京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

京都盲唖院・盲学校・視覚障害・点字の歴史

視覚障害教育の歴史を研究しています。京都盲唖院、古河太四郎、遠山憲美、鳥居嘉三郎、石川倉次、好本督、鳥居篤治郎、小野兼次郎、斎藤百合、エロシェンコ、楽善会、雨宮中平、点字

 その見本は持っていたが、アルファベットとの対応の具体例を知らずにいた。

 The National Institute of Blind(英国王立盲人協会)発行の『A WORLD WITHOUT BOOKS』に、ムーンタイプと墨字のアルファベットを対応させて印刷した例文(7行)が載っていた。【写真】

 1行目は THESE CHARACTERS AREとなっている。ムーンタイプ特有の行替えなので、1行目は左から右へと書かれていて、そのように読んでいくのだが、2行目(偶数行)は右から左へと綴られている。

 その行たどりを補助するために、奇数行と偶数行の右端に<次の行に移る>意味の大きなカッコ状 ) の凸線が施されている。複数行から奇数行に移るところには ( の凸線が加えられている。

 偶数行は、右から左へと読む(例えば 左から読めばNIとなる語を、右からINと読まねばならない)ということになる。

 明治10年代、日本にもこの方式でカタカナの文章を凸字化した本が刊行されたこともある。イギリスでは、今もムーンタイプの本が出ていると聞く。

 

  盲唖教育について

 たまの緒の命もちつつこれの世にもの言へぬ子に本を教ふる

 松風の音を聞きつつ山寺に盲(めしい)の子らにもの教へ居り

  丹後大震災のさなかに

 たまゆらはこの世のをはりと思ひけり唖や盲の手を引き逃げる

 唖盲等わが教へ子を探さんと行く焼の原雨けぶるなり

  関東大震災のとき、友人の無事を祈って

 親もかも命も忘れ火の中に友をすくふととび入りにけり

  (彼は当時、東京盲学校師範部で学んでいた。写真は、宮津盲唖学校の所在した本妙寺)

真下飛泉が「盲啞教育」の発展を願う短文を書いていたことはあまり知られていません。 ↓

  京都府教育会創立二十五年記念号(京都府教育会雑誌号外)明治三十八年八月十五日

  京都府の特種教育         真下飛泉 (抄出)

京都市立盲啞院は京都市上京区釜座椹木町下る処に在り。明治十一

年五月廿四日を以て創立せらる。是れ日本に於て未だ嘗て無か

しもの、日本最初盲啞院の名誉を荷へる所以也。(中略)

終りに臨みて聊か本院の希望なるものを紹介せん、第一は盲啞

の教授を分離して訓盲学校。聾啞学校の二校とすること也。夫れ

視覚を欠損して聴覚等によるものと、聴覚を失ふて視覚に憑る

者とは絶対的反対の地位に在るものにして、こを同一学校に收

容し教授するは、少しも其理由なきのみならず、硏究の方面に於

ても設備の方面に於ても全然其方途を異にせざるべからず。之

を同一校に在らしむるが如きは実に非理の極といふべし、一日

も早く分離せしめざるべからず。第二は盲啞両校に各幼稚園を

設くる事也。普通の児童は家庭に於て多少の教育を受け得ると

雖も、盲啞は独り学校教育を受くるの外狭義的に云へば他に教

育せらるゝことなし、故に学齢に達せざる以前に在りて、盲啞に

家庭的教育と予備的教育とを施す所の幼稚園を設くることは教

育の結果に大なる関係を及ぼすものなり。其他給費生を置きて

学資乏しき盲啞生を就学せしむること也、更に高等の学科を増

設することや、聾唖卒業生保護会を設くる事等これ也。

以上述べたるが如く、我府に於ては既に不良少年の感化的教育

も其緖につき、盲啞の教育に至つては率先して他の範となりつ

つあるの有様なれば、此外白痴教育を施す所等欠如せりと雖も

決して他府県に劣る所なしと信じて疑はざるなり。

。

 福岡日日新聞のものらしき記事が紹介されている。「盲人の想像と現実 顔の美醜」と題して、福岡の女性が開眼手術に成功して、曰く「眼があいて、一番驚きましたのは人間の顔です。私は人間の顔はモ少し美しいものかと思つて居ましたトサ」などと。

 これについて、「其話は昨年十月発行の『生活』雑誌に出て居ました」「福岡の新聞記者は之を焼き直して出したのらしい」と指摘し、「斯かる事実住所氏名などを変造するのは実に不埒である」と断罪している。

 今も変わらぬ、いやますます大事になっているメディアリテラシーの話。

 青木政徳は、小樽の築港に尽した技師。京都生まれ、北垣国道・田辺朔郎のもとで琵琶湖疎水工事に従事し、後、北垣・田辺に連れられるようにして北海道に渡る。小樽の防波堤工事に際し、自ら潜水服を被り、深く海中に入り工を督したという。数え年38歳で夭折。彼の姉・幸(子)は、古河太四郎の配偶者。私にとっては、今回が2回目の訪問であった。

 1916年10月1日(日)午后七時~ 京都三条・青年会館

 杉江泰一郎(すぎえ たいいちろう)は、京都市立盲唖院卒。日本の盲人では初のバイオリニストとなり、大阪市立盲学校に洋楽科が開設されたとき、その初代教員として迎えられ活躍した。裏面には第一部・第二部の内容。杉江音楽学館の角印は初見。

2026年8月7日・23時58分から放送されるTBS系列の「ニュース23」に出演します。今年も、「戦時下の障害者」をめぐる取材依頼を複数いただいたのですが、そのうちの一つです。 → 防空監視、そのための施設や人的動員の実態に新しい資料も駆使して迫る内容になりそうです。 → 私も「盲人防空監視哨員」について資料を提供し、短いコメントを寄せました。 → 実際には0時を過ぎてからの扱いになるようです。夜も遅いですから、録画や見逃し配信を利用なさるのがよいかとも思います。(写真は、水木しげる記念館で許可を得て撮影した義手・戦争による犠牲を物語る。】→ 同番組の予告https://www.tbs.co.jp/tv/20260807_B741.html

♪

 大阪朝日 昭和10年8月15日 (漢字は現行のものに変更)

  心眼で名園〝観賞〟 盲人四人が揃つて 神戸から金沢兼六園へ

天下の名園の名を慕ひ遠くは九州辺りからまで兼六公園に杖をひく人はひきも切らず終日観賞逍遥する人で賑はつてゐるが十四日朝は四人の盲人がわざわざ神戸から名園を観賞すべく訪れて来た、この人達は神戸林田区二葉町神戸鍼按学校教諭岡崎與三吉さん、亀屋庫五助さんたちで夏季休暇を利用して各名所旧跡を訪ね十四日朝山代温泉から来沢したものである

 兼六公園はどんな工合ですかと逆に質問して見ると山崎山の芭蕉の日を撫しながら憮然として「心理的に申しますなら一木一草の香にも名園の古雅な味にうたれます、一石の配置、配水の妙味も枯淡なゆかしさをしみじみ感じます」

と語つて「今日はこれから市内の盲唖学校を訪ね夜行でまた山代に帰ります」(金沢)

Valentin Hauy Founder Institute For The Young Blind Bi-Centennial Medal これは、1984年に「パリ訓盲院創立200周年」記念として制作された公式メダルかと思われるが。。。表面にアユイ像、裏面に点字(HAÜY)と手指のレリーフ。ただ、ネット上にはこれとは少しデザインの異なるものばかりが掲出されている(このメダルのアユイ像はやや左寄りに配されているが、ネット上で見ることのできる分でのアユイ像は中央に位置している↓)。もしかしたら、別の時期のもの?https://www.bing.com/images/search...

「日本における点字普及の歴史と点字文化」社会福祉法人日本視覚障害者団体連合・発行(非売品ですが、読書工房さんが普及に協力してくださいます。ご希望のかたは、読書工房サイト内に示されているURLからどうぞ。)表紙写真<点字を両手指で触読している様子> 私も執筆に加えていただき、「盲教育の発展と点字の普及」の章を担当しました。→ 『日本における点字普及の歴史と点字文化』(非売品)を読書工房のウェブサイト限定で特別販売! - 読書工房 【写真は、2013年にルイ・ブライユの眠るお墓に訪れたときのスナップ】