『ダビドの花嫁』(もしくは『ダビドの恋人』)のテーマ | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

『ダビドの花嫁』   ※もしくは『ダビドの恋人』
                          マリオ・ピエドラ(ハバナ大学教授)


1960年代、キューバ各地から大量の若者がハバナに勉学にやって来た。

一大現象となった出来事の背景には、奨学金を大盤振る舞いするプランがあった。実施にあたり、学生の能力や資質はさほど問われない場合もしばしば見受けられた。


革命前の200年間は、“ハバナで学ぶ”ことは、概ね経済的に恵まれた家庭の子息に限られ、しかもそれは常に大学進学と結びついていた。しかし60年代の場合、国中から押し寄せる大量の若者たちは、貧しい家庭の出身者が多く、しかも大学受験の勉強に限らず、技術の習得、語学など、何でも好きなことを選べた。


やがて彼らはある特徴的な世代を形成する。というのも、いつの時代も“若過ぎ”たり、無教養だったり、金欠だったりする(この3つの要素を兼ね備える場合も多い)彼ら若者たちは、極めて複雑な事態 ―親元から離れて暮らすこと、初めての大都会に住むこと-に晒されたからだ。


こうした特殊な状況と青年期特有の問題が重なる体験。それは、『ダビドの花嫁(恋人)』のシナリオを書いた作家セネル・パスが、繰り返し描くテーマである。


当時の奨学金制度は、非常に寛大な内容だったとはいえ、あらゆる面で若者たちに軍隊並み、もしくは半軍隊並みの規律を強いた。思想の統一も義務づけられた。この思想もしくはイデオロギーは、旧ソ連直伝の共産党イデオロギーの多様な解釈と、チェ・ゲバラが唱えた「新しい人間」の概念から派生していた。


こうした要請(すなわち、セネル・パスの作品の関心事)を前にして、一切の疑念を抱かず盲目的に信奉する者から、明らかな拒否反応を示す者まで、若者たちのとる行動は様々だった。拒否を表すひとつの方法-それが、当時世界中で流行していたにも関わらず、キューバでは全面的に禁止されていた北米の音楽に傾倒することだった。「ザ・ビートルズ」は、そうした北米音楽の代表格。イギリスのグループだが、やはり禁止されていた。


本作が製作された1985年当時のキューバでは、こうしたテーマは、まだ議論の対象外だった。ゆえに『ダビドの花嫁(恋人)』は、重大なメタファーとなる。だが、映画は直接的に語ることは避け、異性の好みを前面に出し、“多様性”を擁護している。


仲間たちが“全員一致”で選ぶ美少女を拒否したダビドは“違反者”だ。そして彼が恋するオフェリアは、世間が認める美のモデルからほど遠く、まさに“違い”を象徴している。


本作が擁護する“個人の好みの多様性”は、個人の価値観の肯定に繋がる。音楽やアートの好み、宗教の自由、ヘテロかホモセクシュアルか、そして最終的には政治観の自由に。本作は、製作時に可能だったギリギリの範囲でそれを語っている。


セネル・パスが同じくシナリオを(原作も)書いた、後の『苺とチョコレート』(1993年)の主人公の名が“ダビド(David)であることと、本作の主人公の名前が同じであることは、あながち偶然ではない。

 『苺とチョコレート』のダビドも“奨学生”。彼は、ハバナでディエゴという教養のある男と知り合う。ホモセクシュアルで、体制と意見を異にするディエゴは、ダビに“思想の統一”は幻想であることを教える。
人は誰も自分の頭で考えるべきであり、個の多様性を尊重する“統一性(団結)”こそ、希求すべきなのだ。


©「Marysolのキューバ映画修行」


Marysolより一言

セネル・パスの描くダビドの人物像には、キューバの田舎で生まれ育ち、奨学生としてハバナに勉強に来た、パス自身の体験が投影されているようです。

      MARYSOL のキューバ映画修行-David

ところで『苺とチョコレート』でダビドを演じたウラジミール・クルス

スチールを見ると、『ダビドの花嫁』にも出演していたことが分かります

 主役のダビドの左隣 (クレジットには名前が出ないけど)


それに『苺とチョコレート』のミゲルは、『ダビドの花嫁』のミゲル(ダビドの右隣)を演じた俳優=フランシスコ・ガトルノ

思わず、ツッコミを入れたくなりますね。


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