『 「つながり」の精神病理 』
 中井久夫著 ちくま学芸文庫

「家族の表象――家族とかかわる者より」


「1 はじめに」より

P13~
 すなわち、家族を動かすことはたいていの場合に困難であり、好ましい方向に動かすことはさらに困難である。波及性はきわめて大であり、しばしば限局しがたい。そしてどのような副次的効果(副作用)が起こるかを予測することはむずかしい。いや、認識することがすでにむずかしいと言ってよいであろう。

 土居健郎は、(中略) 家族への治療的介入に対して慎重であることを求めている。よく耳にしたのは、「家族にもかかわらず患者は治るのだ」という金言であった。「家族を"治療"することは患者を治療するよりもはるかに困難である」とも言われた。
 その意味するところはどういうものだろうか。私の推量では、まず、一般に患者のほうが家族よりも可塑性(かそせい)に富んでいて、柔軟であり、変化の可能性が高いということである。

 この含意は、「家族からの"出立"が統合失調症患者においてしばしば治療的意味を持つ」という笠原嘉の指摘とも照応し、さらに、「きょうだいの中でもっともかたくなでなくひねくれてもいないで健康な(と私は粗雑に表現するが)印象を与えるものが患者である」という井村らの日大グループの実証的研究とも響き合う含蓄があるだろう。

 しかし、それだけではない。一般に家族というものは、とくにそのメンバーの眼からみれば、実に変化の道が閉ざされていて、選択可能性に乏しいように見える。精神科治療に従事するものも自分の家族の問題を解決することは実にむつかしい。誰も自分の頭の蝿を追えないのであるが、精神科医は、いや精神科医でなくとも、一般に家族成員にとって、自分の家族を変えることはむつかしいのだということを忘れないようにしたいものである。

(中略)

 しかし、それにしても家族の構造を意図的に動かすことは果たしてできるのであろうか?できるとしても「操作的」にならないであろうか?
 精神科医が「操作的」という時はmanipulativeの訳であって、操り、振りまわすという良くない含みがある。そして相手を振りまわそうとすると、必ずといって良いほどこちらも振りまわされる。その結果、おたがいに何が何だか分からなくなってしまうのである。そして、「振りまわし振りまわされ」が止まらなくなってひどいことになる場合が決して少なくない。

 患者の家族と会った経験、とくに家族面接と家庭訪問の経験は、私が家族を意図的に動かすことを慎重にさせたと思う。
 これらの経験の教えることは、

 第一に「家族ホメオスターシス」といわれるものの強固さであった。

 第二は家族内のコミュニケーションに耳には聴えない低周波音のようなサブリミナルなものが占める比重が非常に大きいことであった。

 第三は、医者は家族にとってそのホメオスターシスを破る「トリックスター」(かきまわし役)であるということである。あるいは「触媒」を投げ込むことにたとえられるであろう(場合によっては危険な反応を媒介しかねないという意味でも)。

 第四は、家族を閉鎖系として取り扱う見解が今は多いけれども、家族は開放系であって、病的家族だけが閉鎖系に近づくのだと私は思っている。だから閉鎖と停滞を破る「トリックスター」が必要なのであろう。

 第五に同じ意味で「ハプニングの活用」も重要である。考えてみれば、家族の成員の発病は家族のホメオスターシスを破る大事件である。これをどう活かすか、だ。

 第六は、間接的アプローチのほうが有効であり、家族力動に正面から立ち向かうのは有害無益に近いということである。

 第七は、家族の成員を「患者の家族」という役割を荷なった存在(もの)として、ちょうど教師が父兄と語るようにしていては正しい情報は得られないことである。患者の家族を"患者"とみなすわけではないが、しかしその人に即してその気持ちを汲もうとする時だけ、家族の語るところが患者の現実にも家族の現実にも近づくということである。

 第八に、家族には聖域があり、できるだけ、それを尊重しなければならない。それは個人治療において患者の秘密を尊重するというシュルテや土居の主張の家族版である。たしかに、家族には一つ一つ独自なものがある。それは雰囲気的なもの、一軒一軒ちがう味噌汁の味つけから、家族成員を奇妙に束縛する無気味な「家霊」のごときものまである。



「2 家族ホメオスターシスについて」より

P18~
 「ある系に外力が働いて変化を起そうとする時、系はこの変化を打ち消す方向に動く」ということである。

P20~
(ある例について説明して)
 子どもは姉一人弟一人だった。二歳ちがいだったと思う。非常に特徴的なのは二人はほとんど正確に交代して病気になったことである。

(中略)

 弟は急速に回復し三ヵ月で退院し症状が次第に消えて行った。それと入れかわりに姉が私の外来にきた。(中略)姉がよくなると弟にほぼ同じものが現れた。姉と同じ訴えで、同じように次第に高まり、次にしずまった。するとまた姉に現れるのだった。

P26
 第一例において病の一つの座を二人のきょうだいが交代で受け持っているとすれば、第二例においては一つの座が次々と一定の年齢に達したきょうだいによって占められるという見立てができる。このようなものが比較的単純なホメオスターシスなのである。たとえてみれば、一つの打ち抜き孔のような座があって、第一例では交代に、第二例では順々に一人の人間がそこに陥るが、そこから出られないわけではない、ということになる。



「3 サブリミナル・コミュニケーション」より

P27~
 家庭訪問をして感じることの一つは、家族にはそれぞれ独特の雰囲気があることである。そして、この雰囲気的なものの大部分は、意識にかすかに止まるか止まらないかの、無数の相互作用がとび交ってつくり出していることである。鏡の部屋に閉じこまれた光がとびかい、反射し合って全体として光の雲をつくるのと、それはどこか似ている。

(中略)

 それかあらぬか、家族内相互作用の研究は、最近、単一の相互作用の性質よりは、相互作用全体のかもし出すものに注目の焦点が移っているようである。
 その一例として、high emotion-expressed family (high EE family)という概念がある。感情を口に出すことの多い家族の意味であって、こういう家族の中では統合失調症の再発率が高いとされている。

 ある家庭訪問を思い出す。最初の外泊だったので、私はいっしょについて行った。扉を開けると家族の全員から矢つぎ早に質問が浴びせられた。

 「おや少し遅かったね」「病院の今日の食事はおいしかったかい」「病院で誰かにいじめられなかったかい」「今度はいつ病院にゆくの」。

 どれ一つとして奇異なものはない。自然な問いであるだろう。しかし、扉を開けるや否や浴びせられることばのシャワーは強烈な印象と独特な効果を生む。患者の顔はみるみるこわばってゆく。待ちかねた家族の自然な表現でいちおうはある。活力のある人ならば「そんなことは後で、後で」と靴を脱ぐだろう。しかし、患者はもっと制縛された人なのだ。

 意識のシキイよりも下の(サブリミナルな)相互作用は、当然のことながら、表現が非常にむずかしい。よく知られている二重拘束(ダブル・バインド)が単純なかわいらしいものに見えるほど隠微な相互作用がありうる。一つ一つは単純でも、同時に発せられる方向の組み合わせによって実に苛々させられる効果を生む。

(中略)

 「あ、どこへ行くの」「おそくならないようにするんだよ」「その服装はみっともないよ」「しゃんと背をのばして歩くんだよ」「ひとに遊んでいると思われないようにね」「へんな友達を連れてくるんじゃないよ」。

 どれ一つとして別に奇妙なことはない。しかし散歩に出かけようとして服を着かえはじめた患者にこれがいちどに浴びせられると、患者の多くはみるみる顔を硬ばらせて「オレ、いいや、やめる」と言うだろう。それに対して、また「家で閉じこもっていることの害」「働かないでブラブラしていることが家族に与える恥」についてのお説教がはじまる。「あなたのためなんだよ」「私がどんな気持ちでいるか」。

 むろん、「また始まった」と話半分に聞き流したり、何も答えずに外出してしまえば、それだけのことである。ここで、患者はそもそも家から「出立」をしそこねた人(笠原嘉)であり、「拒絶能力」に欠ける人(神田橋條治)だという見解が思い出される。家族はしばしば、この点を指摘されると「では一切放っておけばよいのですね」という答えを返してくる。ほかの可能性はないかのように。この「白か黒か」には参る。

 コメントも視線も、どうやら放射線と同じく、被曝量の安全な最大限度というものがあるようだ。患者はなるほど今は安全な限度のレベルが下がっていて周囲をまどわせるかも知れない。しかし、病気になる前にも、安全な最大限度以上に被曝していたらしい人が少なくなさそうだ。


P36~
(集団討論の前後で精神健康度を調べた結果を受けて)

 積極的参加者(発言をよくする者)は自己の主張が容れられた時は得点が向上し、容れられなかった時は悪くなる。これは当たり前のようであるが、消極的参加者は必ず得点が良くなる。聞き役にまわる方が精神健康に良いのである。逆に必ず悪くなるのは調停者である。相容れない意見のまとめ役は必ず精神健康を悪くする。その成否にかかわらずである。

(中略)

 この結果から思い当たるのは、患者になる人は幼い時から一家の調停者であったかも知れないという可能性である。
 実際、ある患者は「私はバケツをつかんでしまった」と語った。お分かりであろうか。小学生の時、教室の床が汚されているが、誰が掃除するのか。皆がお互いに顔を見合わせる。この時、ついバケツに手が伸びた者が掃除役に決まる。集団の緊張は急に下り、余裕が出てくる。一寸手伝おうか、などと申し出るものもいる。まるで、バケツをつかんだ者には当然の義務であるものが、こちらでは恩恵的な手だすけであるかのように。

 そのように、しばしば患者とは、家族をまとめる役を幼い時から引き受け、しかもそれを認知されたり評価されたりしなかった人である。家族をよく眺めると意外な人が調停役、まとめ役、カスガイになっている。幼児であったり、浪人であったり、ぶらぶらしている人であったり、喘息の人であったりする。精神科の患者になっても、その役をつづけている人も少なくない。
 もっとも精神科の患者になってはじめて、まとめ役から解放されて自由を味わう人もある。
 調停者は自己主張をつねに後まわしにする。統合失調症の患者の幼い時の特徴は「いい子」「手のかからぬ子」そして「エピソードをまわりが思い出せぬ子」である。

 調停者はなかなか交代しない。「バケツをつかんだ子」は"有徴者"となるのである。交代している家族はたぶん精神科医の前に現れないので、われわれは認識しないのであろう。

 よくいわれるのは、一人が患者になっていることによって他の家族成員が病気にならずに済んでいるという印象が強い場合である。


P43~
 結局、臨床経験から得られる家族の表象は、ふつうに用いられる家系樹、すなわち変形ツリー型の与えるものから、はるかに懸け離れているということでができる。

(中略)

 こと家族に関してはツリー型の表象を以て言いうることは限られているのだろう。しかも家族の表象として思い浮かんでくるものは格子型ですらない。いや格子型ではあるが、力がたえずその上を移動して平衡をたえず取り戻し直しているような表象である。それは「おみこし」に近いかも知れない。一人が力をぬけば、その分の力はおのずと他のかつぎ手に配分される。それも公平にではない。平衡がくずれないように、という観点から再配分されるのである。結果としてある人の肩に力が集中することもある。ある人が立ち去ることで、かえって平衡が回復することもある。

 このような「おみこしモデル」は家族だけに限らず、一般に、自然発生的な集団は、このような形で平衡を保っている。人工的集団との違いである。私は思考実験で「このメンバーを除いたらホメオスターシスはどう変わるか」と考えてみる。この思考実験はしばしば家族を考える上で有益である。



『 いじめのある世界に生きる君たちへ 』
 中井久夫著 中央公論社


「孤立化」より

P27~35
 孤立していないひとは、時たまいじめられるかもしれませんが、ずっといじめられることはありません。立ち直るチャンスもあります。逆に立ち直るチャンスを与えず、ずっといじめるためには、そのひとを孤立させる必要があります。そう、いじめの最初の作戦は「孤立化作戦」です。

 その作戦の一つは、いじめのターゲットを決めることです。誰かがマークされたことがまわりに知らされます。ターゲットにならなかったみんなはほっとしますね。そしてターゲットにされた人からは距離を置きます。それでも距離を置かない人には、そんなことすると損するぞ、まかり間違えば身の破滅だぞということをちらつかせます。

 その次に、「いじめられるのは、いじめられるだけの理由がある」というPR作戦にでます。加害者は、ターゲットのささいな身体の特徴や癖からはじまって、根拠のない「けがれ」、顔の善し悪し、どうでもいいような行動などを問題にします。これはまわりの人たちの差別の気持ちをくすぐります。「自分より下」の人間がいるということは、リーダーになりたくてなれずにイライラしている人間にとって気休めになりますからね。

 PR作戦はまわりの大人にも向けられます。うかうかしていると先生もまきこまれてしまいます。いや、うかうかしていなくてもです。先生の「そういえば、○○にはそんなところがあるよなぁ」という何気ないひとこと、いや、かすかなうなずき、黙って聞きすごすことさえも、加害者には千万の味方を得た思いを、傍観者には傍観の許しを与えます。

 それだけではありません。PR作戦によって被害者も「自分はいじめられてもしかたない」という気持ちにだんだんさせられるのです。被害者は、なぜ他人ではなく、他ならないこの自分がいじめられるのか、自分なりに説明をつけようと必死に考えるものです。PR作戦がそんな被害者に届くとどうなるでしょう。
 「自分は○○だからいじめられても仕方ない」「自分はみにくい、魅力のない、誰からも好かれない、生きる値打ちのない、ひとりぼっちの存在だ」と、だんだん思い込むようになってしまいます。そんな思い込みに陥ると、そのひとの外見もそんなふうになっていきます。そのことがさらに加害者と傍観者を勇気づけます。先生でさえ、家庭への連絡帳にあなたのお子さんの欠点は○○ですと、PR作戦どおりのことを書くかもしれません。そうなれば子供は家庭でも孤立しやすくなります。

 被害者ははじめ、自分の言動を直したり弁明したりして、この状態から抜け出そうとするでしょう。それは時に成功しますが、時にはよりひどい事態に追い込まれます。日本語をたくみにあやつる外国人が日本語を話すと、かえってまわりの日本人はその日本語のささいな欠点に敏感になるということがありますが、それに似ています。方言のある転校生が言葉を直そうとすると、まわりはかえって言葉づかいの細かなところに敏感になるものです。そこには知らないうちに差別を求める人間の意識が働いているのでしょう。

 こうして被害者は、たえず気を配るようになります。まわりに、そして自分のしぐさや言葉つかい、ふるまいに。そうなると、被害者は「警戒的超覚醒状態」といわれる状態になります。緊張しっぱなしになり、自律神経系、内分泌系、免疫系という身体の大事なしくみがおかしくなるのです。 ぴりぴり、おどおど、きょろきょろし、顔色が青ざめ、脂汗が出たりしますが、それは人間として当然の反応です。しかしこういう状態になれば、まわりの人たちは遠ざかっていくでしょう。被害者はまわりに対し、ゆとりもって反応できなくなります。

 それでも被害者は気をゆるめることができません。加害者はとても有利なポジションにいて、攻撃点を自由に選べます。攻撃の焦点も場所も時間も自由に選べ、いちばん有利な形で攻撃できます。PRしたい時には大勢の前でやり、相手を屈服させるためには相手が一人でいる時を選ぶでしょう。被害者がいつ、どこにいても孤立無援であることを実感させる作戦が、「孤立化作戦」です。



「無力化」より

P40~46
 孤立化の段階では、被害者はまだ精神的には屈服していません。ひそかに反撃を狙ってるかもしれません。加害者はまだ枕を高くしていられないのです。次に加害者が行うのは相手を無力化することです。

 もちろん孤立化にも無力化が含まれています。孤立じたいが、大幅に力を失うことです。しかし「無力化作戦」はそれだけではすみません。この作戦は要するに、被害者に「反撃は一切無効だ」と教え、被害者を観念させることです。
 そのため反撃にでれば過剰な暴力で罰し、誰も味方にならないことを繰り返し味わわせます。反抗のわずかな気配にも過大な罰が与えられます。「お前、心の中で反抗したいと思っただろう、そのはずだ」と言いがかりをつけ、罰を与えるのも効果があります。
 加害者は当てずっぽうに言っているだけですが、当たって当然です。抵抗して現状から抜け出そうという気持ちはどんな人間にもあるからです。でも被害者はぎくりとするでしょう。加害者は「おれは何でもお見通しだ」と誇示し、被害者は「こいつは他人の心を見透かす能力がある」と誤って信じ込みます。加害者の心の内を読みたくて仕方ないのに読めない自分を情けない、劣った人間だと思い込みもします。ついには指摘されれば、反抗したいとその時思ってなくても、思ったような気がして、やましい気持ちになります。このように被害者は飼いならされていくのです。

 いじめを大人に訴えることは、特にきつく罰せられます。それは加害者がわが身を守るためではありません。加害者はすでに「孤立化作戦」のなかで、大人はこのいじめに手出ししないと踏んでいるからです。そうでなくても「大人に話すことは卑怯だ」「醜いことだ」といういじめる側の価値観で被害者を教育しようというのです。
 被害者はだんだんこの価値観を自分の中に採り入れ、自分でも大人に訴えるのを醜いと思うようになります。それに、「孤立化作戦」の段階で、いじめには大人も介入できないと、大人への期待をほとんど失っていることでしょう。これには事実の裏づけもあります。残念ながら大人がいじめに対して有効な介入をしないことがあまりに多いのです。

 被害者は、いじめがひどくなっていく全ての段階で「これを見て何とか気づいてくれ」というサインをまわりに、特に先生や両親に出し続けます。しかし、このサインが受け取られる確率は、太平洋の真ん中の漂流者の信号がキャッチされるよりも高いと思いません。

 じつはこの無力化の時期は、加害者としても、のるかそるかの山場です。ここで「飼いならし」に失敗すれば、加害者は自分の威力を失い、ひょっとするといじめられっ子に転落する可能性さえあります。
 したがって、もっともひどい暴力がふるわれるのは無力化の段階かもしれません。孤立化の段階、特にその初期に暴力をふるえば、クラスなどの世論を敵に回し、加害者のほうが孤立しかねません。

 加害者は勝手気ままにふるまっているようですが、じつは最初から最後まで世論を気にしています。それも先生などの大人の世界と子どもの世界の両方の世論をです。しかし、孤立化作戦が成功した今は、前ほど気にする必要はありません。
 いじめを内心いやだと思っている人たち、場合によっては立ち上がって止めてもいいと思っている人たちが、この子にはそうするだけの価値がないと目をつぶりパスするようになっていれば、しめたものなのです。
 ここで暴力をしっかりふるっておけば、あとは「暴力をふるうぞ」と脅すだけで十分です。暴力はいつでもふるえるとなれば、それほど頻繁にふるうものでありません。暴力でかろうじて維持されている権力は危ういもので、権力欲の観点から快いものではありません。相手が進んで自発的に隷従してくれるのが理想でしょう。



「透明化」より

P50~64
 人間には「選択的非注意」といって、自分が見たくないものを見ないでおくようにする心のメカニズムがあります。そのせいで、いじめがそこで行われていても、なにか自然の一部か風景の一部にしか見えなくなる、あるいは全く見えなくなることがあるのです。
 責任ある大人たちもさまざまな言い訳を用意しています。「子どもの世界に大人がうっかり口をはさんではいけない」からはじまって「自分もいじめられて大きくなった」「子どものためになるだろう」「あいつに覇気がないからだ」などなどです。たしかに当たっている一面はあるかもしれません。でもいくら当たっている面があっても、言い訳は言い訳。言い訳に過ぎません。

 しかし、まわりの人たちに見えないのは、その人たちが「見ない」せいだけではありません。実際に、この時期に行われる「透明化作戦」によって、ざっと見ただけではいじめがたいへん見えにくくなっているのです。そのことを少し字数をかけて説明します。
 この段階では、被害者は孤立無援で、反撃も脱出もできない無力な自分がほとほと嫌になり、少しずつ自分の誇りを自分でほりくずしていきます。

 さらに被害者の世界は、そうとう狭くなっています。加害者との人間関係がリアルなたった一つの関係となり、まわりの大人や級友たちはとても遠い存在になります。遠く、じつに遠く、別世界の住人のようです。

 空間的にも、加害者がいないとその空間が現実ではないように感じてしまいます。たとえば家族が海外旅行に連れ出したとしても、被害者にとっては、加害者は"その場にいる"のです。空間は、加害者の存在感でみちています。

 時間的にも、加害者との関係は永久に続くように感じます。あと二年で卒業すると頭でわかっていても、その二年後は「永遠のまだその向こう」に思えます。この点で、子どもは大人とちがう時間感覚をもっていることを言っておきたいと思います。アメリカの精神療法家ミルトン・エリクソンが、弟子が子どもの患者との面接を二週間延期したことを叱って「子どもにとって二週間は永遠に等しい」と断言したことを思い出します。
 そのうえ、いじめられている時間は苦痛な時間が常にそうであるように、いっそう長くいつまでも終わらないように感じます。被害者にとって時間を思うことさえ地獄の苦しみです。

 被害者はだんだん、「その日ひどくいじめられなければいいや」と思うようになります。いじめのない日はまるで神の恵みのようです。やがて被害者はこの恵みを、加害者からのありがたい贈り物だと感じるようになります。すでに加害者との関係がほとんど唯一の関係です。加害者のささいな表情やしぐさにとても敏感になり、加害者のわずかな表情の変化に自分の全感情が反応してしまいます。

 加害者のきげん一つで運命が決まるような毎日。そのなかで被害者は感情の面でも加害者に隷属(れいぞく)していくのです。そんな状況を強調するために、加害者は自分の気まぐれぶりをオーパーに演じてみせ、被害者が今日のいじめの程度を予測でいないようにします。ものごとを予測するということは、圧倒的な力をもつ敵を前にした時の最後の主体的な行為です。これができなくなることは、被害者の知性をかき乱します。被害者が知的な少年少女であれば、特に自分への信頼を失うことでしょう。

 こうなると、加害者はたとえば今日だけは勘弁してやるという「恩恵」で、「透明化作戦」に被害者自身を協力させることだってできます。そんな時、被害者は大人の前で加害者と仲良しであることをアピールしたり、楽しそうに遊んでみせたりします。加害者といっしょに別のいじめに加わることもあります。その時、加害者は被害者がいじめる側に加わっていることをまわりの人にわざと見せます。このことで、被害者は「自分は被害者だ」という自分の最後の拠り所さえ奪われます。

 よくみると、仲良しをアピールしている時の被害者の眼は笑っていません。楽しそうな遊びにも、遊びにつきもののダイナミックな心の揺らぎがありません。加害者の列に混じっていても、その子だけ体がこわばっています。しかし、そういうことはよほど目ざとい大人の眼にしかとまりません。「透明化作戦」は、このようにいじめを見えにくいものにします。

 この段階までくると子どもは、大人から「誰かにいじめられていない?」と聞かれると激しく否定し、しばしば怒りだします。家族から聞かれて怒りのあまり暴力をふるうことさえあります。それは「何を今さら」「もう遅い」という感覚ですが、それだけではありません。

 自分のことは自分で始末をつけるということは、人間としての最後のイニシアティブの感覚です。ここで大人に「もう自分はだめだ」と自分を委ねてしまうことは、大人の介入によって自分に最後に残った感覚をあてどなく明け渡してしまうことです。激しい否定と怒りは、その時に感じるだろう喪失感を先取りするためでもあるのです。
 明け渡しても得るものは期待できそうにない。それなのに自分の中に残っている最後のパワーをむざむざ明け渡してしまう。この喪失感は、そうした目に遭ったことのない幸福な大人には理解しがたいものかもしれませんが、ぜひ理解しなければならないものです。

(中略)

 そのように、子ども社会の暴力的な面を知らずに成人した大人も多いかもしれません。しかし、その中に陥ってしまった者の「出口なし」感は、ほとんどナチスの強制収容所なみです。それも場合によっては出所できるような収容所でなく、絶対に出ることのできない絶滅収容所だと感じられます。その壁は透明ですが、しかし、眼に見える鉄条網よりも強固です。



「無理難題」より

P66~69
 外でいじめられている子は、時に家で暴君となります。しかし、最後の誇りとして家族の前では「いい子」であり続けようとする場合も多くあります。その最後の誇りが失われそうになった時に行われるのが自殺です。"自殺して解放された自分"という幻想は「無力化段階」から育まれていますが、その幻想は自殺を一時延期する効果もあります。
 それは自殺することで加害者を告発するという幻想で、家族が初めてわかってくれ、級友や先生が「しまった」と思い「申し訳ない」と言ってくれる幻想もあります。そういう幻想が、極度に狭まった世界のただ一つの「外」への通路だということがあります。

 この状態がさらに進めば、強制収容所では自尊心も自己決定性も何もない、生ける屍となり果てると言います。もはや殴られても痛みも感じず、拷問されてもまるで他人の体に加えられているようなものになります。

 こう言うと、いじめでは直接命を奪うようなことはないし、子どもには家庭という帰る場所があると言われるかもしれません。
 しかし、いじめは直接間接の暴力だけがつらいのではありません。特に「透明化段階」でつらいのは「無理難題」です。社会的立場を賭けて何とかやりとげた難題も、加害者にとっては紙切れのように軽いものだったということは、自らの無価値さの完成形です。
 多くの子どもが、とうてい果たせない「無理難題」を課せられたことをきっかけに自殺の実行に踏み切っていることを強調したいと思います。

 「無理難題」には、家から多額のお金を盗まなければ果たせないようなものがあります。あるいは、小さい時から可愛がってもらってとても仲のいいおばあちゃんとひとことも口をきくなという「命令」もあります。そうした「無理難題」はいずれも、かりにやり遂げたとしても、被害者にとっては、家庭での自分の「市民権」を決定的に失うものです。



「安全の確保」より

P77~79
 このような文を書くと、対策はどうなのだという質問がさっそくでてきそうです。わたくしは現段階では、心の傷がもたらすさまざまな症状の研究者であるハーマンの言葉を引いて、まずいじめられている子どもの安全の確保であり、孤立感の解消であり、二度と孤立させないという大人の責任ある保障の言葉であり、その実行であるとだけ述べておきます。

 大人に対する不信感はあって当然です。安全が確保されないのに根掘り葉掘り事情を聞きだすことはやめたほうがいいでしょう。同時に被害者がどんな人間であろうと、いじめは悪であり立派な犯罪であり、自分は一人の人間として被害者の立場に立つことをはっきり言う必要があります。

 いじめのワナのような構造の、君は犠牲者であるということを話して聞かせ、その子のかかえている罪悪感や卑小感や劣等感を軽くしてゆくことが最初の目標でしょう。道徳的な劣等感は不思議なことにいじめられっ子が持ち、いじめっ子のほうは持たないものです。

 これ以上の対策をあれこれあげることは、実行もせずに絵空事を描くことになり、かえって罪なことになります。その場に即して有効な手立てを考え出し、実行する以外にない世界です。わたくしのように初老期までいじめの影響に苦しむ人間をこれ以上つくらないよう、各方面の努力を祈ります。


『心的外傷と回復』ジュディス・L・ハーマン著 中井久夫訳 みすず書房


「第七章 治癒的関係とは」より

P205
 回復は人間関係の網の目を背景にしてはじめて起こり、孤立状態においては起こらない。生存者は心的外傷体験によって損なわれ歪められた心的能力を他の人々との関係が新しく蘇る中で創り直すものである。
 その心的能力には「基本的信頼を創る能力」「自己決定を行う能力」「積極的にことを始める能力」「新しい事態に対処する能力」「自己が何であるかを見定める能力」「他者との親密関係を創る能力」がある。これらの能力はそもそもが他者との関係において形成されたものであり、まさにそのように再形成も他者との関係においてなされなければならない。

 回復のための第一原則はその後を生きる者の中に力(パワー)を与えることにある。その後を生きる者自身が自分の回復の主体であり判定者でなければならない。その人以外の人間は、助言をし、支持し、そばにいて、立会い、手を添え、助け、温かい感情を向け、ケアすることはできるが、治療(キュア)するのはその人である。
 善意にあふれ意図するところもよい救援の試みの多くが挫折するのは有力化という基本原則が見られない場合である。その後を生きる者から力を奪うような介入はその人の回復のためになりえない。いくら、その人にその場では役に立つようにみえてもだめである。

P240
 人格の統合性とは死に直面しても人生の価値を肯定しうる能力であり、自己の人生の限界の有限性と人間の条件の悲劇的限界と和解する能力であり、絶望なくして現実がそういうものであることを受容する能力である。
 人格の統合性は対人関係における信頼をそもそもその上につくった土台であるが、いったん砕かれた信頼をとりもどす土台でもある。
 ケア提供的な関係における人格の統合性と信頼との緊密な相互関係は、世代から世代へと引き継がれる鎖の輪のつながりを完全なものにし、外傷が破壊する人間のコミュニティ感覚を再生させるものである。


「第八章 安全」より

P241
 回復の展開は三段階である。
 第一段階の中心課題は安全の確立である。
 第二段階の中心課題は想起と服喪追悼である。
 第三段階の中心課題は通常生活との再結合である。

P248
 外傷は被害者から力と自己統御の感覚を奪う。回復の基本原則は被害者に力(パワー)と自己統御(セルフ・コントロール)(本邦的な表現では主体性か――訳者)とを奪回することにある。回復過程における最初の課題とは被害者の安全を確保することである。

P271
 外傷を受けた人は、一歩また一歩とその人生における最低限の安全を、少なくとも人生の予見性を、取り戻してゆくものである。自分も自分以外の人間も頼みにしてよいことにもう一度気づきなおすものである。外傷以前よりもはるかに用心深く、人を信じにくくなっていて、水いらずの親密性は避けるだろうが、自分は全く孤立して傷つき放題になってしまう存在だとは思わなくなっているとか、自分で自分を守る能力に多少の信頼を置くようになっているとか、自分のいちばん厄介な症状をコントロールする方法を知るようになっているとか(が第一段階完了の目安である)。


「第九章 想起と服喪追悼」より

P273
 回復の第二段階とは被害経験者が外傷のストーリーを語る段階である。それは完全に、深く、具体的細部にわったて語られる。この再構成の作業によって外傷的記憶は実際に形を変え、被害経験者のライフ・ストーリー(生活史全体)の中に統合されるようになる。

P277
 感情抜きで事実だけを唱えさせることは実りのないわざであり、治療効果は皆無である。

P279
 治療者の役割は既成のありきたりの答えを与えることではない。それはどのみちできない相談であろう。そうではなくて、生存者との道徳的連帯性という立場を鮮明にするべきである。

P301
 患者に対する治療者の責任を果たす最善の方法は患者の語る物語の誠実な証人("目撃者")となることであって、患者を子ども扱いしたり、患者に特別の恩恵をめぐんだりすることではない。むろん生存者は自分に与えられた危害には責任があるわけでもないが、自分の回復には責任がある。逆説的であるが、この誰がみても明らかな不正義の受容が有力化の端緒である。生存者が自分の回復の全面的主導権を握る唯一の方法は回復の責任を引き受けることである。破壊されないで残っている自分の強さに気づく唯一の方法はそれを全面的に活用することである。

P303
 児童期の慢性外傷後の生存者は喪ったものを悲しみ悼む仕事だけでなく、もともと持てなくて失いようがなかったものを悲しみ悼む作業をしなければならない。幼少年時代そのものがそっくり奪い取られているのであり、これは取り戻しようがない。
 慢性外傷の生存者はまた、基本的信頼の基盤が失われたことを悼まなければならない。基盤とは親は良い人だと思って疑わないことである。自分の悲しい運命が自分の責任ではないことを認めるにしたがって、児童期には直面できなかった実存的絶望に向かい合わなければならなくなる。

 レナード・シェンゴールドはこの喪の段階の中心的問題をこう述べている。すなわち「ケアしてくれる両親という内的イメージがなくて生きてゆくにはどうしたらよいのだろうか。(中略)魂の殺害者の犠牲になった子たちは皆"お父さんとお母さんのいない人生ってあるのか"という質問によってすっかり参ってしまう」。

 絶望の対決とともに、少なくとも一過性に、自殺の危険が増大する。これは回復の第一段階にみられる衝動的な自己破壊ではない。この第二段階における患者の自殺性は、あのような身の毛がよだつ恐怖がありうる世界を拒否するという、平静な、淡々とした、いかにも理性的な決断から生まれるものでありうる。
 患者は自分には自殺を選ぶ権利があるという不毛な哲学的議論を始めるかもしれない。絶対にこの知的防衛の向こう側に出て、患者の絶望の火に油を注いでる感情や空想にかかわるようにしなければならない。よくあるのは、自分はすでに死者であるという空想である。それは愛の能力が破壊されたからだというのである。
 この絶望の底に降りてゆく過程で患者を支えとおすものは、どんなにささやかでもよい、愛による結びつきに力が残っているという小さな証しである。

 破壊し尽くされずにある愛の能力に至る鍵は、しばしば慰めのイマジャリーを喚起するうちにみつけられる。廃墟の中から何らかの愛着のイメージは救い出せているもので、そういうものがまずまちがいなくみつかる。一人だけやさしく慰めてくれる人がいてその人のよいイメージが一つ残っているだけでも、喪失への悼みの中に下降してゆく際の命綱になってくれるだろう。動物や子どもに対して遠くからでも共感を感じる能力が患者にあれば、それは自分自身への共感の端緒となりうる、はかないいとぐちではあるが――。

P306
 回復の第二段階には無時間的という性質があって、これが怖ろしいのである。外傷の再構成は過去の体験に沈潜することが必要である。それは時間が凍りついて動かない体験である。服喪追悼の中への下降は尽きない涙になすすべなく溺れてしまうのではないかという感じがある。

 何度もくり返しているうちに外傷ストーリーを話してももはや強烈な感情がかき立てられなくなる瞬間が来る。それは生存者の体験の一部となったのである。それは体験の一部にすぎない。今や外傷物語は他の記憶と変わるところのない記憶となり、他の記憶が時とともに色あせてゆくように色あせはじめる。その生々しさがうすれはじめる。外傷が人生のストーリーの中でもっとも重要な部分でなく、もっとも興味のある部分でさえないようだということに生存者は気づく。


「第十章 再結合」より

P309~310
 回復の第三段階になると、外傷をこうむった人も自分が被害者であったことを認識し、自分が被害者となっていたための後遺症がどういうものであるかを理解するようになる。それは外傷体験の教訓を人生に組み込む準備ができたことである。自分の力量感、自己統御感を大きくし、これからもあるであろう危険に対して自らを守り、そして信頼できるとわかった人々との同盟関係を深める準備ができたことでもある。

P315
 虐待する家族の中で大人となった生存者は、しばしば外に対して口をつぐませる役割を果している家族に協力してきた。家族内の秘密を守るために、自分のものではない重荷を背負っていたわけである。回復のこの地点に至れば、口をつぐむ役はもうやめた、今後も戻らないと家族に宣言する道を選んでもふしぎではない。そのことは生存者が恥辱感、罪業感、有責性の重荷を捨てて、これを加害者の背に載せてやることである。加害者の背こそ重荷が本来あるべきところなのであるから――。

P318
 「私は私自身の持ち主だ。これは確かだ I know I have myself」――この単純なことばは回復の第三段階のシンボルマークにふさわしかろう。第三段階は最終段階である。生存者はもはや自らの外傷的な過去にとりつかれている(所有されている)という感じを持たなくなる。生存者は自分自身を所有している。
 生存者のこれからの任務は<自分がなりたい人間になる>ということである。

 第三段階の過程において生存者は外傷以前の時期、外傷体験自体、そして回復の時期をふり返って、そこから自分がもっとも高く評価する自分の面(複数)を改めて引き出すのである。これらの要素すべてを統合して生存者は新しい自己(ニュー・セルフ)を創り上げる、理想像としても、現実においても――。

 理想的自己の再創造にはイマジネーションとファンタジーとを積極的に練磨することも必要となる。この二つの能力は今や束縛を解き放たれたのである。

P320
 自己自身の持ち主となるためにはしばしば外傷によって押しつけられた自己の一部を排除する必要が起こる。生存者が<犠牲者である>というアイデンティティ(自己規定)を捨てるにつれて、これまでおおよそ自分の持ち前であると思ってきた自己の一部を放棄することを選ぶようになってもふしぎではない。

P321
 自分自身の中で外傷的環境によって形成された面がどれかを認識し、それを「手放す」につれて、生存者はまた、自分自身を赦すようになってゆく。自分の性格に加えられたダメージが恒久的なものにちがいないと感じなくなれば、このダメージを自分から認知しやすくもなる。生存者が自己の生活の再建に積極的にかかわることができるようになってゆけば、それに応じて、外傷をこうむった自己の記憶に対して寛大になれ、これを受容できるようになる。

 回復の第三段階になれば、生存者はすでに適切な信頼の能力を取り戻しているものである。再び他者を信頼してしかるべき時には信頼感を持ち、信頼すべきでない時には信頼を撤回することができ、さらにこの二つの状況をどうやって区別するかがわかっている。

 自分は自分以外の人々との結びつきを保ちつつ自律的であると感じる能力をも取り戻している。自分のものの見方と自分の(犯されない)境界線を保ちつつ、自分以外の人々のものの見方と境界線とを尊重するようになれている。
 主動権を持って人生を生きるようになりはじめており、今や新しいアイデンティティをつくり出す過程にある。自分以外の人たちと深い関係を結ぶ勇気が持てるようになっている。
 友人たちとは相互関係に立脚した友情を求めるようになる。友情は演技やみてくれや<いつわりの自己>を掲げつづけることにもとづいたものではない。

P328
 生存者の大部分は個人生活の範囲内で外傷体験の解消を図る。しかし少数ではあるが重要なのは、外傷の結果、より広い世界にかかわる使命を授けられたと感じる人々がいる。
 このような生存者はみずからの不運の中に政治的あるいは宗教的次元を認識し、おのれの個人的悲劇を社会的行動の基礎とすることによってその意味を変換できることに気がつく。
(中略)
 外傷があがなわれるのはただ一つ、それが生存者使命の原動力となる時である。

P330
 生存者の中には自分と同じように被害者になった人たちを教育、司法、政治の各面の努力によって救援することにエネルギーを集中し、将来被害者になる人々が出ないようにする人もあり、加害者を法廷に引き出そうとする人もある。これらの努力の共通点は公衆の意識を高めるために献身するということである。
 生存者には身の毛もよだつような恐ろしい事件に対する自然な人間的反応はこれを心の外に放り出すことであるということはよくわかっている。過去には彼女ら彼らもそのようにしたであろう。生存者はまた、過去を忘れる者がそれをくり返す宿命に縛られているのだとわかっている。このために、公衆の面前で真実を語るということが社会的行動すべての共通分母となっているのである。

 生存者は公衆の面前で語りえないことを語ろうとする。それはそうすることが他の人々を助けるはずだとの信念あってのことである。

P332
 生存者使命は正義を追求するという形をとることがあってもよい。回復の第三段階においては生存者は加害者に対する個人的な悲しみと怒りとを超えて高い立場に立つという原則の具体的問題点を理解するようになっている。生存者は外傷は取り消しが効かないこと、賠償の願いも復讐の願望もともにほんとうの意味では満たされえないことを認識するようになっている。

 しかし生存者はまた、加害者に対する弁明責任を感じさせておくことが生存者自身の安寧のためばかりでなく広く社会の健康を維持するために重要であることを認識するようになっている。生存者は社会正義という抽象的原理(の意義)を再発見する。それは自分一人のものであった不幸を自分以外の人々の不幸に結びつけるものである。

P337
 解消のもっともよい指標は、生存者が生活の中で楽しみを味わう能力と自分以外の人々との関係に全面的に入る能力とを取り戻しているかどうかである。

P338
 回復をなしとげた生存者は人生に直面する時、幻想はあっても少なく、逆にしばしば感謝の念がある。その人生観は悲劇的であるかもしれないが、まさに人生は悲劇であるということそのことによって生存者は笑いを大切にすることを学んだのである。何が大切で何が大切でないかについてはっきりしたセンスを持つようになったのである。悪に直面したことによって、よきものからしっかりと手を放さずにいるすべを知ったのである。死の恐怖に直面したことによって、人生をことほぐすべを知ったのである。


「第十一章 共世界」より

P340
 外傷的事件は個人と社会とをつなぐきずなを破壊する。生き残った者は、自己という感覚、自己が価値あるものであるという感覚、自己が人間に属するという感覚は自分以外の人々との結びつきの感覚に依存し、それ次第であるということを痛いほど味わう。
 グループの連帯性は恐怖と絶望に対する最大最強の守りであり、外傷体験の最強力な解毒素である。外傷は孤立化させる。グループは所属感を再創造する。外傷は恥じ入らせ、差別の烙印を捺す。グループは証人になり、肯定する。外傷は被害者を堕落させる。グループは向上させる。外傷は被害者を非人間化する。グループはその人間性をとりもどす。

 生存者の証言には、つながりの感覚がとりもどせたのは、あの時、ある人が惜しみない度量を気どらない自然体で示してくれたおかげであるという話がくり返し出てくる。被害者が不可逆的な破壊をこうむったと思い込んでいる自分の中のもの――信仰や品性や勇気など――はごくふつうの愛他性(相手の身になって考え相手本位で行動すること)によってもう一度目をさます。
 自分以外の人々の行動を鏡として生存者は自ら失われた部分を認め、それをとりもどす。この瞬間から生存者は人間の共世界 human commonality に再加入しはじめる。