デスノエスと「斜陽」(太宰治) | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

今年はラテンビート映画祭 の手伝いで忙しく、ふと気がついたらエドムンド・

デスノエス(『低開発の記憶』の原作&脚本執筆)の誕生日(79歳)を2日ほど

過ぎていました。
慌てて“お祝い”の言葉と恒例の“1枚の絵”(今年はゴーギャン)を添付して

メール。返事はなかったのですが、色々と伝え(話し)たいことが出てきて、再びメールを2通続けて出しました。

うち1通は、小説「斜陽」 について。
MARYSOL のキューバ映画修行-EL OCASO 今年は“太宰治生誕百年”とあって、久しぶりに「斜陽」を読み返してみたからです。
理由:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10004221643.html


そして思ったのは、どうして太宰を好きな日本人は多いのに、セルヒオ(『低開発の記憶』の主人公)は理解されないのだろう?という疑問。
皆、あの映画を政治的に解釈しようとし過ぎるのでは?
もっと「斜陽」を読むように、映画を観てくれればいいのに…
それに、太宰が作中で使う“革命”の意味も気になる…
デスノエスはこの言葉をどう解釈したのだろう?


そこで、デスノエスの「斜陽」観を尋ねてみました。
以下はその返事です。


エドムンド・デスノエス:
MARYSOL のキューバ映画修行-Edmundo Desnoes 君に話したかどうか覚えていないが、私が(キューバで)国立出版局の編集員だったとき、太宰の小説(「斜陽」を指すと思われる)を出版することを提案し、特別にプロローグまで書いた。

その本には芥川(龍之介)の驚嘆すべき短編も含むことになっていた。
私が太宰に惹かれたのは、歴史的な危機(時代の転換期の意味か)が描かれているからだけではない。当時の私はまだ革命の暑苦しい抱擁を煩わしく思ってはいなかった。実際に私が共感したのは、登場人物の探求、その現実に対する問いかけと自身のアイデンティティに対する疑念だった。


Marysolより

このあともう少し「斜陽」について話を聞くつもり。
でも彼は、今月末からミュンヘンで開催される映画祭で講演(氏へのオマージュも)のため出発。そのあとはロンドンへ、やはり映画祭に招待されているとのこと。

ただ、肉体的には不安らしい…


誰か日本にも招待してくれないかなぁ。

あの時代のすべてを肌で知っているのに。