密教僧のブログ -3ページ目

密教僧のブログ

幸せになる人間と不幸になる人間は何が違うのか。目に見えない世界の法則を密教僧が解き明かします。


世の中には、霊体験をしている方も多くいらっしゃると思いますが、霊が出るとき、不思議なことに、亡くなった方はどの方も、○○院○○居士だ、と戒名を名乗る事はないのであります。


他の方は分かりませんが、私は一度も、そのような霊に遭遇した事はありません。生前の名を名のっている霊しか知りません。


霊は、絶対に生前の名を覚えているのです。


戒名とは、あの世へ行った故人と私たちの間に生まれた一つの知恵であります。戒名は、霊にとってみれば、さほど重要なものではないのかも知れません。


一番重要な事は、残された遺族の供養なのです。


毎日、故人を偲びながら捧げるお線香一本と、一ぱいの水は立派な戒名より強い、ということを覚えておいてください。



言葉が現実を創造しますから、言葉は注意深く選ぶべきであります。

私たちが意識する以上に、普段の話言葉は影響が強いのです。

 

「最悪」
「バカ野郎」
「うざい」
「きもい」
「終わっている」
「負け組み」
「意味ねえ」
「死ね」

 

 

このような言葉を使う人は、ある事実に気づいていません。関わる人に呪いのエネルギーを送り出しているという事実です。当人が知らないうちに強い不幸エネルギーを周りに発散しているのです。

 

 

このような言葉を使う人とは絶対に関わらないことです。また、うかつに言うことを信じない事です。信用できるような人間ではないのです。

 


本当に成功している人、幸福な人、そして意識のレベルが高い人は絶対に使わない言葉です。

 

言葉遣いを見れば、その人の人間性は一目瞭然なのです。

 

 

人間の堕落した言葉遣いに「ヤバい」があります。
自分が気に入っている状態を表現していると勘違いしておりますが、ヤバいは本来の意味が完全に歪められてしまった最たる例であります。

 


何かを素敵に思う感情。それはヤバくはないはずです。

 

歪んだ言葉の使い方は、それを話す人の思考のプロセスが歪んでしまっていることを証明しているようなものです。

 

 

言葉の使い方を見れば、人間性や頭の程度までも見抜けてしまうのであります。

 

 

これからさらに、いろいろな格差広がります。自分がどの位置にいたいかで、自ずと関わるべき人間が見えてくると思います。

 

 

人が、かもし出している雰囲気、言葉遣いと意識のレベルは連動しているのです。さらに、幸福、裕福といったものもすべて連動しています。

 

 

心の現れが、言葉となり、雰囲気、オーラとなるのです。

 

そして、それらが自分に引き寄せるものを決定しているのです。

 

汚い心は、汚い言葉を吐き、汚れた雰囲気、オーラを出し、同質の人、物を引き寄せるのであります。

 

幸も不幸も自らが引き寄せた結果であります。

 

 

 

過去帳というのは、別にそこに魂が入っているわけではありません。それは、どの仏様が、ご命日だったか知るためだけであり、その他の意味は何もありません。


知るためだけのものですから、別に過去帳に書かなくても、小さな手帳に書き込んだり、自分だけのリスト帳をつくって、そこに書いておいても全くかまわないのです。


また、一つの位牌の中に、一人ずつの仏様の名前だけでなく自分が供養してあげたいと思われる仏様を何人でも書けるだけ書いてしまうのも一つの方法です。 命日さえわかればよいのです。


なぜ、命日がわかればよいのかといいますと、それはそのご命日の方を、その日特に細やかに供養してさしあげればよいからです。その方も喜んでくれるのです。


生前好きだったものを、ご命日に置いてあげるだけで、そのご命日の仏様は、とても喜んでくれるのであります。


少しでも、霊的な感覚のある方であれば、嬉しい気持ちが伝わってくるでしょう。


余談でありますが、人間同士も、嬉しさ、幸せいっぱいの人と対面すると、こちらもそれが伝わり元気になったり、嬉しくなることがあるでしょう。それと同様に霊は姿形は見えなくても、同じエネルギーを発しているのであります。


反対に、不成仏霊のエネルギーを受ければ、こちらも気分が沈んだり、絶望感が出たりします。


人間同士でも、不幸な人や悪口を言う人と対面すれば、疲れたり気分が沈む、絶望感が出たりするのであります。 


人も霊も常に目に見えないエネルギーの影響を受けあっているのであります。



 

 

毎日、私たちは様々な魂のメッセージを受け取っております。

 

 


大事な場面で選択を迫られる時、直感、あるいは第六感的にふと浮かぶメッセージがそれです。

自分の気持ち、つまり魂の声と反することを行おうとしている時もそれをストップさせるようなメッセージ、あるいは何らかのアクシデントという形で現れるのです。


そんなサインに気づかず、魂の声に反する行動を続けていると、今度は自分の身体に異変が現れます。病気になったり、怪我をしたりと、何らかの異変が起きた時には、メッセージが送られてきているのだと見つめ直すことが必要なのです。

 

たとえば、結婚などで周りから祝福より阻止する声が圧倒的に多かったり、自分自身でも何かすっきりしない不安がある。

 

 

他には、人間関係で、この人と関わっていると悪い方へいってしまうと心のメッセージを感じながらも、無視して関わってしまう。

 

 

仕事上の取引で、相手が怪しいと直感的に感じても関わってしまうなど、魂の声を無視してしまうと、必ず悪い方へ行ってしまうのであります。

 

 

自分の魂の声を無視しないことです。

 

 

魂の声は、守護している仏様の声であることもあるのです。

 

 

 

 

 


不幸にして自分の家に仏様ができてしまったとき、「なぜ、なぜ死んだの」という言葉は、禁句であります。

そのような言葉を吐いてしまうと、霊は引っ張られてしまい成仏できなくなります。早くいい所へ行くように願って下さい。

この世を断ち切らせることが供養なのです。





人生には、人を愛し、旅をし、美しい音楽を聴いたり楽しいことがたくさんあります。享楽を意味しているのではなく、心を豊かにしてくれる楽しみであります。


明日になればその楽しみが味わえなくなるかも知れないのです。


ですから今日なのです。今日のうちに生きているという実感を十分に味わい尽くしておかなければならないと思うのです。必ず死を迎えるのですから。


そう思えば自ずと今この瞬間をどう生きるべきかの答えが出てきます。


まず、自分を大切にすること。

生きることを十分に味わうこと。

これは生きた仏教(密教)の教えでもあるのです。




離婚したくても辛い思いをしながら我慢している人や、合わない仕事をして追い込まれている人。

また、自分を粗末にする若者も増えております。

薬に手を出したり、体を粗末にする女性。

自分の存在価値を実感できなくなっている人が実に増えております。


最期の時、「ああ 楽しかった。生まれて来て良かった」と思えるような人生を送らなければ、生まれてきた意味がありません。


人は本来、幸せになるために生まれてくるのです。


離婚して幸せになれるのならば躊躇する必要はないですし、自分に合わない仕事に就いて毎日、追い込まれ生きるのが嫌になるのならば、転職を考えるのもよいでしょう。



生きていることが楽しく思えるような生活をするべきです。



後悔のない人生を送って頂きたいものです。




私たちがこの世に生まれてきたというのは、霊界の長くて苦しい世界を通リ過ぎてやっと生まれてきたのであり、生まれてきたこと自体、非常に希有なことなのであります。


また、自分の意志によって生命を得たのではなく、「生まされた」ということも考えてみる必要があります。


「人の生を受くるは難し、やがて死すべき者の、いま生命あるは有難し」 法句経にある言葉です。


この言葉の中に、やっとこの世に生命を授けられたのだという歓びで満ちております。


生命を得ることは、とても難しく大変なことなのだということです。


そして人間は「やがて死すべき者」であります。


仏教の考えからいえば、輪廻によって人間は必ずしも、また人間に生まれ代わることができるとは限らないのです。人間以外の生物に生まれたり、この世ではない別の世界に生まれるかも知れません。


だからこそ、この世に今生きていることが有難く、どれほど感謝しても感謝しきれないのだということをまず自覚する必要があるわけです。


自分が不幸だと思っている人、幸せになりたいと常々思っている人は、その時点で考え方が間違えているのです。


私たちが何気なく「ありがとう」といっている言葉そのものが実は仏教的にも深い意味をもっているということがおわかりでしょう。


今この世に在ることの幸せは自分一人の力によって得られたものではなく、先祖の力をはじめとする自分以外のすべての力のお陰だという思いに至ると自ずと祖先に対して合掌したくなると思います。



同じ血縁であれば、だれでも生家の墓地に入ることができますが、血縁のない人を自分のお墓に入れてはいけません。親子以上に深い情を交わし合った仲であっても、また生前どれほど仲のよかった親友であっても血縁のない人を自分のお墓に入れるのはタブーです。そこにはきっぱりと一線を画すべきであります。


たとえ、遺言でそうして欲しいと、故人が希望してもやってはいけないことです。血縁であれば、親類縁者の人たちが同じお墓に入るのはかまいません。


血縁のない人が、どうしてもいっしょの場所にいたいのであれば、そのお墓のそばにもう一つ別の墓石を建ててあげるとよいでしょう。


結婚をして家から出た場合は婚家の墓に入るべきでありますが、夫婦仲が悪くて互いに嫌い合っていた同士ならば、別々にしてあげるとよいでしょう。


嫁いだのだから、婚家の墓に入らなければならないというルールは霊にとってありがたくはありません。

夫と同じ墓に入りたくないという人は、それなりの因縁を引きずってきた人なのであります。


前妻、後妻などもった場合、一つの墓に前妻、後妻を並列させるのはタブーです。

同じ墓に埋葬することはかまわないのですが、夫と最初の夫人の骨壺を並べ、後妻は前の方に置きます。その場合は骨壷が分かるようにしておくほうがよいでしょう。

また、後妻が同じ墓に埋葬されることを嫌う場合は墓を別にすることです。

離婚した場合は、実家に戻って入ってもいいですし、自分一人の墓を生前のうちに買っておくのもいいでしょう。


たとえば電車での自殺など、身体の本体がどこにあるか全く分からないほどの亡くなり方をしている人が身内にいると、家族がばらばらになり、行方が分からなくなったり、または、ノイローゼになったり、きちんとした家があるのに、家族がまったく家に寄り付かない、家に居たくないという、ふらついた気持ちが出たりすることがあります。


そのような場合、霊は生前の骨があちこちなくなっているために、とても苦しみがあり、上記のような障りを起こして訴えることがあります。


思い当たることがあり、もし家族に帰ってきて欲しいのであれば観音経を和紙に写経して、その最後に人体の絵を描きます。


その人体の中央部分に、その亡くなった人の名前を書いて墓地のなかに埋めてあげてください。 そうすることで家族は帰ってきます。


身体がバラバラになるような死に方をしている霊に対しては、観音経を写経して墓地に埋めて霊を慰めてあげるが一番いい方法なのであります。



世の中は一定でなく、常に変化しております。所謂、諸行無常であります。そんな、常に変化する世界で、パートナーや仕事などにおいて、できれば永遠に続いてくれないだろか。と願うような出会いがあります。


しかし、自分の考え方や行動でさえも常に変化します。

まして、社会情勢や経済情勢、そして国際情勢も常に変化します。

そうした常に変化する世界で、我々人間は、魂を磨くために生まれてきたのであります。


使命がまだ途中である限り、生かされ、そこに気づくために様々な試練を体験させられます。

体験する、という試練は、この世での苦しみ、悩み続けて生きるためではありません。自分が生まれて来た目的や使命にできるだけ早く気づくため、そして気づいた上で幸せになるために与えられる出来事なのです。





別れの体験で学べることを書いておきます。



失恋・・・愛(無償の愛)を学ぶための体験。


離婚・・・無償の愛と情の違いを学ぶ体験。  


死別・・・自分の足でしっかりと、この現実世界を生きること、そして三次元世界で生きることを学ぶ体験。


失業・・・今生での使命を思い出すことを学ぶ体験。



こうした別れが自分の目の前に出現した時は、失望や絶望の中に落ち込むのではなく、自分が幸せになるために、生まれてくる前に設定した目的や使命に気づかせてくれるチャンスが訪れたと考えることであります。事実、そのサインであります。


そのことに気づいた時、自分にとって最悪な別れこそ、自分にとって最大のチャンスの訪れなのだという事実に気がつくのであります。