もちろん世界中のどんな人でも「本音」と「建前」ってものはある……とは考えているけれども、同時にどんな人にも
「自分が考える自己イメージ」
と
「他人から見た自分のイメージ」
…の間には差がある、と考えているし、私も含め自分自身の事は意外と気が付いていないものが多い、と思っている。
ただ、良くも悪くもその「差」が少ない人ほどある意味信用されるというか、
「アノ人は、こういうヒトだから~」
…だからいい人だよね、だから仕方ないよね、という感じになって周りも上手く「付き合い方」を決められるんじゃないだろうか?
その「本音」と「建前」の差、ハッキリ言ってしまえば「裏」と「表」の差が大きい人ほど、逆にその人自身の『自己イメージの差』は大きいよなあ……というのが「今の私」の偽らざる実感……と言うより「確信」と言っていい。
『キュリさん』=『実母』、という感覚が定着して来た頃に抱いた感情は先に書いたように(参照;26)「話を直ぐ『下半身話』に持って行く」という事が一番不快だったが、同時進行で嫌だったのは
「どうしてコノ人はこういう事を平気で口に出来るのだろう?」
…と思えるくらいの、「自分が気に入らない相手」への罵倒のパワーだった。
それも『キュリさん』の場合、根本的に意味が繋がらない『差別用語』がポンポン出て来る。
例えば、当時彼女が自分の勤務先の直属の上司の愚痴を言う時は、必ず
「あの『朝〇ブタ』が!」
…と吐き捨てることから始まるのだ。
(お判りでしょうが、今は差別用語と言える「国名」です)
因みに、彼女の上司もインド系の人だと言っていた。
(驚くなかれ、実はコノ国の『庶民向きケアハウス』はインド系のオーナーが席捲している。
それは別に「移民が仕事を奪った」というのではなく、それだけコノ国の人達がやりたがらない仕事だからだろう、というのが『現場』の正直な意見なのだけど)
「何でそんな風に言うの?
何より、別に『朝〇』の人じゃないんでしょ?」
…と聞き返したことが何度かあったのだけど、いつもゴニョゴニョしたまま話を変えてしまうか、
「あんなの、
『朝〇ブタ』って言ったら
『朝〇ブタ』よっ!」
…と、訳の分からない説明(?)をして終わり、という感じだった。
私の母も自分以外の全ての人に対して直ぐ「馬鹿」「アホ」「キチガイ」というような言葉を平気で口にしたし、いわゆる『差別用語』もアタリマエの使う人だった……って、過去形じゃないけど……けれど、ねえ……。
何より二人ともそういう態度を「親密度」や「上下関係」によって上手に(?)使い分け、故に
『実は、自分こそ上品!』
と、固く信じている……人達なんだろうな、と、私は嬉々として話を続ける『キュリさん』見ながら溜息をついていた。