禁断の音楽 “ビートルズ” | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

『ダビドの花嫁(恋人)』1985年製作)の時代背景は1967年。MARYSOL のキューバ映画修行-ダビドの花嫁(小)
当時のキューバでは果たしてビートルズの音楽が禁止されていたのか?
まずウェブ検索で調べてみたのですが、結果はマチマチ。
そこで検索結果(マークで表示)をもとに複数のキューバ人に尋ねてみました。

 

 

★ 公式に禁止はされなかったが、ラジオやテレビで流されなかった?
回答
報道はどうあれ、禁止は公けにあった。
だが、それについて書かれた文書を探しても決して見つけることはできないだろう。こうした禁止事例は数えきれないほどあり、“公表”されなくても実在するのだ。

 

 

 

禁止事項は「ビートルズ」に限らず、あらゆる北米の音楽と大半の英語の歌に及んだ。
ただし奇妙なことに『Paul Anka’s 15』というレコードだけは手に入り、パーティーでは必ずかかったが、それもラジオやテレビでは決して流れなかった。

 

 

 

★ 1962年のデビューから1970年の解散後も禁止されていた?
回答
1962年以前にすでに「禁止」は始まっていた。そして禁が解けたのは70年よりずっと後だった。早くとも72~73年だろう。

 

 

 

64~65年にはロック音楽そのものが禁止された。キューバ人のバンドであろうと、アマチュアグループであろうと演奏できなかった。

 

 

 

個人的な体験談だが、住んでいた所が米国に近かったので、向こうの音楽がラジオで聞けた。最初のヒット曲『抱きしめたい』のときから知っていた。

 

 

 

東ドイツの友人がビートルズのLPを送ってくれた。無事に届いて、すごく驚いた。おそらく郵便局は、彼らを東ドイツのグループだと思ったのだろう。僕はビートルズのLPのおかげで、たちまち“人気者”になり、パーティーに引っ張りだこ(もちろん皆のお目当ては僕じゃなく、ビートルズのレコード)。ただし、レコードを持ち歩く際は、キューバのLPのケースに入れ替えた。“帝国主義”の音楽を手に、街を歩くなんてできなかったから。「逮捕される」とか「取り上げられる」と噂されていた。

 

 

 

64~66年頃は、ラジオから密かに録音したレコードをブラックマーケットで買うことができた。

 

 

 

ビートルズの音楽は厳しく規制されていた。構わずに鼻歌で歌っていると、級友から非難されたり、政治的に誤っていると見なされた。

 

 

 

★ 1966~67年ごろは規制が緩んだ?
回答
規制が緩んだというより、69~71年頃、有名なラジオ番組“ノクトゥルノ”が、ビートルズの曲やスペインのバンド演奏による米国音楽をかけるようになった。

 

 

 

様々な英語のヒット曲が、スペイン人のカバーで流れるようになった。しかし、スペイン人歌手が本物そっくりに真似してスペイン語で歌うことはいかにも馬鹿げていた。まるで英語で歌うことがいけないようだった。たまにオリジナルが流れることもあった。

 

 

 

★ 家で聴くことさえ禁止されていたというが実態は?
ちなみに『ダビドの花嫁』では男子生徒たちがこっそりビートルズを聴いているが…

回答:
若者たちの友情は、「ビートルズは好き?」という質問で始まった。それは連帯感の表れであり、秘密に加担すること意味していた。と同時に、当局の政策に対する拒否と抵抗を示唆していた。

 

 

 

知識人はビートルズが好きだった。

 

逸話1
シルビオ・ロドリゲスはあるインタビューで、影響を受けたアーティストの1人に“ビートルズ”の名を挙げたために一時期テレビから干された。

 

 

逸話2
キューバ映画史が誇るドキュメンタリー監督サンティアゴ・アルバレス (故人)は、ビートルズとサルを対比する映像をニュースで流した。何年も後にその理由を尋ねられたアルバレスの答えは、「そうするよりほかに“ビートルズ”を登場させ、人々に紹介する方法がなかったのだ。私はビートルズが好きだったからこそやった」。

 

 

 

逸話3
ビートルズの音楽が効果的に使われているので有名なドキュメンタリーがある。
タイトルは『Coffea arábiga(アラビアコーヒー)』 (1968年製作)。
監督はニコラス・ギジェン・ランドリアン (故人)。
わずか20分弱の短編で、ハバナ近郊でコーヒー栽培をするというでたらめな農業計画(失敗に終わる)がテーマ。実験的精神と風刺精神に富む戯画的な映像で、フィデル・カストロが登場するシーンのバックにビートルズの『フール・オン・ザ・ヒル』を使い、スキャンダルとなる。これが原因で監督はICAICを辞めさせられる。その後、何度か精神病院(政治的理由ではないと聞く)や刑務所に入れられ、1989年マイアミに亡命。2003年、永眠。
尚、同監督の作品は今キューバで若い監督たちによって再評価されている。

 

 

 

Marysolより一言MARYSOL のキューバ映画修行-John Lennon
以上の背景を頭に入れて『ダビドの花嫁』を見ると、台詞がガゼン!興味深くなってきます。

 

また、この作品がなぜキューバでヒットしたかという理由や、公けの記録からは窺えない人々の心情を理解するのに映画が有効であることも理解していただけると思います。
さらに逸話2や3からは、キューバ映画の手強さが伝わるのではないでしょうか。

関連記事
『ダビドの花嫁』紹介
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10432845278.html
革命の光と影(陰)
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10434215167.html

 

追記 (2017年11月1日)

1968年、シルビオ・ロドリゲスが番組を降板された事情/自身のブログ(10月23日付)より
 

あれは、たしか1968年3月のある日。テレビ番組「Mientras Tanto」のための録音をしようとしていたとき、ICRT(ラジオテレビ局)の新局長(中尉)から呼び出された。

前局長のJuan Vilarとは親しく、よく顔を合わせていたので、まさかこれが最初で最後の面会になるとは思いも寄らなかった。

番組ゲストのノルベルト・フェンテスをスタジオに残して、局長の部屋に行くと、いきなり次の2つのことについて説明を求められた。ひとつは、番組のなかで私がビートルズを褒めたこと。もうひとつは、ある映画のキスシーンを紹介したことだった。

ビートルズについての発言は、リハーサルでは何の問題もなかった。
「このイギリスのグループは、ポピュラー音楽と洗練された音楽の垣根を取り払う。とても良いことだと思う」と言ったのだ。

“キスシーン”については弁解の余地はなかった。なぜなら当時テレビでキスシーンを放映することが禁じられていたのは周知の事実だったからだ。それを電波に乗せたのは代行者(実際の責任者は砂糖黍刈りに送られていた)の決定によるものだった。よって、私はキスのような日常茶飯事のことがブラウン管に出ても問題ないと思った、と自分もその決定に加わったかのように話した。

驚いたことに、私は番組を選ぶか、“えせ”知識人との会合(知り合って間もない友人たち)を選ぶか決断を迫られた。「それなら友人を選びます」と私は答えた。

すると「降板」を告げられたうえに、「今後はいっさい革命の仕事はできない!出ていけ!」と言われた。
後になって彼の女友達が私に教えてくれたところによると、彼はビートルズの全レコードを持っていたそうだ。(中略)

局には理解者もいたが、あの番組を擁護したせいで、砂糖黍刈りに長期間送られた者もいた。