昭和37(1962)年4月24日に奉納された手水鉢が。
常盤水利組合⋯なるほど。
この手水鉢の奥には、『堤防修理記念碑』が建っていました。
近くにあった説明板には、このように書いてあります。
「本土手」とは、ここから南東へ走っている道路の、流さ72〜73mの間の呼び名です。これは、300年余りの昔、かつての宇部の領主 福原氏の家老・椋梨権左衛門俊平が、領主 広俊(15代)の命により苦心の末、築造したかんがい用溜池(長州藩最大)の堤防のことです。(完成時の領主は次の広頼)
そのかんがい面積は、300〜400ヘクタールに及び、今日に至るまで地域住民の受けた恩恵は、まことに大きいものがあります。まさにこの「本土手」の存在こそ、現在の宇部市発展の原点と申しても過言ではありません。ここに、常盤池築造の経過と「本土手」の規模等を記し、椋梨権左衛門の功績を讃える次第です。
元禄元年(1688)年10月 常盤原に新堤を築造する計画を藩に提出
同2(1689)年3月 許可
同8(1695)年2月 築造工事着工
同12(1697)年 完成
[福原家文書「常盤池堤構築工事次第」による]
「本土手」は、常盤原を北から南へ縦断する相当深い渓谷の南端の最も狭い場所に築かれ、その当時の規模は次の通りです。
高さ 外側約18m 内側約25〜27m
幅 下部約36m 上部約15m
長さ 下部約55m 上部73m
[山口県文書館所蔵「常盤池由来」及び椋梨家所蔵文書による]
洞樋(とうひ)
用水の吐出口は二ヶ所あり、一ヶ所は本土手に、もう一ヶ所は、常盤神社のある島に近い岸(初貫)にある。築造当時の構造は、土手の底に埋めた、洞樋と名付けた長方形の箱と、10個前後の水吐口を設けた堅樋を組み合わせて造られていた。
[宇部郷土史話による]
平成13(2001)年7月吉日
常盤湖を愛する有志の会
説明板には、このように書かれていました。
飛上がり地蔵尊ご案内
昭和4(1929)年 宇部地方は、大かんばつにみまわれ市内三百町歩の水稲は枯死寸前となったとき初めて常盤池に電気ポンプをすえつけ、給水が行われた後、2週間位で秋の実りは大丈夫と見通しがついた頃、9月11日午後4時のこと、突然本土手の堤防が決壊しポンプ諸共一瞬にして泥土の中に押し込められた。そのとき地底泥土上に現れたという。その飛上がり地蔵尊体は石炭記念館東側に安置されている。
信者の語るを聞けば、もろもろの学校や就職等の試験についてのお願いが叶えられるあらかたなご霊験という。
毎年9月24日が縁日と定められている。
宇部市観光協会
そんな不思議な現象があったのですね。
大体のことは、こちらの石碑にも。