アレア監督の視点:芸術と批評行為(もしくは社会批判) | MARYSOL のキューバ映画修行

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革命キューバを批評的(もしくは批判的)眼差しで見つめ作品化した監督と言えば、間違いなく最初に名前が挙がるのがトマス・グティエレス・アレア(1928~96)。

        愛称:ティトン

 

今回は、彼が映画製作と批評的視線(もしくは社会批判)についてどう考えているのか、1993年にレベカ・チャベス監督(1946年~)がアレア(以下A)にインタビューした記事を元に紹介します。

 

Q:貴方にとって映画とは何ですか?

 

A:現実に入り込むために非常に有益な手段だ。映画は現実を写すだけではない。工作(マニピュレート)するんだ。現実の様々な局面を操り、新しい意味を創造することを可能にしてくれる。(この後の発言は省略)

 

Q:貴方は常に批評的態度と結びつけらますが…

 

A:私は常に批評的態度を保持してきた。社会主義の悪いところにチョッカイを出す。「社会主義のシナリオは完ぺきだが、演出はまだまだ改良の余地がある」という言葉があるが、全く同感だ。だからこそ批判の対象にすべきなのだ。改良への最上の方法だからだ。

 

Q:芸術とは娯楽?政治?それとも必需品ですか?

 

A:芸術は人生を楽しむために必要なもの。そのための方法に過ぎない。人生をより良く理解し、良いものを引き出し、人生を楽しもうとすることだ。

しかし今、我々の社会は危機的時期、激しい変化の渦中にある。そのような社会にあって、他のすべてのこと同様、芸術も影響を被っているし、その状況を何らかの方法で反映しなければならない。音楽と違い、映画は現実に影響を及ぼす。映画は現実から養分を得て作品を生む。ならば、その作品は何としても意味を持ち、現実自体に影響を及ぼさねばならない。

今この時に映画について話すなら、我々の映画は娯楽であることを基本としたうえで、現実に対する態度や意見を採択する必要がある。現実を批評すると同時に批評される対象となるべきだ。あらゆる発展のプロセスの根本にあるのは批評(批判)だと私は思う。社会が発展するための唯一の方法は、問題に対し批評的意識をもつことだ。社会の汚点を隠ぺいするゲームに陥ると、問題は持ち越されてしまうそれは我々に起き得る最悪の事態だ。

キューバは90マイル先の米国と極度の緊張関係にある島国だ。そのせいで「我々の現実を批判することは、敵に武器を与えることだ」と抗議する人が数多くいる。率直に言って私はそうは思わない。批評行為には様々なやり方があり、外からもできるし、中からもできる。敵が我々を批判するのは、我々を潰すためだ。しかし我々が自分たちの現実を批判するのは真逆で、現実をより良くするためなのだ。その態度を受け入れ、批評行為の必要性を意識したとき、今度は自分も批評され、返答される対象であることをわきまえねばならない。対立があり、争いがあり、最良の場合には対話がある。それは我々に起き得る最も健全なものだと思う。容易ではなかった。理解してくれる人は多くはない。

大抵の人は立てこもるか、さもなくば力を行使して批評行為を止めさせようとする。

最近『不思議の村のアリス』(ダニエル・ディアス=トーレス監督、1990年)がスキャンダルの標的になった。反革命的映画だったか? 私は『不思議の村のアリス』を誠実な映画だと思うし、我々の現実のいくつかの局面に対し批判をしただけだったと思う。その意図は健全で、すでに公表された「過ちの修正」プロセスに貢献するものだ。『不思議の村のアリス』に対する政治的騒動が何の役に立ったかと言えば、革命のキャパシティに対する信頼の欠如という、多くの役人が罹っている疾患を表沙汰にしただけだ。彼らは批判を受け入れ、それをより公正な社会建設のために用いることができないのだ。この嘆かわしい事態でプラスだったのは、映画人が団結し、革命の反対勢力に操られることなく、弾圧に立ち向かったことだ。その際、UNEAC(作家芸術家連盟)が後押ししてくれたことも言及しておく。

 

アレア監督年表とフィルモグラフィー:

https://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10056331564.html