京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史 -8ページ目

京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

視覚障害教育の歴史を研究しています。京都盲唖院、古河太四郎、遠山憲美、鳥居嘉三郎、石川倉次、好本督、鳥居篤治郎、小野兼次郎、斎藤百合、エロシェンコ、楽善会、雨宮中平、点字

  1906年に開催された音曲会は、創立から10数年目の京都感化保護院の趣旨を広め、資金づくりも兼ねるものでした。

 

 発起したのは、各界の著名人で、京都盲唖慈善会を支える人たちと重なります。その音楽会に、京都盲唖院の音楽(邦楽)科教員たちが招かれて「秋の曲」と「松竹梅」を披露する企画だったことが分かります。
 

 古川は、京都盲唖院創立者の古河太四郎ではなく、初期の邦楽科教員古川龍斎をさします。田中きぬもごく早い時期から邦楽の指導にあたったことが知られています。山口巖(菊次郎)、渡部・正しくは渡辺正之、江良千代、阪本音次郎も盲唖院で邦楽を学び、母校の指導者となった人たちです。 

 

    感化保護院音楽大会主意書

国ニ無頼ノ悪漢アリ、家ニ不良ノ少年アルハ、亦猶蠧毒ノ植物ヲ傷ヒ、疾患ノ人身ヲ害スルカ如ク、其不幸蓋之レヨリ甚シキハナシ、是レ開明各国ノ競フテ之レカ予防ノ方法ヲ案シ、感化保護事業ノ普及ヲ講スル所以ナリ、我京都感化保護院ノ創設ハ、実ニ既往十数年ノ前ニアリ、此ノ間、良心ニ復シ、正業ニ従ハシメモノ、固ヨリ少キニアラサルモ、奈何セン、本院ノ経費未タ充全ナラス、従テ予期事業ノ遂行セラレサルモノ、往々ニシテ然ルヲ、要スルニ、感化及保護事業ノ未タ一般世人ニ熟知セラレサルニヨル、豈慨嘆セサルヘケンヤ、我輩茲ニ鑑ル所アリ、来ル十日東京家庭学校長留岡幸助氏及赤松連城氏ヲ聘シ、一場ノ演説ヲ請ヒ、且式部職雅楽部ノ一行並盲啞院教員等ヲ聘シテ一大音楽会ヲ開催シ、以テ感化保護事業ノ必要ヲ一般ニ紹介シ、且其収入ヲ以テ本院ノ費途ニ補ハントス、同感ノ士、幸ニ来テ如上不幸ノ徒ヲ感化セシムヘキ本院ノ目的ヲ達成セシメラレンコトヲ、若シ妙趣多興ナル名曲カ、天来ノ名手ニ因テ弾奏セラレ如何ニ聴衆ノ心耳ヲ感動セシムルカノ如キハ、復茲ニ贅弁セサルヘシ、敢テ謹告ス

 明治三十九年九月八日

   感化保護院音楽大会発起人

     大森鐘一   神根善雄   松田就正

     西郷菊次郎  吉田佐吉   古川吉兵衛

     内貴甚三郎  田中源太郎  藤木林種

     林長次郎   高木文平   舟木宗治

     八田一精   田中泰輔   雨森菊太郎

     西村七三郎  辻信次郎   東枝吉兵衛

     西村治兵衛  中村榮助   齋藤仙也

     堀五郎兵衛  中井三郎兵衛 木名瀬禮助

     富田半兵衛  中山研一   下間庄右衛門

     大澤善助   村田栄次郎  柴田彌兵衛

     渡邊伊之助  上野彌一郎  莊林維新

     河原林義雄  山本長敬   角信勝

     兼田義路   松井庄七

   同  賛成者

     木下廣次   竹下康之   田中勝之丞

     藤川陟記   中山巳代藏  河村鉚三郎

     世古祐二郎  六角耕雲

    ―――――――――――――――

一 会場 市議事堂

一 期日 来ル九月十日正午後一時より同六時マテ

一 演説 東京家庭学校長 留岡幸助氏

一 同          赤松連城氏

一 演奏者氏名及担当楽器

   宮内省式部職雅楽部員諸氏 姓名及担当楽器々名

     ヴィオラ     東儀俊義氏

     クラリ子ット   多忠龍氏

     コル子ット    東儀俊龍氏

     コントラバス   薗廣虎氏

     ヴァイオリン   多忠基氏

     ボザウン     多忠行氏

     コル子ット    薗兼明氏

     フレーテ兼セロ  多忠告氏

     ヴァイオリン   芝忠重氏

     ヴァイオリン   奥好察氏

     ヴァイオリン   多忠朝氏

   京都市盲啞院職員諸氏 姓名及担当楽器々名

     筝    古川氏

     三絃   田中きぬ氏

     筝三絃  山口巖氏

     筝三絃  渡部(ママ)正之氏

     筝三絃  江良千代氏

     筝尺八  阪本音次郎氏

一 演奏曲目

 一 平和行進曲 ………… ヒード氏作曲 宮内省式部職雅楽部員諸氏一同

 一 新世紀劇序曲 ………………………… 同上

 一 新婚ノ曲 ……………………………… 同上

 一 六段筝曲 ………… 同上

 一 東星曲 …………………ロゼー氏作曲 同上

 一 催馬楽更衣 …………………………… 同上

 一 尺八 ……独奏………………………… 同上

 一 ヴㇶオラ ……独奏…………………… 同上

 一 紐育ノ美人劇意想曲 ヘンケル氏作曲 同上

 一 自由旗行進曲 …………ハラル氏作曲 同上

 一 秋の曲 ………………………………… 京都市盲啞院職員諸氏一同

 一 松竹梅 ………………………………… 同上

 (本資料は、古書店を通じて入手し、岸が所蔵している)

 


 

 

 私立大阪盲唖院創立者の伝記『五代五兵衛』には多くの資料が紹介されています。

 以下はその47ページに載っている「参観心得」を転記したものです。現在、原本資料との対照作業を試みています。『五代五兵衛』に掲載されたものと原本の間に1か所違いがあります。『五代五兵衛』掲載分では、漢字2文字が欠落しているのです。こうした異同については、他の資料についての精査もふまえ、別途、手続きも経たうえでの公開を検討中です。

 

   参観心得

 一、   参観者ハ参観券及ビ名刺ヲ通ジ案内ヲ俟テ入場アルベシ 但庁署ヨリノ視察員ハ此限ニ非ズ

 一、   参観時ハ午前中ニ限ル

 一、   参観人ハ一時ニ五人ニ過グベカラズト雖モ教場ノ都合二ヨリ臨時ノ取計ヒナスベシ

 一、   帽、襟巻、外套ヲ着ケ又ハ半パッチノ侭凡テ非礼ノ服体ヲ以テ入場スルコトヲ許サズ

 一、   職員教員ノ許可ヲ得ズシテ自ラ生徒ニ問答シ又ハ陳列ノ教具ニ手ヲ触レ無案内ノ場所へ妄リニ入ルベカラズ

 一、   教場ニ於テ喫烟談話ヲ禁ズ

 一、   参観ノ上生徒ノ利害ト考フル点ハ御注意ヲ仰グ

 

  【写真は、満開のツツジ】

♪ 本を丸めたり 角を折ったり 爪で目印をつけたり 指をなめてめくったり 枕にしたり しおりを挟んだり しては ならない

 文書に捺された 雨宮中平の蔵書印【写真】

 雨宮は、楽善会訓盲院の事務担当として官立化の時期の貴重な史料を残した人。その文書資料に捺された蔵書印は比較的大きな縦長長方形の中に8字×7行+雨宮氏蔵書記と刻まれている。一部、原本通りの字形が再現できていないが、ひととおり読みとった。

 聚書藏書良非易事
 蓋觀書者澄神端慮
 浄几焚香勿捲腦勿
 折角勿以爪侵字勿
 以唾掲幅勿以作枕
 勿以夾紙隨損隨修
 隨開隨掩則無傷殘
   雨宮氏藏書記

 本を愛する者の心得が列挙されている。
 「よい本を集めるのは容易でない。読書は、心を澄まし机を美しくして香をたき、本を丸めたり角を折ったり爪で目印をつけたり指をなめてめくったり枕にしたりしおりを挟んだりしてはならない。やぶれたら繕い、むりやり開いたりしなければ、損傷が残ることはない」と。

 う~む、耳が痛い(笑)。他にも同様の語句を含む蔵書印がかなり記録されているが、古いところでは、趙子昂のエピソードが源流か。

 「聚書藏書,良匪易事。善觀書者,澄神端慮,淨几焚香,勿捲腦,勿折角,勿以爪侵字,勿以唾揭幅,勿以作枕,勿以夾刺,隨損隨修,隨開隨掩」

 

 

 

伝記書『大阪市立盲唖学校の創立者五代五兵衛氏の事蹟』

 (四六版・30ページ・1939年刊)

【写真は、記事と無縁の、燈篭流し】

 

 ひとつは、1809年に創立された大阪府立の摸範盲唖学校が翌年とん挫した後、私立で再興された学校。1890年の大阪朝日新聞に「私立大阪盲唖学校」として、その概況が描かれているものの、足跡は消えていく。

 

 もうひとつは、1900年に五代五兵衛が創始した<私立大阪盲唖院>の一部門として古河太四郎が院長を務めた「私立大阪盲唖学校」。大きな枠としては<私立大阪盲唖院>として捉えてよいが、一時期の文書には「私立大阪盲唖学校」も用いられている。

 

 【写真は、日暮れの枝垂れ桜】

 

 6時間もの録音が文字に起こされた!点字の神様と理療の神様、お二人による飾らぬ口調の親密な対話。
 阿佐先生のご著書を5冊までは読んできたが、私などの知らないエピソード満載だった。 2千円
 点字の歴史をめぐって困ったことがあれば電話をかけて教えを請うた。折々のお声を思い出す。テーラー計算器の楽しみ方の話、やはり面白い。
 この本がきっかけとなって、未読の一冊『主の肢々として 障害者と教会』を入手できることになった。
 1954年にお作りになったという「点字文章」というテキストはどこかに現存するのだろうか。

  【写真は、渡りの時期を考えている?ツグミ】

 2012年2月に名古屋市内の古書店をめぐったとき、点字で「かわで ますみ」、墨字で「川出眞情」と書き添えられた短歌一首を入手しました。「明治三十九年の歌会始の勅題予選歌」と説明のある短冊です。眞情の名古屋市内の住所も記されていました。

 地元のかたのお力添を得て、名古屋盲学校の卒業生名簿などにあたっていただきましたが、まったくヒットしませんでした。残念に思いつつ、8年ほど寝かしていました。。。

 それが、今回、突如、判然としました。正しい名前は、眞澄! 歌会初めは明治37年らしいのです。。。しかも、名古屋盲学校の生徒だったのではなく、一世代も二世代も上の、名古屋盲学校創立を唱えた江戸時代(嘉永)生まれの盲人だったのです。

 まだ年次は特定できないのですが、1925年前後かと思われる名古屋新聞のある号に、今日、出会いました。それに「盲教育の恩人 不幸な運命を… 開拓した眞澄翁 検校の名も許されて 市立盲唖学校で表彰される」という見出しの大きな記事が載っていました。検校衣装をまとった眞澄さん(七十五歳)の正座した写真も掲げられています。針灸按摩の術も学び、胡弓・琴・琵琶にも堪能で、名古屋盲人会を組織したそうです。「例の凸字といふを考案した」ともあり、どんな凸字だったのか興味をそそられます。

   新年の河
 あだなみもしづまりはてゝ行く水の音無川に年立ちにけり

 短冊と記事の、8年の歳月を経たドッキングに感激!!!
こんなことがあるので、資料収集はやめられません(笑)。

  【写真は、記事の中の眞澄座像】

 

 古河太四郎の籌(ちゅう)算盤でもない、
 マルチン式(ガラン製)計算器でもない、
 ゴム製のあれは、広島県立盲学校の山崎文人さんが発明した「盲人用計算器」だった!
 ヘレン・ケラーにちなんで作られた青鳥会。その「特殊教育研究報告書」(青鳥会そう書第四号)に1952年の成果として図入りで掲載されていた。その図を説明すると次のようになろう。

 籌算盤やマルチン式計算器と同じく縦書き筆算が表現できるツール。横20マス・縦15マスの盤に、サイコロ型のコマを嵌めて用いる。数字用のコマ(7ミリ四方)は、点字の1・2・4・5点のみで表現するマルチン式と全く同じだ。その他に3種のコマが用意されているのがマルチンと異なる。
 符号用は、コマの6つの面に、+−×÷=・を凸線で表してある。小かっこ・中かっこ・大かっこ用も、墨字のそれを凸状に表したもの。代数用として、円の中に点字「あ・い・る・ふ・む・ま」を示したタイプがある。

 山崎さんは、製品化の困難さを「今の所全部ゴムであるが、こまだけは合成樹脂とか、硬質ビニール等が最適と思われるが、此の型代に容易ならぬ資金を要し・・・」と吐露している。後に、日赤がこれを採用して製造・配布したのだろうか。

 カチンカチンに経年劣化した「これ」を某所で見たことがあり、長年、何?誰?と、疑問に思っていた。今日、青鳥会のおかげでおおむね氷解した。

 

 日本鍼灸学会『自律神経雑誌』(1949年)に載った論文。いしかわ・ひでつるまるさんは、京都大学医学部の先生で、京都府立盲学校や鳥居篤治郎とも縁が深かった。

 「鍼灸術について(四)」の末尾に(終り)とあり、そのうしろに(J)による短いコラム<「やいと」と「はり」のうた>が続いている。

 晩年重い眼病のために永い療養生活をくぐることになった白秋は、しばしば盲人の心を歌に詠んだ。治療のために灸も据えたし、鍼もしてもらったという。

 歌集『牡丹の木』に「鍼灸甲乙」と題する一連の歌が編まれている。そのうちの1首に、はてな。

 雲のむた天の真名井に我が降りて冷えたる脚を妹もみほぐす(灸) 

 ・・・ これは灸ではなく按摩かマッサージではないか?

 大分県鍼灸按師会連合会のチラシでは、「あんま・はり・きゅうの歌」とし、この歌には(あんま)と付されている。(J)のミスだろうか。原本『牡丹の木』を確かめてみなくては。そのうえで、連作のうちの鍼や灸に関する歌もご紹介しよう。

 なお、白秋は福岡県柳河盲学校(現・福岡県立柳河特別支援学校)に自筆の校歌(歌詞)を贈った人でもある。

 

 【写真は、ホシハジロ】