『徴候・記憶・外傷』中井久夫著 みすず書房
「トラウマとその治療経験」より
P109~P110
心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八ヵ月で瘢痕治癒する身体の外傷とは画然とした相違がある。
おそらく、これは脳の、そして心の特性の一部である(脳と心は紙の裏と表のようなものだ。密接だが決して出会わない)。記憶の中でも、古型の記憶は三歳以後の成人型記憶よりも強固に同じ形を保ちつづける(覚醒剤中毒者のフラッシュバックも頑固に同一である)。
ただし、外傷夢では多少の置換や象徴化が起こりうるのは、爆発に吹き飛ばされた兵士の「戦場夢」が戦場を離れた落下や圧倒の夢に変わることからわかる。昼間意識よりも夢作業力から回復するのは鬱病、統合失調症と同じであって、夢のほうが少ないエネルギーで働くなどの理由があってのことであろう。外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。
しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。
~中略~
私は、解離を抑圧や同一視や置き換えや昇華と同じ水準の防衛機制とみなすべきではないと考えている。それは、退行と並んで、自我の一元性が不明瞭で自己身体像が断片的であった幼少児期、私のいう古い型の記憶の時期に発する機制であって、その時期では生理的・適応的な割合が大かもしれないが、成人においても非常時には呼び出されるのであろう。私は重大な手術の「インフォームド・コンセント」の場に親族として医師の身分を秘して立ち合った時、一見平静に聞いている患者が解離としての離人症状態にあったことをまざまざとみた。「全くひとごとに聞こえた」と患者は語り、その間は現実感がなかったと言い添えた。
解離という機制は圧倒的な脅威の事態を「ひとごと」にすることによって、無益で危険な損壊行動を止めさせ、事態を凌ぎやすくする。拷問、虐待そしておそらく死の場合にも駆けつけてくれる救済者であるが、将来まではおもんばかっていない。
P103
外傷的事態は、しばしば「語りえないものをあえて語る」ために、ストーリーは一般に、現象中の写真のように、もやもやしたものが少しずつ形をとってくることが多い。ここで、治療者があせってはよくない。好奇心が先に立つようではすべては失われる。治療者内面の正義感はしばしば禁じ得ないが、治療の場の基底音としては、むしろ、慎ましい「人性(あるいは運命)への静かな悲しみ」のほうがふさわしいだろう。外傷はすべての人に起こりうることであり、「私でなくなぜあなたが」(神谷美恵子)とともに「傷つきうる柔らかい精神」(野田正彰『戦争と罪責』)への畏敬がなくてはなるまい。