新橋第一ホテル
女性歯科医殺人事件
1972年
週刊現代 1972年7月13日号
【事件の概要】
毎日新聞(1972年6月26日夕刊)
1972(昭和47)年6月26日、東京の新橋第一ホテル(現在の第一ホテル東京)新館3階3304号室で、熊本県八代市の歯科医・谷崎アヤコさん(当時37歳)がじゅうたんの上に仰向けになり、全裸で殺されているのが発見されました。
遺体には、ホテルの浴衣や彼女のワンピース、下着などがかけられていました。
司法解剖の結果、死因は手か幅の広い帯のようなもので首を絞められての窒息死で、胃の内容物から食後1〜2時間、死亡推定時刻は午後8時ごろ、ベッドもシャワールームも使われた形跡がなく、谷脇さんは部屋に戻った直後に殺害されたものと考えられました。
彼女の全身には、襲われて必死に抵抗したためか皮下出血が見られ、隣りの部屋の宿泊客が「助けて、誰か来て!」という女性の叫び声を聞いていたのですけれど、フロントにも警察にも通報するのをためらったそうです。
なお、遺体には死後に性的暴行を受けたあとが認められました。
遺体を発見したのは、被害者と一緒に熊本から上京していた歯科医の知人男性2人(AさんとBさん)、そしてホテルの従業員です。
谷崎さんとAさん・Bさんの3人は、6月25日から2日間の予定で霞ヶ関ビル12階で開催されていた日本歯科医師会の講習会に参加するため、24日に東京に来ていました。
6月25日の講習会を終えた3人は、午後6時半ごろから有楽町のガード下の焼き鳥屋で夕食を共にしていましたが、谷崎さんは「気分が悪い」と言って7時半ごろ1人で先にホテルに帰りました。
有楽町ガード下の飲食街
その後、映画を観に行った男性2人のうち、Aさんは体調が悪いと言って午後8時半ごろにホテルに戻り、谷崎さんの部屋の筋向いの自室で横になっていたそうです。
読売新聞
午後11時ごろBさんが映画から戻ったので、2人は焼き鳥屋の代金を清算しようと谷脇さんの部屋をノックしましたが応答がありませんでした。
翌6月26日の朝9時ごろ、谷崎さんがなかなか起きてこないのを不審に思った2人が彼女の部屋のドアをノックしますが、やはり応答がありません。
そこでホテルの従業員に鍵を開けてもらい一緒に室内に入ったところ、変わり果てた姿の谷崎さんが床に横たわっていたのです。
毎日新聞
警察は、谷崎さんが犯人を部屋に招き入れたように見えることから顔見知りの犯行と考え、まず同じホテルに宿泊していたAさんとBさんから事情聴取しました。
読売新聞(1972年6月27日)
ところが遺体に残された体液から判明した犯人の血液型「O-非分泌型*」が2人と合わず、また部屋や彼女のバッグの留め金に付着していた指紋とも一致しなかったのです。
*ABO式血液型を決める物質の分泌量が遺伝的に少ないタイプ
朝日新聞(1972年6月27日)
次に疑われたのは、谷崎さんが卒業した九州歯科大学の2年先輩で、東京で歯科医をしているCさんです。
歯科医師会の講習会は月に1回2日間、全部で10回開催されていました。
Cさんは、谷崎さんが講習会で毎月上京するたびに会って「情事」を重ねていた3年来の不倫相手です。
この時にも、東京に着いた6月24日に谷脇さんは、AさんとBさんに「叔母の家に行く」と嘘をついてCさんと落ち合い、六本木のレストランで食事をしますが、新橋第一ホテルに戻ってきたのは午前0時を回っていたようです。
けれども、このCさんの血液型も指紋も、犯行現場のものとは一致しませんでした。
また、ダンスが趣味の彼女は、上京時にダンスで着る夜会服や靴を必ず持参し、ダンスホールなどで踊りを楽しんでいたのですが、有楽町のダンス教室で知り合ってよく一緒に踊っていた男性が疑われました。
しかし、彼には確かなアリバイがありました。
さらに、谷崎さんが事件の日に購入代金を支払う予定だった歯科器具の営業マンも疑われましたが、やはり血液型や指紋が一致せず、容疑が晴れました。
また、気分が悪いと先に帰ったはずの彼女が、わざわざホテルの先のパーラーに寄って果物(ビワと桃)を買ってホテルに戻っていることから、来客の予定があり、その人物が犯人だったのではないかとも考えられましたが、該当者は浮かびませんでした。
読売新聞(1972年6月28日夕刊)
谷崎さんの事件から2ヶ月半ほど後の9月4日午後11時半ごろ、同ホテルで女性宿泊客が部屋に入ろうとしたところ、つけてきた男に鍵をひったくられそうになる事件が起きました。
そして鍵の強奪未遂から2時間余り後の5日午前1時ごろに、同じ男の声で女性の部屋に「一緒に食事をしよう」という電話があり、怖くなった女性がフロントを通じて警察に届け出ました。
毎日新聞(1972年9月6日夕刊)
電話が内線だったことからその男も宿泊客と思われ、谷崎さんの事件との関連を視野に警察は捜査しましたが、男を突き止めるまでには至りませんでした。
こうして警察は、谷崎さんの交友関係や変質者など4300人を調べ、54000人もの指紋を照合しながら、有力な容疑者が浮かぶことなく捜査は暗礁に乗り上げ、1973(昭和48)年10月20日に捜査本部は解散してしまいます。
そして、ついに犯人が分からないまま事件は公訴時効を迎え、迷宮入りになったのです。
週刊朝日(1972年6月号)
谷崎アヤコさんについて、もう少し見ておきます
彼女の郷里の天草には、海藻に付着した牡蠣の殻から石灰を製造する地場産業があり、今も熊本県宇城(うき)市に谷崎石灰工業所という会社があります。
これが谷崎さんの実家に関係あるかどうかは分かりませんでしたが、彼女は石灰製造を生業(なりわい)とする比較的裕福な家庭に生まれました。
カトリック系の女子校である八代白百合学園高等学校を卒業した谷崎さんは、1953(昭和28)年に福岡の九州歯科大学(現在は公立大学法人)に入学します。
歯科医となった彼女は、1961(昭和36)年に天草諸島の御所浦島(ごしょうらじま)にある市立診療所に勤務しました。
ダンスが好きだった谷崎さんが、建設会社でトラック運転手をしていた男性とダンスを通じて知り合い、両親の反対を押し切って、男性が婿養子になる形で結婚したのもこのころです。
一男一女に恵まれた彼女は、事件の前年の1971(昭和46)年、八代市に念願の谷崎歯科医院を開業しました。
読売新聞(1972年6月26日夕刊)
そこに至るには、トラック運転手をやめて家事や子どもの世話をし、開業後は歯科技工士見習いとして診療も手伝う夫の協力と支えがあり、夫婦仲も決して悪くはありませんでした。
ただ谷崎さんは、現状に満足して与えられた枠に収まる「わきまえた」女性ではありませんでした。
それが、事件の被害者でありながら奔放な行動を叩かれる原因となったのです
犯人探しが暗礁に乗り上げる中、この事件を取り上げた週刊誌などが、殺人事件の被害者であった谷崎さんの私生活に好奇の目を向け、次のようなタイトルで競うように書き立てました。
「夫も知らなかった2児の母のもう一つの夜の私生活」
「女歯科医の奔放なプライバシー」
「あまりに高くついた東京アバンチュール」
「谷脇さんは女王さま」
朝日新聞(1972年6月28日)
八代市に夫と子ども2人(小学3年の長女と小学1年の長男)の家庭があり、丁寧な仕事ぶりで患者からの評判も良い開業医でありながら、派手な衣装に身を包んでダンスに興じたり、毎月上京しては愛人との密会を重ねていた谷崎さんを、殺された本人にも落ち度があったと言わんばかりに週刊誌は書いたのです。
東京日比谷にあったダンスホール
警察は当初、顔見知りの犯行にこだわったようですが、遺体に性的暴行をしている異常さから見ても、彼女の「不倫のもつれ」が事件の原因とは思えませんし、実際に彼女の不倫相手や考えられる限りの友人・知人も容疑者とはなりませんでした。
ですから、不倫に対する道徳的批判はあるとしても、それと直接関係のない殺人事件の被害者のプライバシーをこれでもかとさらして叩くマスコミの行為は、死者にムチ打つ「セカンドレイプ」だったのではないでしょうか
では、谷崎さんを貶めるような報道が繰り広げられた背景にはどのような女性観があったのでしょう。
1960年代の高度経済成長時代を通じて日本では、団塊の世代の多くの若者が、就職のために地方から都会に出てきました。
そして彼ら/彼女らは、やがて結婚し子どもをもうけて都会に定着するようになりました。
この時代、「両親と子ども」の核家族が、電化製品に囲まれた団地暮らしのイメージとともに広がっていきます。
1964年の団地の暮らし
子どもたちに先に食べさせる妻/母
夫/父はまだ会社か
農家であれば妻も農作業に従事しますが、都会ではサラリーマンの夫は外で働き、専業主婦の妻は家で家事育児に専念する「性別役割分業」が広がったのがこの時代でした。
つまりこのころは、「女性は結婚したら家庭に入る」のが当たり前とされたのです。
ちなみに、谷崎さんが参加した歯科医師講習会でも、女性は彼女1人だけだったそうです。
今では死語(?)になった「家事手伝い」(学校を卒業した娘が結婚の準備として家で母親から家事を教わる)という「肩書き」が女性にあったり、会社に勤めたとしても「腰掛け」と言われたように一時的なもので、職場で前途有望な男性に出会い恋をして、結婚を機に仕事を辞めるいわゆる「寿(ことぶき)退社」が働く女性の憧れでした。
結婚せずに仕事を続ける女性は、「お局(つぼね)さま」などと揶揄され、若い女性社員からも煙たがられた時代なのです。
家庭に入った専業主婦の女性は、夫の稼ぎで生活をやりくりしながら子どもを産み育てること、つまり夫(主人)に仕えて家を守る「良い妻、賢い母」であることが求められました。
ですから、谷崎さんのように女性が歯科医という専門職につき、元トラック運転手だった夫の方が歯科技工士見習いとして妻の下で働き、家事育児もほとんど夫がするという「逆転」夫婦は、当時では異例中の異例だったでしょう。
そういう場合に「女のくせに」と顰蹙(ひんしゅく)を買うのは、決まって女性の方でした。
事実、スポーツタイプの日産フェアレディを乗り回す谷崎さんは、「えらそうにしている」と近所の評判は良くなかったようです。
しかも谷崎さんは仕事だけでなく、服装もオシャレでダンスという趣味を持ち(夫との仲を取り持ったのもダンスでした)、さらには東京には胸ときめかせて会う恋人までいたのです。
そのように、家事を夫に任せて愛車でダンスに通うような自己中の女なら、犯罪に巻き込まれても自業自得、私生活や「裏の顔」を暴かれ叩かれても仕方ないと思われたのでしょうか……
しかし、もしこれが男女逆であったらどうなのでしょう。
つまり稼ぎの良い歯科医の夫には、医院を手伝いながら家事育児もこなす妻がおり、華やかな趣味をもって、遠隔地の愛人と家庭を壊さない程度の「アバンチュール」を時に楽しんでいる——そういう夫が不倫と直接関係のない殺人事件の被害者になったとして、マスコミは「妻も知らなかった2児の父のもう一つの夜の私生活」と書き立てたでしょうか。
被害者にもかかわらず谷崎さんに対して冷たい視線が向けられる中で、ノンフィクション作家の桐島洋子さんは、雑誌『微笑』(1972年8月26日号)で次のように書いています。
「彼女も、家にあれば良き妻、子どもたちにはとても良い母親であったのだろう。彼女が東京で知らない男と踊ろうと、デートしようと、非難することはできない。彼女は、何を悪いことをしたのだろう。何もしていない。こんなことがなければ、また、すてきなデートができたものを。とてもすばらしい交際だと思う。中年女性にとっては、相手はある程度インテリジェンスをもった男性でなければ面白くない。だが、たいていの場合、中年女性の浮気相手は、くだらない男が多いものだ。彼女の場合は、大学の同窓で、しかも立派なお医者さま。すばらしいではないか。」
夫や子どもたちと谷崎さんとの関係がどうだったのかよく分かりませんので、桐島さんのように「すばらしい」とストレートに言い切ることは小川にはできませんが、少なくとも家族や夫婦のあり方は当事者たちの意向を踏まえて多様性が認められるべきですし、一夫一妻の枠に縛られない「ポリアモリー」(関係者全員の同意の上で、複数のパートナーと関係をもつ恋愛のスタイル)という生き方も人によっては選択肢としてありうるでしょう。
日本家族計画協会の「ジャパン・セックスサーベイ2020」という調査によると、男性の不倫
(恋人や結婚相手以外のパートナーとの性関係)経験
者の割合は67.9%、女性は46.3%で、現在不倫している男性は41.1%、女性は31.4%という現実があるのです。
これを見ると、不倫経験は男性の方が多いにもかかわらず、叩かれるのは女性の側に偏っているという傾向は、昨今の芸能人の不倫騒動においても見られることです。
ましてや谷崎さんの時代には、あるべき性別規範に従わない女性を「女のくせに」と非難する傾向は一層強くあったことでしょう
その結果、男性目線の心ないマスコミ報道が、妻・母を失って悲嘆にくれる谷崎さんの夫や子どもたちをさらに深く傷つけたのではないかと安じ、憤りを覚える小川です
この事件は朝倉喬司さんの「誰が私を殺したの」と「女性未解決事件ファイル」で知りました
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