本記事は今月に行った展覧会などをまとめたものである。
2026年4月に行った展覧会
下村観山展@東京国立近代美術館 4/12日 図録購入
・概要
公式サイトによると、今度の回顧展は「関東では13年ぶり」とのことだが、2013年当時、高校生だった私は横浜美術館で開催された回顧展をみており、それ以来ということだろう。恐らくそれがきっかけで観山を好きになったと思う。同展図録はその時に買ったわけではなく、大学生になって神保町の悠久堂書店ヵで買ったまま積読になっていたのだが、今度の展覧会の予習として前日に読んで当日、展覧会場に足を運んだ。一通り観山の画業は頭に入った状態だったので多少はクリティカルにみることができ、愉しいひと時であった。今回は図録をその場で購入した。
展覧会は二部構成で、第一部は初期から晩年までを四つの章立てとし、普通の回顧展をかたちをとり、第二部では、三つの章からなっており、それぞれの視点から作品を眺めるものとなっていた。観山は既に大家として有名で展覧会も多く開催されているので、後半に別の視点を取り入れたというところであろう。以下に雑駁かつ不正確な所感を述べる。小見出しは私が勝手につけたもので、展覧会に沿ったものではない。「作品名」の後には、(出品番号・年代・所蔵先)を記した。
・初期
冒頭は狩野派の粉本の模写から始まる。10歳か11歳そこらの時のものだが、この時から才能の片鱗をみせている。
画壇に出た頃の作品である「仏誕」(1.127・明治29・1896・東京芸大)にみる細かな紋様、「闍維」(1.1.29・明治31・1898・横浜美術館)の執金剛神を基にしたと思しい神将形の人物、「元禄美人図」(一双)(1.1.30・1.1.31・明治32年・1899・石水美術館・個人蔵)の着物や蒔絵の描写をみると、古典的な題材を研究しそれをまとめあげるという観山らしい制作過程が既にうかがえる。この手法は北澤映月の「祇園会」(昭和11・1936・京都国立近代美術館)などでも感じたことであるし、仏教的主題、江戸時代の風俗などの研究は、西欧に対してのアイデンティティを求める近代という時代における流行りのようなものでもあったのだろう(ただし、鑑賞後「祇園会」の制作年を確認したところ昭和11年・1936の制作だったので、ここで引き合いに出すのは不当だったかもしれない)。
そのようななかにあって、「闍維」には観山独自の工夫を見出せるように思う。恐らく涅槃図や「釈迦金棺出現図」などを基に構想したのであろうが、「闍維」では視点を低く設定し、鑑賞者がまるでその場に居合わせたかのような臨場感を与えることに成功しているといえよう。なお、「元禄美人図」は体を捻った体勢や膝の造形などにやや生硬さが見受けられ、若描きだなという印象を持った。
・留学の成果~画風の確立・大成
朦朧体の時代、英国留学を経て、観山の画業は円熟へと向かう。琳派を基礎としつつも、西欧の陰影表現を取り入れることで自らの作風を確立したのが、「木の間の秋」(1.3.01・明治40・1907・東京国立近代美術館)であろう。うなだれる下草や中空を渡る蔦、下草の向こうにわずかにのぞく百合は抱一筆「夏秋草図屏風」からの引用を指摘できるし、ひょっとすると直立の木々が林立する風景に其一筆「夏秋渓流図屏風」を想起するのは牽強付会でないかもしれない。下草の向こうに描かれた百合は、恐らく図版ではなかなか気づかないところであり、展示室でこれをみた私は、一人ほくそ笑むのであった。自分の好きな作家が、自分の好きな作家の作品を受容しているのは、やはり嬉しいものである。
個人的な思い入れはともかく、本作の最大の魅力は金地が透けるように薄く絵具を塗ることで樹木を表しているところである。琳派のたらしこみを用いているのであろうが、濃淡によって木々の前後関係、すなわち遠近感を生み出し、さらに金地が透けることで空から降り注ぐ光までをも表現しているのである。この表現は「小倉山」(1.3.06・明治42・1909・横浜美術館)でも用いられており、特に右隻第1扇のそれがとてもよかった(「老松」(2.1.12・大正5・1916・茨城県近代美術館)はその巨木バージョンといったところか)。
この遠近感と光の表現は水墨画の方が端的に看守されよう。「風」(1.3.03・明治41・1908・東京芸大)は遠景に月、近景に林を描く。前近代の水墨画であれば、それぞれのモチーフを取り合わせておしまいかもしれないが、本作では林の手前の地面に林の陰が描かれている。たったこれだけのことであるが、その陰によって月の光がこちらに降り注いでいることが明瞭に意識され、これにより月、林、地面を包含する空間までもが生み出されているのである。
この他、留学の成果なのかは定かではないが、「狐の婚礼」(1.3.05・明治42年・1909・駿府博物館)、「新緑」(1.4.15・大正12年・1923・三渓園)、「納涼」(2.1.03・明治35年・1902・東京芸大)などに、大気やシルエットの表現を見出せるのだが、琳派贔屓の悪い癖で、鈴木其一が既にこういう表現をやっているんだよなあ、なんて思いながら、またほくそ笑んだ。
なお、「唐茄子畑」(1.3.11・明治44・1911・東近美)の右隻の立葵は光琳や乾山を想起せしめるが、左隻の垣根に絡まる植物は喜多川相説や伊年印の屏風を思わせるところがある。あと、「四眠」(2.1.13・大正6年・1917・横浜美術館)の上部に描かれた泰山木に鳥という取り合わせは、其一筆「朴に尾長鳥図」(細見美術館)を思わせる(自分、どんだけ其一が好きなんだ…)。
他にも「大原御幸」(2.2.06・明治41・1908・東近美)「弱法師」(1.4.04・大正4年・1915・東博)などがよかったのはいうまでもない。「弱法師」の画中のモチーフが少ないのは能の抽象的な表現を援用した面もあるように思っていたが、今回画業を通覧してみたとき、「木の間の秋」「小倉山」などのように多くの木々を描きこんだ時期から、「唐茄子畑」、「春雨」(東京会場不出陳)のようにモチーフが限定されていった先に辿り着いたのが「弱法師」だったのかもしれないと思った。
・絶筆
展示の最後は、差し入れを描いたという絶筆の「竹の子」(1.4.27・昭和5年・1930・個人蔵)がかかっていた。これは細長い展示室の最奥にかかっており、なかなかいいところに陳列したなと思った。絶筆というのは、身体の衰えにより大きな作品を手がけるのは難しく、静物画になることが多いのだろう。須田国太郎の絶筆も「めろんと西瓜」(昭和36年・1961・京都市美術館)という静物画だったのを思い出した。きっと、あれも差し入れのメロンを病床で描いたのではなかったか。
・その他
「毘沙門天 弁財天」(一双)(2.1.05・明治44年・1911・徳島県立近代美術館)は岩崎家から松方正義夫妻への金婚祝いで制作されたもの。前期展示で出ていたのは下図の方で、姿形は本画とほとんど変わらないが、これによると毘沙門天は、元は十二神将の一人「アニラ大将」として描かれていたようである。両手で矢を持つその姿は、新薬師寺の塑像を思わせるし、図録解説でも触れられている。ただ、私は展示室でみたとき、むしろ岩崎家からの連想で、静嘉堂文庫美術館の浄瑠璃寺旧蔵の像を想起した。両手で矢を執るのは亥神像に近い。本作を描いた時点で既に浄瑠璃寺旧蔵像は岩崎家が所有していたようである。まあ、深追いするつもりはないが、新薬師寺像と浄瑠璃寺旧蔵像と、本屏風とを見比べるのも一興かもしれない。
最も印象に残ったのは、「俊徳丸」(2.2.14・大正11・1922・日本美術院)である。これは展示室の隅の辺りにかけられており、そこを右に曲がる順路となっていたが(この順路を真っ直ぐ行くと前述の絶筆「竹の子」がかかっている)、ちょうどこの作品も向かって右に歩く姿を捉えており、意図してのことかは分からないが、なかなかうまいところに展示したなというのが第一印象であった。無背景に弱法師が杖を持って俯き加減で歩く姿を、色彩はわずかに、ほとんどを墨線で描く。一周目では気づかなかったが、二周目で右肩から右袖の辺りの衣の輪郭は濃墨の抑揚に満ちた線を、それ以外の衣の線は薄めのやや掠れた線を用いており、恐らく遠近感の表現、あるいはそこまで断言できないとしても表現にメリハリを与えるための工夫と思しく、芸が細かいなあと感じ入った。
さて、この絵は謡曲のどこを表しているのであろうか。金泥による梅の花びらをみると、「花もさながら施行ぞとよ」の場面を思わせるし、実際そのようなキャプションがついていた。ただ、目元には隈が現れ表情は沈んでおり、むしろ「心のほどを人や知る」と登場するところや、「今よりさらに狂はじ」と日想観から醒めた場面にもみえよう。あるいは画面全体に漂う寂寥感からは、橋掛かりへと退場する姿を思いたくなる。ただ、謡曲の結末は父子再会となっていて一応はハッピーエンドなので、表情が暗いのは矛盾するかもしれない。まあ、細かいことをいえばきりがないし、もとより観山が特定の場面を想定しているのかも分からない。私には、はらはらと散る梅の花びらが、エンドロールのようにみえた………、などと考えながら、閉館時刻5時を迎えたのであった。
以上
ちなみに、1水、2木に平沢進+会人 タオの3つのエコー 東京@Spotify O-EAST(会員限定)が開催されたが、現地・配信ともに不参戦であることを記録しておく。
行きたかった、話題になっていた展覧会
生誕151年からの鹿子木孟郎 ―不倒の油画道@泉屋博古館東京 1/17土~ 4/5日
生誕1200年 歌仙 在原業平と伊勢物語@三井記念美術館 2/21土~ 4/5日
