。

山の手にも当然いるんだろうけど。


まあ、いいや、

もう遅いので寝ます。


妻がベッドに対角線になっていると困るので。

妻のブログ

最近になり、ようやく妻のブログをよむようになった。


妻のブログには必ず、うちの愛猫の写真がアップされていて、妻の相棒への愛情がどれほどのものかすぐに理解できた。


ともすれば、虐待かと思われる遊び方をすることがあるが、「いいの、いいの。こうやって少しハ-ドに遊んであげないと、ふけこんでおじいちゃんになっちゃうから。」

と。


確かに一瞬、嫌そうにもうダッシュで妻のもとからはなれるが、すぐに遠くのほうから戦闘モ-ドに切り替わった相棒の嬉々とした姿を目にする。


そして、妻の元へものすごいスピ-ドで逆襲を試みる。

そして妻にその身柄を確保される。


瞬間「くっ!」と言っているように見える。

相棒は、妻とはよく遊ぶが、私とは遊ばない。

多分、私はあまり面白くないのだろう。


ただジッと私の腹の上に丸まったり、膝の上で眠そうにしていたり。朝は「餌をくれ。あと、トイレの掃除と新鮮な水道水な。」「薬はきょうはいいや。」とか、そんな具合。


最近ブログをかいていると、タマにだが、まとわりついてくる。

私のまわりをぐるぐるまわりながら、ずっとないている。


電話の相手が私の友人などのときは、電話口で一緒になってニャアニャアとはなしている。


妻は動物を飼うのがはじめてであるので、相棒が天国か地獄のどちらかに召される時が私は心配でならない。

私は冷たい人間なので動物の死、あるいは死というものになれている。なれているというと冷徹人間のようにおもわれるので、覚悟の仕方を知っている。受け入れ方も。

多分。


しかし、妻には免疫がない。

義母方のおじいちゃんが亡くなった時、泣きくるっていたそうだ。


人も動物も、ようはどれだけ愛したかによって違うものだから妻がどうなってしまうかがとてもとても心配だ。


まだ、結婚前に相棒が入院を余儀なくされ、1週間弱家を空けたことがあった。

独り身だったこともあってか、帰ってくると玄関まで「とことこ」とやって来て足元にするよるはずの相棒が居ない、という事がどういう事なのか、ひどく喪失感をあじわった記憶がはっきりとある。


相棒ももうすぐ15歳らしい。


最近、私の事情で8日間実家に帰ることがあった。相棒のことは妻に任せて。


今までも家を空ける事はあったし、たとえそれが2日間でも、相棒と離れるとついつい今頃はなにしてるかなあ、とか持病はぶり返してないかなあ

などなど、いろいろなおもいを巡らせたものだったが、不思議と何も感じなかった。

相棒の顔が浮かんでくることもない。

家の中を歩き回って「おう、なんかおもしれえことはねえか」とさがしまわったり、「おい、餌。あと水とトイレの掃除な。」「ちょっと横になれ、腹に乗ってウトウトするから」

「今日は調子がよくないから薬な」とか。


なぜか理由を考えた時、ふと思った。

私の中では、覚悟というか準備というか、つまりは相棒が召される時が近づいているのではないかと。


妻に、そのはなしをしたら「そんなことないって!家ねこは20歳くらいいきるって本にかいてあったし、病院のドクタ-にも5歳くらいにしか見えませんねえっていわれたでしょ。」


そんなものは営業ト-クに決まっていることは、多分妻が一番よく知っている。


今、かかっているドクタ-は「ねこですから、先に死にますよ。だってねこですから。」ってあっさり言ってくれる。

助かる。ものすごく助かる一言をあっさりといってくれる。


妻も「もしもの時は悲しいけど、それが寿命というものなのかな。それにこのコは充分に私達を癒してくれたし。」

と、心の奥底で拒絶していた「死」を少しづつではあるが、受け入れようとしている。


しかし、必ずやってくる「その時」妻はうろたえるだろう。私も同じ様にうろたえるだろう


「動物は人間より確実に先にいなくなるよ。俺は何度も経験しているからわかるし、ある朝、突然固くなっているんだよ。近寄らなくてもわかるんだ。もう、動かなくなっている、呼吸をしていない。ってね。」


と。励ますというよりかは現実を知って心の準備をしてもらいたくていっているのだけど「そんなはなしはしないで。」と拒絶する。


最近、妻は「まだ15歳、まだ15歳」とよく口にしている。

それが拒絶の何よりの証拠。


もう15歳だよ。

15年は長いよ。人間にとっても。


その時がきたら、出来れば私が発見し妻には見せない様に隅田川にながそうと思っている。

「それが一番成仏できるんだって」

とねこを譲ってくれた友人がいっていた。

その時は、「非常なやつ」と思ったが、今考えるとそれが一番なのかもしれない。


まつりの夜店でかった緑亀が死んだとき、近所の小川にながしたことがあって

亀は水に居きる動物なのに、泳がずに沈んでいくのを見てやりきれない気分になった。


妻が「私がいじくりまわしたせいだよね。きっと。」とすごく後悔していた。

「そんなことないよ。夜店の亀は早く死ぬんだって。」となぐさめた。


その沈んでゆく姿を妻は見ていない。


相棒が沈んでゆく姿に私の心は絶えられるのだろうか?

その時が来ないとわからない。


わからないがおぼろげながらに想像はしようとおもう。

KAZUさんブログ

私のブログを見てくださったKAZUさんへ


とても美しい桜の写真と動画をありがとうございます。


やはり、桜は美しい。恐ろしささえ感じるほどに、美しい。

長く辛い冬の終わりを見事に教えてくれる。

まるで「さあ、みんな、冬は終わりだ。はりきってゆこう。」と語りかけているように。


何もなかったかのように、あたりまえに、荘厳に、気高く咲き誇る桜。ため息がもれるほどに美しい。

日本に生まれてよかったと実感する。

日常のあたりまえに感謝と感激の感情が、荒れ狂う波のように交錯する。


桜は突然、何かが爆発したみたいに咲く、咲き狂うといったほうが表現としては似合いかなあ。


いったいなんなのだろう。

なぜ、ここまで「桜」は心を惹きつけるのか、人のみならず。そして心おどらせるのか。

暖かい春のおとずれを、告げているからなのか。

見た目の美しさゆえか。

圧倒的な数で野や町を覆い尽くすからか。

ある日突然に野や町を白や薄紅や紅で、彩るからなのか。?


わからない。


流氷がある朝突然、北の海を覆い尽くすみたいに。


わからない。


多分、本能ではないかと思う。動物が何を思うかはわからない。

人と桜は相思相愛なのだと。


自然のもつ摂理、一年間はあっという間に流れてゆく、

「もう正月か、夏もおわりだねえ。紅葉がりはどこへゆこう。年も押し迫ってきたね。クリスマスはどう過ごそう、大掃除か、今年は大変だ、さて正月の準備準備。」


まさに光陰矢の如し。


桜は違う。

桜は襲ってこない。やさしくつつみこんでくれる。


だからこそ人々は桜を心のそこから待ちわびる。

まるで、夏の夜空をぱっと彩る花火みたいに。


そこに人間の力は存在しない。

ほんのわずか。


自ら大地にしっかりと根をおろし、風雪に耐え、まさしく大輪の花を咲かせて何かをうったえかけてくる。


愚痴や御託をならべ、不満ばかり口にしていないで「ちったあ、俺たちを見ろ」。

と。「俺たちだってなあ、伊達や酔狂でやってるんじゃねえ!」「わたしだってそうよ。」みたいに。


一瞬でいい。枝振りも様々でいい。いろいろな色彩で日本中を、その美しい姿で染め上げてほしい。


日本中の人達が、その時を心待ちにしている。


追記

KAZUさん、どうもありがとう。