『 「つながり」の精神病理 』
中井久夫著 ちくま学芸文庫
「家族の表象――家族とかかわる者より」
「1 はじめに」より
P13~
すなわち、家族を動かすことはたいていの場合に困難であり、好ましい方向に動かすことはさらに困難である。波及性はきわめて大であり、しばしば限局しがたい。そしてどのような副次的効果(副作用)が起こるかを予測することはむずかしい。いや、認識することがすでにむずかしいと言ってよいであろう。
土居健郎は、(中略) 家族への治療的介入に対して慎重であることを求めている。よく耳にしたのは、「家族にもかかわらず患者は治るのだ」という金言であった。「家族を"治療"することは患者を治療するよりもはるかに困難である」とも言われた。
その意味するところはどういうものだろうか。私の推量では、まず、一般に患者のほうが家族よりも可塑性(かそせい)に富んでいて、柔軟であり、変化の可能性が高いということである。
この含意は、「家族からの"出立"が統合失調症患者においてしばしば治療的意味を持つ」という笠原嘉の指摘とも照応し、さらに、「きょうだいの中でもっともかたくなでなくひねくれてもいないで健康な(と私は粗雑に表現するが)印象を与えるものが患者である」という井村らの日大グループの実証的研究とも響き合う含蓄があるだろう。
しかし、それだけではない。一般に家族というものは、とくにそのメンバーの眼からみれば、実に変化の道が閉ざされていて、選択可能性に乏しいように見える。精神科治療に従事するものも自分の家族の問題を解決することは実にむつかしい。誰も自分の頭の蝿を追えないのであるが、精神科医は、いや精神科医でなくとも、一般に家族成員にとって、自分の家族を変えることはむつかしいのだということを忘れないようにしたいものである。
(中略)
しかし、それにしても家族の構造を意図的に動かすことは果たしてできるのであろうか?できるとしても「操作的」にならないであろうか?
精神科医が「操作的」という時はmanipulativeの訳であって、操り、振りまわすという良くない含みがある。そして相手を振りまわそうとすると、必ずといって良いほどこちらも振りまわされる。その結果、おたがいに何が何だか分からなくなってしまうのである。そして、「振りまわし振りまわされ」が止まらなくなってひどいことになる場合が決して少なくない。
患者の家族と会った経験、とくに家族面接と家庭訪問の経験は、私が家族を意図的に動かすことを慎重にさせたと思う。
これらの経験の教えることは、
第一に「家族ホメオスターシス」といわれるものの強固さであった。
第二は家族内のコミュニケーションに耳には聴えない低周波音のようなサブリミナルなものが占める比重が非常に大きいことであった。
第三は、医者は家族にとってそのホメオスターシスを破る「トリックスター」(かきまわし役)であるということである。あるいは「触媒」を投げ込むことにたとえられるであろう(場合によっては危険な反応を媒介しかねないという意味でも)。
第四は、家族を閉鎖系として取り扱う見解が今は多いけれども、家族は開放系であって、病的家族だけが閉鎖系に近づくのだと私は思っている。だから閉鎖と停滞を破る「トリックスター」が必要なのであろう。
第五に同じ意味で「ハプニングの活用」も重要である。考えてみれば、家族の成員の発病は家族のホメオスターシスを破る大事件である。これをどう活かすか、だ。
第六は、間接的アプローチのほうが有効であり、家族力動に正面から立ち向かうのは有害無益に近いということである。
第七は、家族の成員を「患者の家族」という役割を荷なった存在(もの)として、ちょうど教師が父兄と語るようにしていては正しい情報は得られないことである。患者の家族を"患者"とみなすわけではないが、しかしその人に即してその気持ちを汲もうとする時だけ、家族の語るところが患者の現実にも家族の現実にも近づくということである。
第八に、家族には聖域があり、できるだけ、それを尊重しなければならない。それは個人治療において患者の秘密を尊重するというシュルテや土居の主張の家族版である。たしかに、家族には一つ一つ独自なものがある。それは雰囲気的なもの、一軒一軒ちがう味噌汁の味つけから、家族成員を奇妙に束縛する無気味な「家霊」のごときものまである。
「2 家族ホメオスターシスについて」より
P18~
「ある系に外力が働いて変化を起そうとする時、系はこの変化を打ち消す方向に動く」ということである。
P20~
(ある例について説明して)
子どもは姉一人弟一人だった。二歳ちがいだったと思う。非常に特徴的なのは二人はほとんど正確に交代して病気になったことである。
(中略)
弟は急速に回復し三ヵ月で退院し症状が次第に消えて行った。それと入れかわりに姉が私の外来にきた。(中略)姉がよくなると弟にほぼ同じものが現れた。姉と同じ訴えで、同じように次第に高まり、次にしずまった。するとまた姉に現れるのだった。
P26
第一例において病の一つの座を二人のきょうだいが交代で受け持っているとすれば、第二例においては一つの座が次々と一定の年齢に達したきょうだいによって占められるという見立てができる。このようなものが比較的単純なホメオスターシスなのである。たとえてみれば、一つの打ち抜き孔のような座があって、第一例では交代に、第二例では順々に一人の人間がそこに陥るが、そこから出られないわけではない、ということになる。
「3 サブリミナル・コミュニケーション」より
P27~
家庭訪問をして感じることの一つは、家族にはそれぞれ独特の雰囲気があることである。そして、この雰囲気的なものの大部分は、意識にかすかに止まるか止まらないかの、無数の相互作用がとび交ってつくり出していることである。鏡の部屋に閉じこまれた光がとびかい、反射し合って全体として光の雲をつくるのと、それはどこか似ている。
(中略)
それかあらぬか、家族内相互作用の研究は、最近、単一の相互作用の性質よりは、相互作用全体のかもし出すものに注目の焦点が移っているようである。
その一例として、high emotion-expressed family (high EE family)という概念がある。感情を口に出すことの多い家族の意味であって、こういう家族の中では統合失調症の再発率が高いとされている。
ある家庭訪問を思い出す。最初の外泊だったので、私はいっしょについて行った。扉を開けると家族の全員から矢つぎ早に質問が浴びせられた。
「おや少し遅かったね」「病院の今日の食事はおいしかったかい」「病院で誰かにいじめられなかったかい」「今度はいつ病院にゆくの」。
どれ一つとして奇異なものはない。自然な問いであるだろう。しかし、扉を開けるや否や浴びせられることばのシャワーは強烈な印象と独特な効果を生む。患者の顔はみるみるこわばってゆく。待ちかねた家族の自然な表現でいちおうはある。活力のある人ならば「そんなことは後で、後で」と靴を脱ぐだろう。しかし、患者はもっと制縛された人なのだ。
意識のシキイよりも下の(サブリミナルな)相互作用は、当然のことながら、表現が非常にむずかしい。よく知られている二重拘束(ダブル・バインド)が単純なかわいらしいものに見えるほど隠微な相互作用がありうる。一つ一つは単純でも、同時に発せられる方向の組み合わせによって実に苛々させられる効果を生む。
(中略)
「あ、どこへ行くの」「おそくならないようにするんだよ」「その服装はみっともないよ」「しゃんと背をのばして歩くんだよ」「ひとに遊んでいると思われないようにね」「へんな友達を連れてくるんじゃないよ」。
どれ一つとして別に奇妙なことはない。しかし散歩に出かけようとして服を着かえはじめた患者にこれがいちどに浴びせられると、患者の多くはみるみる顔を硬ばらせて「オレ、いいや、やめる」と言うだろう。それに対して、また「家で閉じこもっていることの害」「働かないでブラブラしていることが家族に与える恥」についてのお説教がはじまる。「あなたのためなんだよ」「私がどんな気持ちでいるか」。
むろん、「また始まった」と話半分に聞き流したり、何も答えずに外出してしまえば、それだけのことである。ここで、患者はそもそも家から「出立」をしそこねた人(笠原嘉)であり、「拒絶能力」に欠ける人(神田橋條治)だという見解が思い出される。家族はしばしば、この点を指摘されると「では一切放っておけばよいのですね」という答えを返してくる。ほかの可能性はないかのように。この「白か黒か」には参る。
コメントも視線も、どうやら放射線と同じく、被曝量の安全な最大限度というものがあるようだ。患者はなるほど今は安全な限度のレベルが下がっていて周囲をまどわせるかも知れない。しかし、病気になる前にも、安全な最大限度以上に被曝していたらしい人が少なくなさそうだ。
P36~
(集団討論の前後で精神健康度を調べた結果を受けて)
積極的参加者(発言をよくする者)は自己の主張が容れられた時は得点が向上し、容れられなかった時は悪くなる。これは当たり前のようであるが、消極的参加者は必ず得点が良くなる。聞き役にまわる方が精神健康に良いのである。逆に必ず悪くなるのは調停者である。相容れない意見のまとめ役は必ず精神健康を悪くする。その成否にかかわらずである。
(中略)
この結果から思い当たるのは、患者になる人は幼い時から一家の調停者であったかも知れないという可能性である。
実際、ある患者は「私はバケツをつかんでしまった」と語った。お分かりであろうか。小学生の時、教室の床が汚されているが、誰が掃除するのか。皆がお互いに顔を見合わせる。この時、ついバケツに手が伸びた者が掃除役に決まる。集団の緊張は急に下り、余裕が出てくる。一寸手伝おうか、などと申し出るものもいる。まるで、バケツをつかんだ者には当然の義務であるものが、こちらでは恩恵的な手だすけであるかのように。
そのように、しばしば患者とは、家族をまとめる役を幼い時から引き受け、しかもそれを認知されたり評価されたりしなかった人である。家族をよく眺めると意外な人が調停役、まとめ役、カスガイになっている。幼児であったり、浪人であったり、ぶらぶらしている人であったり、喘息の人であったりする。精神科の患者になっても、その役をつづけている人も少なくない。
もっとも精神科の患者になってはじめて、まとめ役から解放されて自由を味わう人もある。
調停者は自己主張をつねに後まわしにする。統合失調症の患者の幼い時の特徴は「いい子」「手のかからぬ子」そして「エピソードをまわりが思い出せぬ子」である。
調停者はなかなか交代しない。「バケツをつかんだ子」は"有徴者"となるのである。交代している家族はたぶん精神科医の前に現れないので、われわれは認識しないのであろう。
よくいわれるのは、一人が患者になっていることによって他の家族成員が病気にならずに済んでいるという印象が強い場合である。
P43~
結局、臨床経験から得られる家族の表象は、ふつうに用いられる家系樹、すなわち変形ツリー型の与えるものから、はるかに懸け離れているということでができる。
(中略)
こと家族に関してはツリー型の表象を以て言いうることは限られているのだろう。しかも家族の表象として思い浮かんでくるものは格子型ですらない。いや格子型ではあるが、力がたえずその上を移動して平衡をたえず取り戻し直しているような表象である。それは「おみこし」に近いかも知れない。一人が力をぬけば、その分の力はおのずと他のかつぎ手に配分される。それも公平にではない。平衡がくずれないように、という観点から再配分されるのである。結果としてある人の肩に力が集中することもある。ある人が立ち去ることで、かえって平衡が回復することもある。
このような「おみこしモデル」は家族だけに限らず、一般に、自然発生的な集団は、このような形で平衡を保っている。人工的集団との違いである。私は思考実験で「このメンバーを除いたらホメオスターシスはどう変わるか」と考えてみる。この思考実験はしばしば家族を考える上で有益である。
中井久夫著 ちくま学芸文庫
「家族の表象――家族とかかわる者より」
「1 はじめに」より
P13~
すなわち、家族を動かすことはたいていの場合に困難であり、好ましい方向に動かすことはさらに困難である。波及性はきわめて大であり、しばしば限局しがたい。そしてどのような副次的効果(副作用)が起こるかを予測することはむずかしい。いや、認識することがすでにむずかしいと言ってよいであろう。
土居健郎は、(中略) 家族への治療的介入に対して慎重であることを求めている。よく耳にしたのは、「家族にもかかわらず患者は治るのだ」という金言であった。「家族を"治療"することは患者を治療するよりもはるかに困難である」とも言われた。
その意味するところはどういうものだろうか。私の推量では、まず、一般に患者のほうが家族よりも可塑性(かそせい)に富んでいて、柔軟であり、変化の可能性が高いということである。
この含意は、「家族からの"出立"が統合失調症患者においてしばしば治療的意味を持つ」という笠原嘉の指摘とも照応し、さらに、「きょうだいの中でもっともかたくなでなくひねくれてもいないで健康な(と私は粗雑に表現するが)印象を与えるものが患者である」という井村らの日大グループの実証的研究とも響き合う含蓄があるだろう。
しかし、それだけではない。一般に家族というものは、とくにそのメンバーの眼からみれば、実に変化の道が閉ざされていて、選択可能性に乏しいように見える。精神科治療に従事するものも自分の家族の問題を解決することは実にむつかしい。誰も自分の頭の蝿を追えないのであるが、精神科医は、いや精神科医でなくとも、一般に家族成員にとって、自分の家族を変えることはむつかしいのだということを忘れないようにしたいものである。
(中略)
しかし、それにしても家族の構造を意図的に動かすことは果たしてできるのであろうか?できるとしても「操作的」にならないであろうか?
精神科医が「操作的」という時はmanipulativeの訳であって、操り、振りまわすという良くない含みがある。そして相手を振りまわそうとすると、必ずといって良いほどこちらも振りまわされる。その結果、おたがいに何が何だか分からなくなってしまうのである。そして、「振りまわし振りまわされ」が止まらなくなってひどいことになる場合が決して少なくない。
患者の家族と会った経験、とくに家族面接と家庭訪問の経験は、私が家族を意図的に動かすことを慎重にさせたと思う。
これらの経験の教えることは、
第一に「家族ホメオスターシス」といわれるものの強固さであった。
第二は家族内のコミュニケーションに耳には聴えない低周波音のようなサブリミナルなものが占める比重が非常に大きいことであった。
第三は、医者は家族にとってそのホメオスターシスを破る「トリックスター」(かきまわし役)であるということである。あるいは「触媒」を投げ込むことにたとえられるであろう(場合によっては危険な反応を媒介しかねないという意味でも)。
第四は、家族を閉鎖系として取り扱う見解が今は多いけれども、家族は開放系であって、病的家族だけが閉鎖系に近づくのだと私は思っている。だから閉鎖と停滞を破る「トリックスター」が必要なのであろう。
第五に同じ意味で「ハプニングの活用」も重要である。考えてみれば、家族の成員の発病は家族のホメオスターシスを破る大事件である。これをどう活かすか、だ。
第六は、間接的アプローチのほうが有効であり、家族力動に正面から立ち向かうのは有害無益に近いということである。
第七は、家族の成員を「患者の家族」という役割を荷なった存在(もの)として、ちょうど教師が父兄と語るようにしていては正しい情報は得られないことである。患者の家族を"患者"とみなすわけではないが、しかしその人に即してその気持ちを汲もうとする時だけ、家族の語るところが患者の現実にも家族の現実にも近づくということである。
第八に、家族には聖域があり、できるだけ、それを尊重しなければならない。それは個人治療において患者の秘密を尊重するというシュルテや土居の主張の家族版である。たしかに、家族には一つ一つ独自なものがある。それは雰囲気的なもの、一軒一軒ちがう味噌汁の味つけから、家族成員を奇妙に束縛する無気味な「家霊」のごときものまである。
「2 家族ホメオスターシスについて」より
P18~
「ある系に外力が働いて変化を起そうとする時、系はこの変化を打ち消す方向に動く」ということである。
P20~
(ある例について説明して)
子どもは姉一人弟一人だった。二歳ちがいだったと思う。非常に特徴的なのは二人はほとんど正確に交代して病気になったことである。
(中略)
弟は急速に回復し三ヵ月で退院し症状が次第に消えて行った。それと入れかわりに姉が私の外来にきた。(中略)姉がよくなると弟にほぼ同じものが現れた。姉と同じ訴えで、同じように次第に高まり、次にしずまった。するとまた姉に現れるのだった。
P26
第一例において病の一つの座を二人のきょうだいが交代で受け持っているとすれば、第二例においては一つの座が次々と一定の年齢に達したきょうだいによって占められるという見立てができる。このようなものが比較的単純なホメオスターシスなのである。たとえてみれば、一つの打ち抜き孔のような座があって、第一例では交代に、第二例では順々に一人の人間がそこに陥るが、そこから出られないわけではない、ということになる。
「3 サブリミナル・コミュニケーション」より
P27~
家庭訪問をして感じることの一つは、家族にはそれぞれ独特の雰囲気があることである。そして、この雰囲気的なものの大部分は、意識にかすかに止まるか止まらないかの、無数の相互作用がとび交ってつくり出していることである。鏡の部屋に閉じこまれた光がとびかい、反射し合って全体として光の雲をつくるのと、それはどこか似ている。
(中略)
それかあらぬか、家族内相互作用の研究は、最近、単一の相互作用の性質よりは、相互作用全体のかもし出すものに注目の焦点が移っているようである。
その一例として、high emotion-expressed family (high EE family)という概念がある。感情を口に出すことの多い家族の意味であって、こういう家族の中では統合失調症の再発率が高いとされている。
ある家庭訪問を思い出す。最初の外泊だったので、私はいっしょについて行った。扉を開けると家族の全員から矢つぎ早に質問が浴びせられた。
「おや少し遅かったね」「病院の今日の食事はおいしかったかい」「病院で誰かにいじめられなかったかい」「今度はいつ病院にゆくの」。
どれ一つとして奇異なものはない。自然な問いであるだろう。しかし、扉を開けるや否や浴びせられることばのシャワーは強烈な印象と独特な効果を生む。患者の顔はみるみるこわばってゆく。待ちかねた家族の自然な表現でいちおうはある。活力のある人ならば「そんなことは後で、後で」と靴を脱ぐだろう。しかし、患者はもっと制縛された人なのだ。
意識のシキイよりも下の(サブリミナルな)相互作用は、当然のことながら、表現が非常にむずかしい。よく知られている二重拘束(ダブル・バインド)が単純なかわいらしいものに見えるほど隠微な相互作用がありうる。一つ一つは単純でも、同時に発せられる方向の組み合わせによって実に苛々させられる効果を生む。
(中略)
「あ、どこへ行くの」「おそくならないようにするんだよ」「その服装はみっともないよ」「しゃんと背をのばして歩くんだよ」「ひとに遊んでいると思われないようにね」「へんな友達を連れてくるんじゃないよ」。
どれ一つとして別に奇妙なことはない。しかし散歩に出かけようとして服を着かえはじめた患者にこれがいちどに浴びせられると、患者の多くはみるみる顔を硬ばらせて「オレ、いいや、やめる」と言うだろう。それに対して、また「家で閉じこもっていることの害」「働かないでブラブラしていることが家族に与える恥」についてのお説教がはじまる。「あなたのためなんだよ」「私がどんな気持ちでいるか」。
むろん、「また始まった」と話半分に聞き流したり、何も答えずに外出してしまえば、それだけのことである。ここで、患者はそもそも家から「出立」をしそこねた人(笠原嘉)であり、「拒絶能力」に欠ける人(神田橋條治)だという見解が思い出される。家族はしばしば、この点を指摘されると「では一切放っておけばよいのですね」という答えを返してくる。ほかの可能性はないかのように。この「白か黒か」には参る。
コメントも視線も、どうやら放射線と同じく、被曝量の安全な最大限度というものがあるようだ。患者はなるほど今は安全な限度のレベルが下がっていて周囲をまどわせるかも知れない。しかし、病気になる前にも、安全な最大限度以上に被曝していたらしい人が少なくなさそうだ。
P36~
(集団討論の前後で精神健康度を調べた結果を受けて)
積極的参加者(発言をよくする者)は自己の主張が容れられた時は得点が向上し、容れられなかった時は悪くなる。これは当たり前のようであるが、消極的参加者は必ず得点が良くなる。聞き役にまわる方が精神健康に良いのである。逆に必ず悪くなるのは調停者である。相容れない意見のまとめ役は必ず精神健康を悪くする。その成否にかかわらずである。
(中略)
この結果から思い当たるのは、患者になる人は幼い時から一家の調停者であったかも知れないという可能性である。
実際、ある患者は「私はバケツをつかんでしまった」と語った。お分かりであろうか。小学生の時、教室の床が汚されているが、誰が掃除するのか。皆がお互いに顔を見合わせる。この時、ついバケツに手が伸びた者が掃除役に決まる。集団の緊張は急に下り、余裕が出てくる。一寸手伝おうか、などと申し出るものもいる。まるで、バケツをつかんだ者には当然の義務であるものが、こちらでは恩恵的な手だすけであるかのように。
そのように、しばしば患者とは、家族をまとめる役を幼い時から引き受け、しかもそれを認知されたり評価されたりしなかった人である。家族をよく眺めると意外な人が調停役、まとめ役、カスガイになっている。幼児であったり、浪人であったり、ぶらぶらしている人であったり、喘息の人であったりする。精神科の患者になっても、その役をつづけている人も少なくない。
もっとも精神科の患者になってはじめて、まとめ役から解放されて自由を味わう人もある。
調停者は自己主張をつねに後まわしにする。統合失調症の患者の幼い時の特徴は「いい子」「手のかからぬ子」そして「エピソードをまわりが思い出せぬ子」である。
調停者はなかなか交代しない。「バケツをつかんだ子」は"有徴者"となるのである。交代している家族はたぶん精神科医の前に現れないので、われわれは認識しないのであろう。
よくいわれるのは、一人が患者になっていることによって他の家族成員が病気にならずに済んでいるという印象が強い場合である。
P43~
結局、臨床経験から得られる家族の表象は、ふつうに用いられる家系樹、すなわち変形ツリー型の与えるものから、はるかに懸け離れているということでができる。
(中略)
こと家族に関してはツリー型の表象を以て言いうることは限られているのだろう。しかも家族の表象として思い浮かんでくるものは格子型ですらない。いや格子型ではあるが、力がたえずその上を移動して平衡をたえず取り戻し直しているような表象である。それは「おみこし」に近いかも知れない。一人が力をぬけば、その分の力はおのずと他のかつぎ手に配分される。それも公平にではない。平衡がくずれないように、という観点から再配分されるのである。結果としてある人の肩に力が集中することもある。ある人が立ち去ることで、かえって平衡が回復することもある。
このような「おみこしモデル」は家族だけに限らず、一般に、自然発生的な集団は、このような形で平衡を保っている。人工的集団との違いである。私は思考実験で「このメンバーを除いたらホメオスターシスはどう変わるか」と考えてみる。この思考実験はしばしば家族を考える上で有益である。