妻と黒猫と腰痛と不眠症と戦うデスパレートな男の日記 -50ページ目

追記

KAZUさんへよかったら私のブログを読んでくれているbobochikaさんのブログを見て見てください。

東京の目黒川という桜の名所で撮ったさくらの写真です。

東京の桜も綺麗でした。



櫻島

やはり噴火するんですね。KAZUさんのブログに櫻島噴火の様子が写真で乗っていました。「灰がふるのでかえりまあす。」とかいてありましたが、櫻島近辺の人にとっては「雨が急にふってきたのでかえりまあす。」みたいなのりなんですかね。

少し違うと思いますが。

話しは変わりますが、このブログをかいている人KAZUさんてすごい人だとおもいます。

こんないい方をすると失礼なのかも知れませんが身体に障害をもっているのに、つねに明るくて行動的な人なんだなあ。と。

まわりの人もすごい人達だなあ、と。

何を持って障害とするかは個人の判断ですが、半身が動かないというのは私には考えられません。世の中的には障害者の人も差別してはいけない。とか、(健常者と、まあ、健常者といっても何が健常なのかわかりませんが、)いう風潮がやはり寝ずいていることはたしかです。もちろん見た目は健常者でも心が病んでいて自ら命を絶ってしまう人も悲しいです。町などで車椅子の人を見たりすると心の中で「かわいそうに」と思ってしまうのは罪な事なんでしょうか?思うだけで人間失格なのでしょうか?

でも、私は思ってしまうんです、実際に。ごく一部のTV局が間隔をおいてそういう類の番組をほうそうします。それはとても意義のある事であると感じてしまう事自体が罪なのではないかとさえ感じてしまう事があります。何か人に対していい事をしてあげたとしましょう。私なら、一日一善じゃないけど「今日はいい事をした。」とまず事故満足の気持ちが優先してしまうからです。以前、地下鉄で目の前によぼよぼのじいさんがたった事があって、軽い気持ちで「どうぞ」と席を譲ろうとしたら「いいんだ、ばかもの!」と怒られた事があります。そのくそジジイにしてみればアリガタ迷惑だったわけですよね。階段を辛そうに歩いている人がもしかしたらリハビリの為に頑張っているのかも知れないし、バスで席を譲る事は実は迷惑な事なのかもしれませんよね、バスに乗っていたとき一人の女のコが乗車してきた老婆に席を譲りました。しかし、じっくり観察しているとその老婆は次ぎの駅で降りたかったようなんです。老婆にとってはバスのシ-トは決して座ったり、立ったりするのに適しているとはおもいません。それがバリアフリ-のバスだったとしても。車椅子固定スペ-スに運転手が丁寧に固定してあげているのを何度か見た事はあります。それは使命なのか義務なのか、笑顔で接しているからといってそれは本心か、逆にぶっきらぼうに接していてもそういう顔であるからであって笑顔の運転手よりもあるいは慣れているのかも知れないし。たとえば家族に障害者の人がいて日々せっしているから慣れているとか。差別しないという事は例えば、目の前に目の不自由な人がいたとしてそこが大きな横断歩道だったら自分自身その人の手を引いて道路を渡る覚悟はありません。よく、からだの不自由な人をみたら一般の人と同じ様に接するのが一番といいますが。それって裏を返せば事勿れ主義のように感じてしまうのは私だけなのかと思ったりもします。もし人気のない場所で困っている障害者の人がいれば迷わず声をかけることが出来ると思いますが、それも人目を気にしている気持ちの裏返しなのかなと感じたりもします。世の中広いですからそんな事を考えずにさっと手を貸す事の出来る人が沢山いるとおもいますよ、もちろん。だけど、見方によってはその行為を偽善的と見る人間もいるわけで、赤の他人に手を貸す事が恥ずかしいと思う人もいるとおもうのです。かういう私もそういう人間の一人です。障害を持っている人の中にはひねくれものもいるとおもいますしね。家族とか友人、知り合いであれば迷わず手を差し伸べるが、赤の他人に、その人の心情をわからずにむやみに手を貸すというのは大変な勇気の要ることだと思います。だってその人の障害の程度がそとから見ただけではわからないわけですから。目が不自由で白い杖をついている人にそっと声をかけてみたら、耳も聞こえなくてどうしたらよいかわからなくなってしまう場合もあるとおもうんです。更にそのひとに知的障害もあったとしたら、どうすればいいのでしょうか。

以前家の近所に車の修理工場があって何人もの友人とその中に車椅子の人が混ざって楽しそうに話しているのを見たことが何度かあります。それは自分たちの友人がたまたま何かの事情で不自由な身体になってしまった、でも友人だからいままでどおりの付き合いができますよね。

だから私は電車ではシルバ-シ-トには近づきませんし、目の前に車椅子の人がいても、杖をついている人がいても見て見ぬフリをしてしまいます。宮沢賢二のようには振舞う事はとてもできません。いい方は悪いかも知れませんが障害を持っている人には障害をもっている事を受けとめて障害者として接することが大事なのではないかと思います。だって、健常者には絶対に障害者の気持ちはわからないと思いますから。どうやって障害者に普通に接するのか、そんな事出来っこないですよ。


追記

障害を持ちながら前向きに活きているKAZUさんごめんない。

少し遅れの花見

昨日妻と二人で少し遅れの花見に目黒川の桜を見にいってきました。

あいにくの天気という事もあり、人影もまばらでほとんど貸し切りのように目黒川の桜を見ました。

散り始めた桜は目黒川のみなもに花びらを落とし、川が桜色に染まっていてそれはそれは幻想的な風景でした。

今まで行った花見の中でも最高の花見となり、そのみなもに2羽の鴨がスイスイと泳ぎ何度も何度も水の中に潜てっては、食料の確保に余念なく、潜っては水面に浮上し、自慢の撥水加工が施された羽毛を羽ばたいて、一瞬にして目黒川の冷たそうな水を払い落としていました。


鳥は人間が思うより、ずっとたくましい。

少し前に妻の進めで「わたりどり」という映画をみましたが、鳥たちはにんげんが思っているほど楽ではないのだと思った記憶があります。


目的地に向かって力の限り羽ばたき続ける鳥たちに感動したものです。

中には群れとはぐれてしまって力尽きる鳥も、当然いるわけで、人間が思っている以上に自然界は厳しいものだと実感した次第です。


昆虫も動物も植物も完全な状態で生を受け、世にでてきます。

唯一人間の子供だけは不完全な状態で世に放たれます。

妻がいっていました。


確かに他の動物は例えば馬や麒麟や牛にしても、出産後数時間でたちあがる事が出来、馬の子は1時間以内に自分の足で立てないと命の危険にさらされるそうです。


妻がアメリカで酪農を手伝っていた時に経験したそうです。

昆虫のセミにしても7年間も地中で暮らし、1週間で死んでしまいますが、セミにとってはち地中の7年間が一生であって、桜のように地上に出て飛びまわり一瞬で命を散らしてゆくのかもしれません。


自然界は厳しいものだと実感しました。


はあ、人間に生まれてよかった。妖怪人間の気持ちがよくわかりました。