京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

視覚障害教育の歴史を研究しています。京都盲唖院、古河太四郎、遠山憲美、鳥居嘉三郎、石川倉次、好本督、鳥居篤治郎、小野兼次郎、斎藤百合、エロシェンコ、楽善会、雨宮中平、点字

 左右に四人ずつ、和服の生徒が正座している。左は男生、右は女生。点字らしき書物に指先を当てている。中央には、羽織姿の、おそらく森巻耳院長であろう。背景は襖。
 女子生徒のなかに、野口小つる(後の斎藤百合)がいるのかどうかは定かでない。
 この1枚は、岐阜盲学校にも残っていないと伺った。吟味に区切りがつけば同校に寄贈したい。

 

 「點字讀賣新聞」は、日刊東洋點字新聞の継承紙として1942年8月15日に創刊され、1946年3月5日の第6791号をもって廃刊となりました。点字8ページだてで、日々、読者のもとに郵送された世界唯一の日刊点字新聞でした。(点字毎日は週刊)廃刊は読売新聞社が空襲に見舞われたさいに、点字の活字などが壊滅的な被害をうけたことに起因するそうです。

 このほど、同紙の墨字翻訳版を入手しました。初めてその存在を知りました。点字読者以外に墨字版を購読した人があったのか、宣伝を兼ねて視覚障害教育などの関係者に参考として配布したのか、点字版を作成する過程で作業用の資料として作成されたのか、読売新聞社とは別の機関か個人が作成したのか、、、今のところ全く定かでありません。読売新聞社の社史関係などにあたってみようと考えています。


 

 現在は10月10日が眼の愛護デーになっています。

 1938年から敗戦後までは、9月18日が眼の記念日でした。写真は、その頃のポスター。中央盲人福祉協会・日本眼科医師会・日本トラホーム予防協会の連名で作成されています。

 2020年に復刻出版された「中央盲人福祉協会機関誌」(金沢文圃閣)では、1947年よりあとの、10月10日全国視力保存デーのポスターが裏表紙に配されました。

 

 点字本の『新訂中学修身教科書巻四ノ上』をわけていただいた。最後のページに驚いた。本の天地(上下)を逆にし、点字(凹面)の行と行の間に「1.細胞 cell 生物体の体はcellよりなる事は現在明らかなる事実である。」と始まるペン字が1ページびっしりと書き込まれている。インターラインの点字だが、ここは片面書きに近いページなので、やりやすかったと思われる。

 紙不足の頃、もとの持ち主とは別の晴眼者か相当よく見えた弱視者かが、点字本をノートの代わりに使ったのだろうか。

 その次のページは両面書きビッシリの点字なのでペンで書き込みづらかったのか、途中であきらめたふしがある。

 旧家の蔵から出てきた点字本らしいが、物語に満ちている。

 松江・ダルマ堂書店の桑原弘さんがNHK<朝のロータリー>に加筆してお出しになった本。わずか8ページだが、濃い味わいであった。桑原羊次郎、福田与志、松江盲唖学校などをめぐる本をお世話になるようになって久しい。

 標題誌の巻頭言で、筑波大学附属視覚特別支援学校長・星祐子様が私の近刊2冊を取り上げてくださいました。

 ご了解を得ることができましたので、全文をご紹介します。拙稿が視覚障害教育の歴史を次代につなぐ一助となれば幸いです。(写真はその表紙。URLは発行元による説明)

  巻頭言 視覚障害教育の歴史に学び、明日の活力に

                    筑波大学附属視覚特別支援学校長 星 祐子

 視覚障害教育の歴史は、社会の中で「人間の尊厳」を求め、実現しようと果敢に挑んでいく、その情熱と確かな見通しをもった歴史である、と実感した岸博実氏の2冊の著書『視覚障害教育の源流をたどる 京都盲啞院モノがたり』『盲教育史の手ざわり 「人間の尊厳」を求めて』を紹介いたします。

 著者は、京都府立盲学校をはじめ、全国各地を訪ね歩き、埋もれていた多くの盲関係史料の発掘と収集に基づく地道で精力的な研究によって、新たな事実や知られていなかった史料・文章を掘り起こされました。京都盲啞院創立当時、職業教育として、盲人に伝統的な鍼按摩の他に、金網織、籐細工、そして記憶力を活用することによる法律家も例示していたという事実も示されています。また、著者が新たに発掘した訓盲啞院を楽善会から官立化となることが記された雨宮中平史料、終戦間際の京都府立盲学校の校長代行の方の日誌に綴られていた「盲学へも機関銃弾3発余り落下した」との記載に見られる戦争被害や戦時中のことなど、埋もれていた歴史のページを紐解くように史実が示されています。

いずれの時代にあっても、熱意と信念を持ち、果敢に挑んでいった先人達の弛まぬ挑戦とそれを支え、ともに生きていた人々の営みがあったこと、そのことを圧倒的な史料・文献に基づいて明らかにし、歴史に埋没していた人物・史実に新たな光を当てています。

現在、特別支援学校(視覚障害)を巡っては、在籍幼妃児童生徒の減少、重複障害のある子どもたちの割合の増加等の中で、一人ひとりの豊かな学びをいかに保障していくのか、という課題に直面しています。職業教育の在り方も問われています。また、通常の学級、特別支援学級等で学んでいる視覚に障害のある子どもたちも数多く存在しています。こうした中で、子どもたちが学びの実感や充実感が得られる教育をどのように創り出していくのかといった視点、地域社会の中で子どもたちを守り、育んでいく視点は大切にすべきことです。

『盲教育史の手ざわり 「人間の尊厳」を求めて』の中に「長崎の多比良義雄校長の思い」の章があります。後に、長崎に投下された原子爆弾の犠牲となった多比良校長が、「盲聾唖義務教育制度実施に就て」と題して地元の新聞に投稿(1937年1月5日付)した文面が掲載されています。その文面は、盲・ろう児の就学率が「僅かに百分の三十に過ぎない」と嘆き、「日本が盲聾児九千人の義務教育に伴なふ国費の負担に堪えないのでありませうか!」と問うています。あの時代にあって、校長という立場で、教育へのひたむきな思いを訴える提言を、養護学校義務制を経て、現代に生きる私たちはどのように受け止めていくのかが問われているように思えます。

先人達の強い信念と意志に基づく取組、教育に携わる者の責任と使命が伝わる著書を手に取り、紐解くことで、明日への活力としていきたいと思います。

 

https://www.kyoikushinsha.co.jp/book/5049/index.html

 

 パリ訓盲院を興したワランタン・アウイを斎藤百合が描いた。その小説『荒野(あれの)の花』の日本語点字版(岸・翻刻)が-航空便で2度不首尾だったけれど、3度めにあたる船便で、-今朝、アウイ博物館に届いたとの知らせ! ほっとした。

 百合の花が美しいとのメール。ミレイユさん、ありがとう!

 「足利 天国の近代化遺産 黎明の篤き志と気概」イラスト展が開かれます。

 私立足利盲学校竣工時の校舎、県立盲学校時代の校舎、澤田治療院・住宅も鮮やかな色合いで再現されています。(羽山弘一氏の作品集を送っていただきました。感謝!)

 なお、足利盲学校の創立者で、点字投票実現運動に尽力し、テーブルテニス(盲人卓球)を考案し、戦後の進駐軍による鍼灸禁止の動きを押し返した先達、澤田政好先生顕彰碑の建立計画も起こっています。微力ながら支援します。