テレビ漫画(なんて今どき言わないか?でも昭和の香りぷんぷんのあれはアニメという感じじゃない気もする)の「サザエさん」で磯野波平の声を演じておられた永井一郎氏が他界された。
私も、「ムーミン」や「母を訪ねて三千里」「フランダースの犬」をなど見ていた子どもの頃から、直前にやっていた「サザエさん」をよく見ていた。
あの慣れ親しんだ波平の声がもう聞けないのはさびしいと思う。というより声の変わった波平を「波平」と思える自信がないくらいだ。
でも、そんなときに不敬かもしれないのだが、波平が「変わる」機会に非難を覚悟で述べてみたいこたがある。波平の教育観についてだ。
「もう古いのではないか?」「あれだけの国民的番組で、あれを放送し続けることには、悪影響さえあるのではないか?」と最近思い始めていた。
「親とはああしたものだ」と大多数の親が思ってしまうのではないかと心配だった。
波平と言えば「ばっかも~ん!!」だろう。
親には、幸か不幸か知らないが、私を親として生まれたからには、「これだけはやらないでくれ」というものがあってよいし、むしろ、そういう肝のようなものが親としてあるべきだとも思う。これは『人の道に反する』と思うような、絶対に許せないという肝の場面で「ばっかも~ん!!」と雷を落とすことがあってもよいと思う。
その肝が、親によって多少ずれていてもそれは仕方がない。誰を親として生まれてくるかは、どの国に生まれてくるかと同様に運命だ。人はその運命を受け入れ最善を尽くすしかないのだから。
そういう、『人の道に反する』ような場面での「ばっかも~ん!!」はよいと思うのだが、あれはどうかと思う。
「そんな暇あったら勉強しろ!」「何だこの点数は!!」というような、勉強至上主義的な「ばっかも~ん!!」だ。
親の仕事は勉強させること?勉強させときゃ、成績良けりゃあ何とかなる?東大入れば何とかなる?そんな時代は終わっているのではないかと思う。
確かにこれまで「親」を描くとき、「勉強しろ!」と言わせておけばそれらしかった。
のび太のママももマルちゃんのママもそうだった。でも、もうそんな描き方をし続けていてはいけないと思うのだ。
特に、日本の教育は、いまだに「既知の答えに早く辿り着く」力を目指す教育だ。しかし、それで高得点をとれても、世界最先端の少子高齢化、世界最大の財政赤字という問題を抱えた日本に必要な人類未踏の状況を解決する「未知の答えを生み出す」力が育まれるとは思えない。
ただそれらしく見えるからと、国民的番組で旧態然としたステレオタイプの「親」を放送し続けるのは罪深くないだろうか?
さらに言えば、カツオがめげない性格だから磯野家の例では何とかなっているが、今やめげやすい子の方が多い。
成績の良い子を作るより、めげない子を作るにはどうするかという方が今や教育の重要テーマだと思う。やたらめったら叱りまくる親像というのも問題だ。
「サザエさん」には、昭和の良い部分もたくさん出てくる。でも、昭和の悪い部分も出てしまっている。国民的テレビ番組であるだけに、そろそろ潮時なのではないかと私は思う。
ミスタービーンのように、外人のパジャマには帽子もついているとか、囚人は横じまのつなぎを着ているとか、中国人が日本語をしゃべる時、文末に「~あるよ」と付くとか、半ば記号化したギャグの範疇として皆が「勉強しろ!」を見ているのなら問題ないが、その実、日本人の深層心理に影響していたりするのではないかと心配だ。