フェイスブックで知り合いが、とても示唆に富む文章を紹介してくれました。ありがとうございます!

http://www.huffingtonpost.jp/rootport/child-adult-parenting_b_4872791.html

http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20131126/1385478210


凛童舎も文中の「子供の主体性を引き出して、自発的に大人の言うことを聞かせる。」と同様のことを目指しています。もちろん、必要な時だけですが。

でも、その方法については、ぼんやりとしか見えていませんでした。

この文章から大ヒントをもらいました!


「子供は考えるのが好き」


確かにそうです。確かに。



実は私は、ドラマ「明日ママがいない」を楽しみにしている。



オブラードに何重にもくるまれて見えにくくなっている世の中の理不尽をえぐりだして、ややグロテスクな手法によってドンと裸で放り出すような手法をとる野島伸司氏が、今度は「親」というものを描くのだと思ったからだ。


理想の「親」とはなにか?を考える良い機会に提供してくれるに違いないと思っていた。


今、私自身が学童保育園を運営して「親」の問題に直面しているからだ。正直、信じられない親にも何人か出会った。(もちろんのことだが、素敵なご両親にもたくさん出会えたのは言うまでもない。)


このドラマが、その表現のほんの一部をとらまえた世の圧力に押されて、内容変更するとのこと。とても残念だ。私はこのドラマで野島伸司氏が世に発信しようとしていたメッセージを最後まで受け取りたかった。



そういえば、第3回、第4回は、なんかやわな感じになってしまっていたような気がするのは気のせいか?もう内容が変えられているのか?


今期、今のところ予想外に「失恋ショコラティエ」の「恋とは?」、「Dr D-MAT」の「命を選ぶとは?」という命題においての方が、哲学的に楽しめている。


ただ、野島伸司氏監修の脚本が、哲学的深さの点でこれらに負けるはずはない。


先週の回では、やや哲学的モードに戻っていた気がする。既定路線に戻してくれたのだろうか。



それにしても・・・・


なんで日本人はこうも世の風潮に流されるのだろう。なぜ、自分自身の目で見て自分の考えを持ち、自分で判断しようとしないのか?これでは風評被害と同じだと思う。



自己裁量権の一部を無意識に放棄して、世間並みの評価に寄り掛かろうとする日本人の習性は、一定のフレームにはめようとする日本の教育が遠因ではないか?


私はこのドラマは、児童養護施設を描きたかったのではないと思う。彼の「世紀末の詩」のようにファンタジーの設定で現実に隠されているものをあぶりだすための舞台装置でしかないのだろう。その証拠に施設のスタッフは、わざわざ現実離れしておどろおどろしい雰囲気に設定されている。


三上博が演ずる施設長が、施設の子どもに「お前たちはペットだ」と言った?あれは世間に対する批判なのでは?「あなたはちゃんと親ですか?ただの飼い主になっていませんか?」と、世間の親への問いかけではないか?



真に子どものためを思うよりは、親が「気が済むようにしている」だけでは?と感じる場面に何度も出会った。


子育てイベントやママイベントでよくある「赤ちゃんハイハイレース」など、私は感心しない。赤ちゃんをペット扱いしているようにさえ見える。


「お前たちはペットだ」という言葉は「所詮、世間は理不尽なのだ。それの是非を問うても無力なものには意味がない。理不尽な中で生きぬいていくしかない。」と、現実の厳しさを伝えたかったともいえる。


ポストというあだ名もそれほど世間に批判されることだろうかと?このドラマで、はっきりとアンチテーゼを表出するのに最も効果的な設定だったのだと思う。


赤ちゃんポストとは、「こうのとりのゆりかご」に、マスコミが面白がって付けた設置者を侮辱する名前であり、世間もそれに同調した。


世間は、そのことでいじめられる施設の子どもがかわいそうだという。確かにそうだが、このドラマのせいで苦しみが増える?そうだろうか?このドラマがあろうとなかろうと、それをどうしてあげることもできない。このことで大勢に影響するほど、もともとの苦しみ自体が小さなものではない。


私は、障碍者の母親を2人知っているが、その2人が奇しくも同じことを言っていた。「いじめや差別、劣等感を感じる場面に、この子は、これから何度も出くわすのだから、慣れていくしかない。」と。理不尽だが現実だと思う。少なくとも、心ある人がどんなに頑張っても、理不尽はゼロにはならないのが現実だ。


家庭が密室化し、傲慢な親がどんどん増殖しているのは確かだろう。これは、その状況を改めて考えてもらうための思考実験だ。


もし子どもが親を選べたらどうなる?

あなたは子どもに選ばれうる親ですか?


親とはどうあるべきなのか?


子をもらってでも親になりたい。

親になったのに親を辞めたい。


いずれも親の「欲望」だ。その間で子供たちは翻弄される。


よく考えてみれば、自分の子どもを「持つ」という選択も子どもが欲しいという親の「欲望」が出発点ではないのか?



かつては、子どもは「授かる」といった。今は多く「作る」「持つ」という。意識が変わったのかもしれない。


子育て・・・というより「親業」とは、つくづく「欲望と愛情」の間にあるものだなと思い至らせてくれたドラマだ。



出発点が欲望だとしても、欲望をゼロにはできないとしても、どれだけ愛情に力点を移せるかが親業の修行なのではないか?


このドラマには様々な親が登場する。欲望だけの里親、子どもの心に寄り添おうとする里親。


「パパ」「ママ」と呼ぶことを強要する里親の元から逃げ出した子どもを迎えに来て「おじちゃん、おばちゃんでいいからね。一緒におうちに帰ろう」といった里親。


我欲を捨てて子どもの心に寄り添ったとき、真の親になれる。そんなメッセージを感じた。



一方、ママの匂いがするからと手放さないシャンプーボトルを、その子が風呂に入っている間に捨ててしまった里親。自分たちがほったらかしにしている一人娘の話し相手にするために子どもをもらおうとする里親も登場する。


一方、子どもは、「本当の親」の記憶に翻弄される。


その中で、芦田真菜を演じる子「ポスト」には、親の記憶が全くない。にもかかわらず、仲間が、真剣に編んだ好きな男の子へのプレゼントのマフラーを馬鹿にされ引きちぎられた理不尽に怒り暴れまわってケロッとしていたり、施設の小さな男の子には、まるで母親のように接したり。登場する子ども達の中で、最もまっすぐ健やかに育っているように描かれている。


「親がなくとも子は育つ」というメッセージ?いや、「親の手出しがない方が子は健やかに育つ」だろうか?


親や大人が余計なことをしなくても、しない方が、子どもは自ら学び、自ら育つというサドベリースクールの理念と共通する思想が根底にあるのかなととらえるのは考えすぎだろうか?


少なくとも、近頃、子どもを思い通りに「デザイン」しようとする親が増えてきている状況に対し、どう対処すればよいのかヒントを得られるのではと感じながら、成り行きを楽しみにしている。




今日の放送は、新たな局面が展開するらしい。




















昨日、去年の3月まで学生ボランティアとして凛童舎を手伝ってくれていた女性が、結婚し、赤ちゃんを産んで、お披露目に来てくれました!


凛童舎のことを覚えていてくれて、こうして遊びに来てくれるのがとてもうれしいです。小さなコミュニティが育っているような気分にさせていただきました。


いや、気分だけでなく、歴史を積み重ねていけば、こうして凛童舎に愛着を持ってくださっている方が増えていって、あたたかなコミュニティに育っていくんじゃないか?


そんな、予感を与えてくれました。


ここに価値を感じてくれている人がいる、そう思えることが続けていく勇気になります。


まだ、2か月の赤ちゃんですが、こちらを見て笑ってくれました。溶けてしまいそうになりました。(笑)


ご主人のお仕事の関係で、少し遠くに引っ越してしまうそうですが、ご実家が凛童舎の近くなので、また遊びに来てくれるそうです。


ありがとうございます。









学生時代、親友あるいは同志と呼べる建築学科の同級生と、何年にもにわたって同じ議題で論争を続けていた。それは「建築家は、デザイナーか?あるいは芸術家か?」という議題だ。私は、「建築家はデザイナー(他者のためにものを作る人)だ」と言い、彼は「建築家は芸術家(自身の情念に従って物を作る人)だ」と言い続けた。



それは授業の間の休み時間や昼食時間、時には、彼の下宿に泊まり込んで徹夜で続いた。その時々に証拠を見つけてきては提示し、「ならこういうケースの場合はお前はどう思うんだ?」といろいろなケースも提示して続いた。この論争をはたでずっと聞いていた同じクラスの電子通信学科(当時、早稲田の理工学部で一番難しい学科だった)の才女が、「建築面白そう」とわざわざ転科試験を受けて2年から建築学科に転科してきたくらいだ。



・・・・・・

ちょっと補足すると、当時、早稲田大学理工学部の教養課程のクラス分けは、語学の選択の種類によってなされていた。つまり「英語クラスの選択×第2外国語の選択」だ。



英語には、英文を読み解いていく「英文講読」とネイティブの教師に英語で英語を習う「EE(イングリッシュ・スルー・イングリッシュ)クラス」があり、多くが受験勉強で慣れた英文講読を選択した。



第2外国語は、独語と仏語が選べたが、多くの学生が「理工系といえば独語でしょ」と思うらしく仏語が少数派だった。



で、私が選んだのは、「仏語×EE」つまり「少数派×少数派」で、「独語×英文講読」には、60人ほどのクラス全員が同じ学科というクラスがいくつもあったにもかかわらず、「仏語×EE」はわがクラス1つだけ。そういうわけで私のクラスには、理工学部の全学科の学生が集まることとなった。つまり全学科の変人があつまったわけだ。(幸いなことに学部でもっともの多様性のあるクラスに所属できたのだ。)



だから、私の論争相手も変人なら、それを聞いていて転科を決めたのも変人だったということ。だから起こりえたエピソードとも言える。



ついでに述べると、このクラスで数学科の変人から「ゲーデルの不完全性定理」を、物理学科の変人から「マックスウェルの不確定性原理」を聞いた。そして「なんだ、要するに世の中に完全な論理体系など存在できないし、突き詰めてもわからないことは残るんだ」ならば、「真実を知ろうとする西洋思想より、真理を悟ろうとする東洋思想の方が正しいやん」と思ってしまった。



「世の中、大体わかったらゴーや。違ってたらよく知った人が指摘してくれるやろ」という私の行動原理はここに端を発している。

・・・・・



さて、話を戻すが、この「建築家はデザイナーか芸術家か」論争に決着などはつかなかった。両者それを望んでもいなかった。ただ、相手がどうしてそう考えるのかに「興味」があり、より深く知りたいとの好奇心を満たすことを楽しんでいただけだった。



ただ、この論争、つまりは批判の応酬のおかげで、私の「建築に対する考え」をゆるぎないものになった。「他者のためにものを作るのだ」との考えは、その後、日本最大の建築設計集団「日建設計」で設計をしていてもぶれなかった。どころか、この会社の人間の多くが「他者のためにものを作る」姿勢にないと感じて嫌気がさした。



もちろん、彼らは言うだろう「ちゃんと他者のために建築をつくっている」と。しかし私の見るところ、彼らの言う他者は、クライアントのことだ。それ以外の他者、たとえば建築の利用者や、それが建つ街の住人などには、クライアントを納得させるための範囲でのみ配慮しているにすぎないと私は感じる。



例えて言うなら、彼らのイメージでは、建築という山は「クライアントの要望」という坂を上りきるとそこには広い平らな頂上があって、どこに「ここが頂上」という旗を立て、何を構築しようがあとは建築士の自由だと思っているようだ。



しかし実際は、「クライアントの要望」という坂の先にも、まだまだ坂は続く。クライアントには見えていないが、まだまだ価値を高められる余地は残っているからだ。



建築士が負うべき職責は、商業的にはクライアントの納得するものを作ることだが、社会的には、社会に価値があるものを作ることだ。「クライアントの要望」の先のザ・ピーク・オブ・ピークスを目指すべきなのだ。



そもそも建築を志す者の多くは、意匠設計者になりたがってのことだ。つまり、自分のデザインした「形」がドーンと世の中にそびえ立つことを夢見ている。しかし、その多くが学生時代に設計課題の評価が振るわなかったりして構造設計や設備設計に転向する。(もちろん初めから志していた人はいる)就職のときには建設現場担当者として就職する者も多い。また、意匠設計者として採用されてからも、営業担当や積算担当に転向することもある。



だから、意匠設計者として生き残ったからには、自分の欲望を表出したい。表出する資格があるはずだと考えがちだ。



しかし、建築は社会的なものだ。気に入らなければ買わなければよいものとも違うし、簡単に廃棄できるものでもない。大好きな街、大好きな眺め、大好きな家の隣、視界のなかに、勝手に出現するものなのだ。まだそこに何十年も居座り、かつ金を食い続ける。ステークホルダーの数ははかりしれない。同時代人ばかりでもない。



そこにどうして自分の欲望を忍び込ませようとできるのだろう?どうして自分の欲を抑えて「人の役に立ちたい」と思えないのだろう。そういえば、世の中、自分の気が済むようにしたいだけの人が増えているような気がする。



小学生に夢を聞いても「無難に生きていければ・・・」的なことをいう子が増えているとも聞く。TVでみた、学校に行けるようになったカンボジアの子どもたちが口々に「警察官になってみんなを守る」とか「医者になってみんなの病気を治しえあげたい」とか「人の役たつ夢」を語るのと大違いだ。かつての日本もあんなだったはずだと思う。



これは、そもそも教育がおかしいからではないか?もっと「人の役に立つ」夢を語る子どもを輩出したい。それが凛童舎を作った理由の一つだ。学生時代の親友のあの批判の応酬が、私をここまで突き動かしているといっても過言ではないのだ。



「批判は宝くじだ」彼のくれた宝くじは大当たりだったと思う。



さて、これを読んで下さったご父兄の中には、「引く」方もいらっしゃるだろう。でも、「こういうやつに子どもを預けたら、良い影響があるのでは?」と考えて下さる方もいると信じる。まずは、会ってお話しできればと思っている。














































批判って宝くじだと思うんですよね。批判するって宝くじをあげるような気持ちです。「当たってなかったらごめんなさい。でも当たってるかもしれないので、その時は上手に使ってね」っていう風に。役に立ちますようって願う気持ちです。



逆に、自分がされる側に立てば、誰からも批判されないと「独善的になってやしないか?」と不安になります。建築設計者だったときも「もっといい手はないか?」といつも求めていましたし、経営者という孤独な立場になった今はなおさらです。宝くじほしいです。もちろん、内容のない中傷にはへこみますが。


でも、もらった宝くじが外れていたから怒るって、わがままですよね?

もちろん、
もし、はずれがわかっている宝くじを渡すならそれは悪意です。でも、渡される側としてはそこからでさえくみ取れるものがあるとも思うようにしています。渡す方は心が汚れますから損ですけどね。


最近の日本って、なんかみんな怒ってますよね。何でもかんでも「○○に決まってる」という風に、よく考えもせずに悪い方に解釈し怒り出す。




まともに議論できないから新しいアイディアも生まれないし、思いついても言い出せない。日本社会の生産性が著しく落ちているような気がします。



ネット上でも「白熱」と「炎上」の区別もつかない。すぐに「お前の母ちゃん出べそ」的発言が出てしまう。「お陰様、お互い様」という日本の美徳はどこに消え去ってしまったんでしょう?誰だって何かに支えられて生きているし、誰だって言い間違えたり言い過ぎたりすることがあります。



冷静に批判しましょうよ。冷静に批判に耳を傾けましょうよ。もちろん感情的になりそうな気持ちはわかります。私もよくあります。でもそこは押さえて。より良い未来創造に向けて美しく生きるために。