学生時代、親友あるいは同志と呼べる建築学科の同級生と、何年にもにわたって同じ議題で論争を続けていた。それは「建築家は、デザイナーか?あるいは芸術家か?」という議題だ。私は、「建築家はデザイナー(他者のためにものを作る人)だ」と言い、彼は「建築家は芸術家(自身の情念に従って物を作る人)だ」と言い続けた。
それは授業の間の休み時間や昼食時間、時には、彼の下宿に泊まり込んで徹夜で続いた。その時々に証拠を見つけてきては提示し、「ならこういうケースの場合はお前はどう思うんだ?」といろいろなケースも提示して続いた。この論争をはたでずっと聞いていた同じクラスの電子通信学科(当時、早稲田の理工学部で一番難しい学科だった)の才女が、「建築面白そう」とわざわざ転科試験を受けて2年から建築学科に転科してきたくらいだ。
・・・・・・
ちょっと補足すると、当時、早稲田大学理工学部の教養課程のクラス分けは、語学の選択の種類によってなされていた。つまり「英語クラスの選択×第2外国語の選択」だ。
英語には、英文を読み解いていく「英文講読」とネイティブの教師に英語で英語を習う「EE(イングリッシュ・スルー・イングリッシュ)クラス」があり、多くが受験勉強で慣れた英文講読を選択した。
第2外国語は、独語と仏語が選べたが、多くの学生が「理工系といえば独語でしょ」と思うらしく仏語が少数派だった。
で、私が選んだのは、「仏語×EE」つまり「少数派×少数派」で、「独語×英文講読」には、60人ほどのクラス全員が同じ学科というクラスがいくつもあったにもかかわらず、「仏語×EE」はわがクラス1つだけ。そういうわけで私のクラスには、理工学部の全学科の学生が集まることとなった。つまり全学科の変人があつまったわけだ。(幸いなことに学部でもっともの多様性のあるクラスに所属できたのだ。)
だから、私の論争相手も変人なら、それを聞いていて転科を決めたのも変人だったということ。だから起こりえたエピソードとも言える。
ついでに述べると、このクラスで数学科の変人から「ゲーデルの不完全性定理」を、物理学科の変人から「マックスウェルの不確定性原理」を聞いた。そして「なんだ、要するに世の中に完全な論理体系など存在できないし、突き詰めてもわからないことは残るんだ」ならば、「真実を知ろうとする西洋思想より、真理を悟ろうとする東洋思想の方が正しいやん」と思ってしまった。
「世の中、大体わかったらゴーや。違ってたらよく知った人が指摘してくれるやろ」という私の行動原理はここに端を発している。
・・・・・
さて、話を戻すが、この「建築家はデザイナーか芸術家か」論争に決着などはつかなかった。両者それを望んでもいなかった。ただ、相手がどうしてそう考えるのかに「興味」があり、より深く知りたいとの好奇心を満たすことを楽しんでいただけだった。
ただ、この論争、つまりは批判の応酬のおかげで、私の「建築に対する考え」をゆるぎないものになった。「他者のためにものを作るのだ」との考えは、その後、日本最大の建築設計集団「日建設計」で設計をしていてもぶれなかった。どころか、この会社の人間の多くが「他者のためにものを作る」姿勢にないと感じて嫌気がさした。
もちろん、彼らは言うだろう「ちゃんと他者のために建築をつくっている」と。しかし私の見るところ、彼らの言う他者は、クライアントのことだ。それ以外の他者、たとえば建築の利用者や、それが建つ街の住人などには、クライアントを納得させるための範囲でのみ配慮しているにすぎないと私は感じる。
例えて言うなら、彼らのイメージでは、建築という山は「クライアントの要望」という坂を上りきるとそこには広い平らな頂上があって、どこに「ここが頂上」という旗を立て、何を構築しようがあとは建築士の自由だと思っているようだ。
しかし実際は、「クライアントの要望」という坂の先にも、まだまだ坂は続く。クライアントには見えていないが、まだまだ価値を高められる余地は残っているからだ。
建築士が負うべき職責は、商業的にはクライアントの納得するものを作ることだが、社会的には、社会に価値があるものを作ることだ。「クライアントの要望」の先のザ・ピーク・オブ・ピークスを目指すべきなのだ。
そもそも建築を志す者の多くは、意匠設計者になりたがってのことだ。つまり、自分のデザインした「形」がドーンと世の中にそびえ立つことを夢見ている。しかし、その多くが学生時代に設計課題の評価が振るわなかったりして構造設計や設備設計に転向する。(もちろん初めから志していた人はいる)就職のときには建設現場担当者として就職する者も多い。また、意匠設計者として採用されてからも、営業担当や積算担当に転向することもある。
だから、意匠設計者として生き残ったからには、自分の欲望を表出したい。表出する資格があるはずだと考えがちだ。
しかし、建築は社会的なものだ。気に入らなければ買わなければよいものとも違うし、簡単に廃棄できるものでもない。大好きな街、大好きな眺め、大好きな家の隣、視界のなかに、勝手に出現するものなのだ。まだそこに何十年も居座り、かつ金を食い続ける。ステークホルダーの数ははかりしれない。同時代人ばかりでもない。
そこにどうして自分の欲望を忍び込ませようとできるのだろう?どうして自分の欲を抑えて「人の役に立ちたい」と思えないのだろう。そういえば、世の中、自分の気が済むようにしたいだけの人が増えているような気がする。
小学生に夢を聞いても「無難に生きていければ・・・」的なことをいう子が増えているとも聞く。TVでみた、学校に行けるようになったカンボジアの子どもたちが口々に「警察官になってみんなを守る」とか「医者になってみんなの病気を治しえあげたい」とか「人の役たつ夢」を語るのと大違いだ。かつての日本もあんなだったはずだと思う。
これは、そもそも教育がおかしいからではないか?もっと「人の役に立つ」夢を語る子どもを輩出したい。それが凛童舎を作った理由の一つだ。学生時代の親友のあの批判の応酬が、私をここまで突き動かしているといっても過言ではないのだ。
「批判は宝くじだ」彼のくれた宝くじは大当たりだったと思う。
さて、これを読んで下さったご父兄の中には、「引く」方もいらっしゃるだろう。でも、「こういうやつに子どもを預けたら、良い影響があるのでは?」と考えて下さる方もいると信じる。まずは、会ってお話しできればと思っている。