【NO.0985】 賢人と馬鹿と奴隷 | 清水隆司オフィシャルブログにようこそ

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社会問題を中心に問いかけていきます。
ブログのテーマは「日本の将来をを良くするためにはどうすればよいのか?」

1.17

 

 

 間もなく、1月17日を迎えます。もう、29年になるのですね。

確か、3連休明けの早朝だったと記憶しています。15日が成人の日、16日が振替休日、そして、17日火曜日の朝5時46分でした。

(3.11東日本大震災の発生が、14時46分でした。そのとき、背筋がぞーっとしました。)

 ゴーッと言う音がしたと思った瞬間、死を覚悟した、巨大な揺れに襲われました。その場所は、神戸市東灘区本山中町・・・、

震度7の激震の真上だったと後で知ることになりました。

 

 

 すぐ近くで、阪神高速が横倒しなっていることも当日は全く知らず、実家が割と近かったので、西宮まで瓦礫が散乱する中を歩き、阪急電車で大阪へ向かいました。電車には、普通に通勤しているような風景が目に映り、神戸の惨状との余りにも大きなギャップに違和感を感じました。そして、実家のテレビで、現実の惨状を目の当たりにしました。高速の横倒しの映像をみて、その地震がとてつもなく巨大で尋常なエネルギーではなかったことを改めて悟ったのでした。

 今年も、元日に巨大地震が発生しています。おおくの方が被害を受け、多くの方がお亡くなりになられ、未だに行方不明の方も多くいらっしゃるとのこと、心が痛みます。

 日本は、自然災害が多発する国、そのため、古来より、自然に畏敬の念を持ち、自然に感謝することを忘れず、祈りを捧げてきたのが我々の祖先。今も多くの人は、その気持ちを持ち続けています。

 しかし、今の日本は緊縮財政という名の下に、防災への投資をできるだけ低く抑えています。その結果、毎年、災害で、多くの人々の生命や財産が奪われています。

 死ななくてもいい命はたくさんあったと思います。

 日本の中枢は、人の命を軽く見ている、そんな状況が、今も続いている気がします。

 

 

 

成人の日に

 

 

 毎年成人の日の前後には、次の動画を載せることがここ数年続いています(昨年は、娘が実際に成人の日を迎えることができました)。

 

 

 この映像は、2010年の参議院選挙前の講演のもので、実際の成人の日の式典でのものではないのですが・・・(私もなぜか一番前列で聴いていました)。

 今、ますます、この講演にあるような、日本人の心が失われてしまっているようです。親への感謝、祖先への感謝、そして日本人であることへの感謝、日本人の心の奥底にはその想いまだ残っていると思います。消し去ることなく、また、想い出してほしい、そう願い続けます。

 

 

 

「ゆびさきと恋々」 と 「光る君へ」

 

 

 1月よりスタートしたTV番組で、新たに2つのものを見てみようと思っています。

 

 1つは、アニメ「ゆびさきと恋々」。

 

 

 実は、少女恋愛漫画のテレビ化と聞いて、少し恥ずかしい気持ちもあったのですが、見てみると・・・。

 聴覚障害を持つ主人公が、生き生きと描かれている。

 私自身、20歳の頃より、ある病の結果、左耳の聴力を失ってしまい。その後、右も聞こえなくなるのではないだろうかという恐怖感もあり、しばらく、気持ちも落ち込んでいたり、物事を後ろ向きに考えてしまうということがあった記憶があります。その頃にこういうストーリーのものと出会えていたら、当時の考えも変わったのかもしれませんね。

 人の気持ちを丁寧に描いていると思いますので、今後も期待をしています。

 

 

 そして、もう一つは、大河ドラマ「光る君へ」。

 

 

 大河ドラマ何年ぶりだろうか。2018年の「西郷どん」(幕末や西郷隆盛という人物像が好きだったということもあって)。その前は、2013年「八重の桜」。八重の桜は、なんと言っても母校の創設者新島襄の嫁だった人物、見ないわけにはいきません。

 なんと言っても、この場面。ジーンと来ました。

 


 今回の「光る君へ」は、西欧から、性差別や多様性に関して遅れた日本と言われている昨今、古来、平安の世なども、決して女性の地位が低くなかったということを、あのNHKがどのように表現するかに関心を持ったという理由からで、あくまで大河ドラマだということをふまえてですが、今の時代に少しででも影響を与えられるドラマであることを願いつつ見てみたいと思います。

 

 

 

賢人と馬鹿と奴隷

 

 

 

 魯迅(近代中国の小説家)が書いた「賢人と馬鹿と奴隷」という寓話がある(とある講座で紹介されていました)。

 

 

 魯迅はその一つ『賢人と馬鹿と奴隷』(1925年)と題する寓話で、奴隷であることを自覚し、それを拒否できない奴隷精神をいきいきと描いて、戯画化している。それはあらまし次のようなものだ。

 

 いつも不平を口にする「奴隷」が「賢人」に出会い、いかに使役を強いられているかを縷縷(るる)並べたて、涙ながらに嘆いてみせた。「賢人」はこれに痛ましげに目を赤らめて同情し「いまに、きっとよくなる」と諭した。「奴隷」は気が楽になり、愉快になった。

 

 「奴隷」はその後また不平をいいたくなり、出会った「馬鹿」に嘆いてみせると、突然大声で怒鳴られた。さらに、「奴隷」が自分の住まいがぼろ小屋で、四方に窓一つ開いていないと口にすると、「馬鹿」は「主人に言って、窓を開けてもらうことができんのか」と問い詰めた末、「奴隷」の家に連れて行かせ「窓を開けてやる」といって家の外から壁をこわしはじめたのだ。

 

 「奴隷」がこれに驚き、主人に叱られることを怖れて「誰か来てくれ、強盗だ」とわめくと、他の「奴隷」たちが来て「馬鹿」を追い払った。出てきた主人に「奴隷」は勝ち誇ったようにいった。強盗が家を壊そうとしたので、自分が一番初めにどなりつけ、みんなで追い払ったと。これに対して、主人は「よくやった」とほめた。

 

 「奴隷」はうれしく思い、見舞いにやって来た「賢人」に主人がほめてくれたと喜び伝えた。そして、「(あなたが)いまに、きっとよくなるといってくださったのは、本当に先見の明がおありで」と、おべんちゃらをいった。「賢人」はこれに、「なるほどね」と愉快そうに応えた。

 

 魯迅はここで、常に不平や不満を口にして人に聞かせようとするが、自分の置かれている状態を不正だと認識せず、常に主人によく見られようとする奴隷根性の滑稽さを諷刺している。だが、それ以上に善人ぶった「賢人」が「奴隷」を抑圧する主人の大きな支柱となっていることを、その偽善的でいかがわしい振る舞いを通して浮き彫りにしている。

 

 不正に怒りそれを許さず、実直に解決しようとする「馬鹿」を、奴隷同士が「自己責任」「自助努力」で追い払うことができ、主人のおほめを得た。「賢人」はそれに寄与できたことを知り、まんざらでもない思いでほくそ笑むのだ。

 

(参考:長周新聞)

 

 というもの。

 この三者、現在の人々にあてはめてみますと・・・。

 賢人が、多くの政治家マスコミ、識者といわれる人々あたりでしょうか。グローバリストとも言えますね。

 馬鹿というと、現状に不満を持ち、言論と行動を伴ってあらがおうとする人。反グローバリストとなりますか。

 奴隷はというと、それこそきつく言うと「無知」といわれる人々、権力や大きな存在の言うことは、言われるがままハイハイと言うことを聞く人々のことになりますか。

 

 奴隷といわれる人々は、馬鹿の言うことは聞きません。賢者が言うことを鵜呑みにして安心するのです。

 どうでしょう、今の日本そのままですね。講座でこの寓話の存在を知ったとき、まるで今の日本と即座に思った次第です。

 

 さて、皆さんは「賢人」ですか?「馬鹿」ですか?

 それとも「奴隷」でしょうか?

 

 今の日本国は「奴隷」ですね。

 

 

 

最近のNOTEより