実は私は、ドラマ「明日ママがいない」を楽しみにしている。



オブラードに何重にもくるまれて見えにくくなっている世の中の理不尽をえぐりだして、ややグロテスクな手法によってドンと裸で放り出すような手法をとる野島伸司氏が、今度は「親」というものを描くのだと思ったからだ。


理想の「親」とはなにか?を考える良い機会に提供してくれるに違いないと思っていた。


今、私自身が学童保育園を運営して「親」の問題に直面しているからだ。正直、信じられない親にも何人か出会った。(もちろんのことだが、素敵なご両親にもたくさん出会えたのは言うまでもない。)


このドラマが、その表現のほんの一部をとらまえた世の圧力に押されて、内容変更するとのこと。とても残念だ。私はこのドラマで野島伸司氏が世に発信しようとしていたメッセージを最後まで受け取りたかった。



そういえば、第3回、第4回は、なんかやわな感じになってしまっていたような気がするのは気のせいか?もう内容が変えられているのか?


今期、今のところ予想外に「失恋ショコラティエ」の「恋とは?」、「Dr D-MAT」の「命を選ぶとは?」という命題においての方が、哲学的に楽しめている。


ただ、野島伸司氏監修の脚本が、哲学的深さの点でこれらに負けるはずはない。


先週の回では、やや哲学的モードに戻っていた気がする。既定路線に戻してくれたのだろうか。



それにしても・・・・


なんで日本人はこうも世の風潮に流されるのだろう。なぜ、自分自身の目で見て自分の考えを持ち、自分で判断しようとしないのか?これでは風評被害と同じだと思う。



自己裁量権の一部を無意識に放棄して、世間並みの評価に寄り掛かろうとする日本人の習性は、一定のフレームにはめようとする日本の教育が遠因ではないか?


私はこのドラマは、児童養護施設を描きたかったのではないと思う。彼の「世紀末の詩」のようにファンタジーの設定で現実に隠されているものをあぶりだすための舞台装置でしかないのだろう。その証拠に施設のスタッフは、わざわざ現実離れしておどろおどろしい雰囲気に設定されている。


三上博が演ずる施設長が、施設の子どもに「お前たちはペットだ」と言った?あれは世間に対する批判なのでは?「あなたはちゃんと親ですか?ただの飼い主になっていませんか?」と、世間の親への問いかけではないか?



真に子どものためを思うよりは、親が「気が済むようにしている」だけでは?と感じる場面に何度も出会った。


子育てイベントやママイベントでよくある「赤ちゃんハイハイレース」など、私は感心しない。赤ちゃんをペット扱いしているようにさえ見える。


「お前たちはペットだ」という言葉は「所詮、世間は理不尽なのだ。それの是非を問うても無力なものには意味がない。理不尽な中で生きぬいていくしかない。」と、現実の厳しさを伝えたかったともいえる。


ポストというあだ名もそれほど世間に批判されることだろうかと?このドラマで、はっきりとアンチテーゼを表出するのに最も効果的な設定だったのだと思う。


赤ちゃんポストとは、「こうのとりのゆりかご」に、マスコミが面白がって付けた設置者を侮辱する名前であり、世間もそれに同調した。


世間は、そのことでいじめられる施設の子どもがかわいそうだという。確かにそうだが、このドラマのせいで苦しみが増える?そうだろうか?このドラマがあろうとなかろうと、それをどうしてあげることもできない。このことで大勢に影響するほど、もともとの苦しみ自体が小さなものではない。


私は、障碍者の母親を2人知っているが、その2人が奇しくも同じことを言っていた。「いじめや差別、劣等感を感じる場面に、この子は、これから何度も出くわすのだから、慣れていくしかない。」と。理不尽だが現実だと思う。少なくとも、心ある人がどんなに頑張っても、理不尽はゼロにはならないのが現実だ。


家庭が密室化し、傲慢な親がどんどん増殖しているのは確かだろう。これは、その状況を改めて考えてもらうための思考実験だ。


もし子どもが親を選べたらどうなる?

あなたは子どもに選ばれうる親ですか?


親とはどうあるべきなのか?


子をもらってでも親になりたい。

親になったのに親を辞めたい。


いずれも親の「欲望」だ。その間で子供たちは翻弄される。


よく考えてみれば、自分の子どもを「持つ」という選択も子どもが欲しいという親の「欲望」が出発点ではないのか?



かつては、子どもは「授かる」といった。今は多く「作る」「持つ」という。意識が変わったのかもしれない。


子育て・・・というより「親業」とは、つくづく「欲望と愛情」の間にあるものだなと思い至らせてくれたドラマだ。



出発点が欲望だとしても、欲望をゼロにはできないとしても、どれだけ愛情に力点を移せるかが親業の修行なのではないか?


このドラマには様々な親が登場する。欲望だけの里親、子どもの心に寄り添おうとする里親。


「パパ」「ママ」と呼ぶことを強要する里親の元から逃げ出した子どもを迎えに来て「おじちゃん、おばちゃんでいいからね。一緒におうちに帰ろう」といった里親。


我欲を捨てて子どもの心に寄り添ったとき、真の親になれる。そんなメッセージを感じた。



一方、ママの匂いがするからと手放さないシャンプーボトルを、その子が風呂に入っている間に捨ててしまった里親。自分たちがほったらかしにしている一人娘の話し相手にするために子どもをもらおうとする里親も登場する。


一方、子どもは、「本当の親」の記憶に翻弄される。


その中で、芦田真菜を演じる子「ポスト」には、親の記憶が全くない。にもかかわらず、仲間が、真剣に編んだ好きな男の子へのプレゼントのマフラーを馬鹿にされ引きちぎられた理不尽に怒り暴れまわってケロッとしていたり、施設の小さな男の子には、まるで母親のように接したり。登場する子ども達の中で、最もまっすぐ健やかに育っているように描かれている。


「親がなくとも子は育つ」というメッセージ?いや、「親の手出しがない方が子は健やかに育つ」だろうか?


親や大人が余計なことをしなくても、しない方が、子どもは自ら学び、自ら育つというサドベリースクールの理念と共通する思想が根底にあるのかなととらえるのは考えすぎだろうか?


少なくとも、近頃、子どもを思い通りに「デザイン」しようとする親が増えてきている状況に対し、どう対処すればよいのかヒントを得られるのではと感じながら、成り行きを楽しみにしている。




今日の放送は、新たな局面が展開するらしい。