『関与と観察』中井久夫著 みすず書房
「現代社会に生きること」より
P112~113
いつも、自分を取り巻く現実を積極的にリードしてゆき、しなやかな心をもっておのれを動かし人に対することのできる状態、そういう状態はたしかに、誰しもの憧れの的である。
そのような状態を古人は、「馬の上に人なく人の下に馬がない」境地にたとえている。いまのことばで言えば、ボートを漕ぐ場合、手がオールをうごかしているのか、オールが手をうごかしているのか、というたとえになるだろう。思考と意図と行為とが渾然として一体になったこの「人馬一体」の状況は、たしかに昔から夢みられてきた、一つの理想であるだろう。西の現代詩人の一人は、「熟練した漕ぎ手に櫂が応ずるように」(T・S・エリオット「荒地」)と例えている。
しかし、なかなか、実際には、そうはゆかない。同じ詩人は、「観念と/現実との間に/動きと行動との間に/影がおりる//着想と/創造とのあいだに/感動と/応答とのあいだに/影がおりる」(「うつろな人々」)とうたっている。
P116~118
ところで、ビタミンや、アミノ酸製剤や、あやしげな生薬にたよらずとも、たとえば、非常に困難な手術にとりくんでいる外科医や、嵐の海に苦しい操船を続けてゆく航海士や、きわめてこみ入った外交交渉の場にのぞむ外交官や、実験最中の科学者、創作中の芸術家、記録更新をめざすスポーツマン、育種に心をうばわれている篤農家(トクノウカ)、それらは、おのずとさきに述べた、ふだんはあこがれているばかりの高い活動状態にある。昔のことばで言えば、のるかそるかの「正念場」である。
この状態、極度に醒めていて、しかも精神が集中している状態、身体のすべての細胞が生きてめざめて働いている、とでも表現したくなる状態は、たしかにある。心理学的に十分解明されてはいないにしても、たしかに経験しうるものである。その状態から振り返れば、ふだんの状態の日々は、まるで生きていないも同然とさえ思えるような状態である。偉大な発見や、創作のみならず、歴史に残らないにしても、数多くの決断や行動はそのような状態においてなされてきたし、多くの人々は、生涯に幾度か、そのような決定的瞬間――「人生の星輝く時」(ツヴァイク)を持ち、それを幸福な記憶として回想しているようである。
しかし、それは、精神的に「超健康」とも言うべき状態であって、決してそのまま永続するものではあり得ない。そうして多くの詩人・作家・芸術家たちが書き残しているように、あたかも、そのような至福な瞬間の代償のように、長く、苦しい不振、絶望、不毛、自己否定の状態―― 一口に言ってスランプの状態に耐えねばならない。
外科医や船長の場合、その機会は、外界の方から与えられる。しかし、みずから機会を作り出さねばならない芸術家の場合、"スランプ"といわれる状態は、放電のためにまず充電しなければならないように、ほとんど必然的なものであるようだ。「詩人は、経験の蜜をあつめて蜂蜜をつくり出す蜜蜂だ」とリルケは言っている。この間の事情をうたったものが同時代の詩人ヴァレリイの「棕櫚(シュロ)」という詩である。
耐えること、耐えること
青空のさ中に耐えること
沈黙の原子のすべてが
果実の成熟へのチャンスである。
スランプが必然であるだけでなく、「正念場」の状態も、ひとが夢想するような、単なる「性能のたいへんよろしい時」ではないようである。回想においては甘美であるにしても、その時現在の心境は、眼の前がまっ暗になるような、烈しく苦しい、荒々しい、ぎりぎりのものである。「カッコよく」、「スイスイと」行く状態では決してない。
P148~151
もとより、自然にくらべ、他の人間、あるいは労働との関係の前向きの克服はいっそうむつかしいだろう。たとえば、飲み屋での性急な自己吐露に終わったり、新興宗教に加入したりすることが他の人間とのつながりを求めるこころのせいいっぱいの努力の果てであるかも知れない。サラリーマンが、自己の仕事への熱情を語るときも、半ばは、一生懸命自分に言い聞かせているような響きがこもらないでもない。現代の花形とされるサラリーマンも、あるアメリカ作家の表現を借りれば、グレイのフラノを身につけた孤独な現代の騎士である。
このような状況に直面して、たとえばスポーツは、近代人が意識的に開発してきた、生きがい、あるいは生きがいに似たものを求める方法であるといえないであろうか。たとえば、われわれは、ハイキング――自然の中を歩むこと自体を目的として山や野をさまようことが、意外に新しく、西欧でも十八世紀末、ジャン=ジャック・ルソーあたりからであるのを知る。そうして次第に、それは意識的なレクリエーション、すなわち、労働の疲労から、自分を回復し、再創造する、という意味を持たされてくる。娯楽をレクリエーションと捉えること自体、仕事がクリエーション、すなわち創造の位置から後退していることを示さないであろうか。たしかに労働時間は近代になって飛躍的に短かくなった。しかし同時に、労働時間は、きっかりその時間分だけ、どんな意味でも自分の時間でなくなってしまうということになった。それは、労働が組織的な高度なものとなったことからの当然の帰結であろうが、それ以上にその労働から人間が「疎外」されていることの現われでもある。ひとの生は、具体的には、日々の二十四時間を「組織」してゆく営みであるが、生のそのような「日々の組織力」は現代では集約的に労働時間を除外した十六時間にむけられる。また逆に、ひとを働かせる立場からみれば、レクリエーションは、「労働力の再創造」であり、現代の政治家が「レクリエーション政策」を云々する理由にもなっている。
かつて封建制のもとで、祭日が、万人がみずからを主体と感じうる唯一の機会であったように、現代では、スポーツやその他のレクリエーションへの参加によって、自分をみずからの人生の主役と感じる機会を得る。ただ、このような形の主体感は、長い人生をつうじ、日々の行動をとおして、ますます確実な、揺るぎないものとなるよりは、もっと瞬間的、現在感覚的なものである場合が多い。レクリエーションという、そもそもの動機自体が、受身的なものであり、たとえば、近代の意識的に過ぎる労働によって破壊されがちな、人間の意識と無意識との「のびやかな平衡」を取り戻すところに、その第一の役目があるだろう。そうして、その実際の大きな意味は、子どもの「遊び」のもつような人間の本源的な活動へのつながりを取り戻すことではなかろうか。
このような本源的な活動は、脅かされ、歪められながらも、いくつかは、その形をとどめている。そうして、残されたものへと人々の期待はおのずと集まるのである。
たとえば、愛の現代的な形がそうであろう。かつて、愛は、人生の広大なじゅうたんの中の模様の一つとして、きわだった模様ではあるが、孤立せず、周囲の模様へといつとはなしに移行するようなものであった。現代の典型的な愛のかたちは、一切の人間的なものへの期待を挙げて一人の人格へと投入する形となっている。そのような期待を映しあう鏡となった二人の人格が、他の侵入をゆるさない最後の砦である。きわめて個人的な密室的な状況で相対することが、永続的に生き生きとした人間関係でありうるかどうかは、容易に回答できない問題である。それは現代が人間に強いている巨大な実験であろう。他の何によってでもなく、人間的なものへの期待の一切を殺到させるということ自体によって、現実の愛がしばしば潰乱に導かれることは、日々にみられる出来事である。
さきに、人間の生を、広大なじゅうたんの模様にたとえたが、おそらく、人生は、性であれ、愛であれ、友情であれ、仕事であれ、一つの事柄だけで支えられるものではなく、世界のさまざまな豊かさのすべてによって担われるもの、――その豊かさを担いつつ、それによって支えられるものであろう。行きずりのささやかな花も、どのような哀切な別れも、世界の豊かさの一部として、それにあずかっている。