【暁の真珠湾の空を飛んだサムライたち】太平洋戦争の火蓋を切った航空機とは!?(^_^) | rinputamago3191のブログ

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このイラストは、本編記事の内容とは関係ありませんが悪しからず。背景は・・・心折れました。鉛筆書きです。(;^ω^)

 

さて、今回は太平洋戦争開戦の戦いとなった「真珠湾奇襲攻撃」で主力として活躍しました、3つの航空機についてご紹介します。

 

以前「戦艦大和」を沈めた航空機を3つご紹介した記事をアップしましたが、そのパターンをまたやってみようと思ったわけです。

 

 

最初にご紹介しますのは、その名を世界に轟かせました名戦闘機「零戦」です。正式には「零式艦上戦闘機」と言います。

 

 

 

名称の由来は、軍用機の採用年が昭和15(1940)年、皇紀2600年にあたるので、その下2桁の「00」から「零式」と命名されました。

 

ちなみに「皇紀2600年」というのは、神武天皇即位から数えての年数です。

 

ゼロ戦の設計者は、三菱重工業の航空機設計主務であった天才技師「堀越二郎」です。私は堀越氏の自伝を中学生のときに読んだことがあります。

 

ゼロ戦は、太平洋戦争の初期は圧倒的な運動性能と長い航続距離(3000キロ超)、当時は珍しい20ミリ機銃搭載という重武装で連合軍の戦闘機を圧倒しました。

 

しかし、太平洋戦争中期以降、アメリカが次々と投入してくる新鋭戦闘機に劣勢を強いられるようになります。

 

戦争末期には「特攻機」としても使用され、悲しい最期を迎えてしまいます。

 

終戦までに、日本の戦闘機としては最多の10400機以上が生産されました。

 

次にご紹介しますのは「99式艦上爆撃機(通称99艦爆)」です。開発・生産は愛知航空機で約1500機生産されました。

 

 

 

この航空機は空母から飛び立ち、敵の艦船を空から急降下して爆撃、轟沈させることが主な任務となります。

 

太平洋戦争初期の頃の活躍は華々しく、最も多くの連合軍艦船を撃沈したとも言われているようです。

 

残念ながら連合軍が本格的な反攻作戦を開始した、ソロモン諸島の戦い(1942年)以降は、低速(最高時速380~420キロ)と防弾装備の貧弱性から多大な犠牲を払うようになりました。

 

空母での運用機であるにもかかわらず、太平洋戦争末期は陸上から飛び立ち、特攻機として使われるようになってしまいました。

 

最期にご紹介しますのは「97式艦上攻撃機」です。

この航空機は太平洋戦争当時、戦闘機などの受注・生産で三菱重とライバル関係にあった中島飛行機が開発しました。

 

 

 

3人乗りで、800キロ魚雷のほか500キロ(1発)、250キロ(2発)、60キロ(6発)の爆弾を搭載することも可能な万能攻撃機でした。

 

真珠湾攻撃で航空攻撃隊の指揮をとった「淵田美津雄」海軍中佐が、この機体から「トラ・トラ・トラ(我て奇襲に成功せり)」を打電しています。

 

真珠湾攻撃で大きな戦果をあげますが、マリアナ沖海戦(1944年)以降後継機の「天山」が登場してからは、陸上基地でも運用されるようになりました。

 

敵潜水艦の哨戒や輸送船団の護衛任務につくなど、その万能機ぶりがうかがえます。

 

今回の記事では航空機のイラストを3点作成しましたので、かなり大変でした。

 

でも、昔読んだ軍記ものや映画を思い出し、とても懐かしい気持ちになりました。

 

今は無人攻撃機やドローンが活躍する時代です。私はそんなハイテク兵器より「レシプロ機」に強いロマンを感じます。(^_^)

 

今回の記事も「クオリティ」&「気合」に差はあるものの5点のイラスを掲載しました。

 

製作時間二日にわたり10時間超でしょうか・・・。色塗り、簡単にできるツールが欲しいものです。笑