【リクエスト企画】
豊田商事事件と永野一男
今回は二人の方からリクエストがありました豊田商事事件です😺
ただ豊田商事事件そのものについてはすでに数多くの記事や動画があり、それに付け加えるべき新しい情報を得ることはできませんでした。
そこでこのブログでは事件については概要にとどめ、豊田商事創業者の永野一男の生涯について「小川里菜の目」でまとめてみました。
【豊田商事事件とは】
豊田商事のパンフレット
(19歳で同商事に10日間勤務した方のno+eより)
豊田商事(社長のち会長・永野一男)は、1978(昭和53)年7月8日に貴金属販売・有価証券の保有利用を目的として東京・銀座を本店に設立した豊田商事を皮切りに、1981(昭和56)年4月22日に大阪・梅田に拠点を移して新たに設立した大阪豊田商事(名目上の社長・道添憲男、副社長・永野一男)を経て、1982(昭和57)年4月21日に豊田商事と商号変更したものです。
この会社は、現物(パンフレットの写真にあるような金の地金)は渡さずに預り証券だけを渡す金のペーパー商法*で、わずか4年間に約5万人から2千億円を超えるお金を集めた詐欺会社です。
*会社自体も実際の金地金の売買はほとんどせず、顧客から集めたカネを流用・転用するだけ
(豊田商事パンフレット*)
*この豪華なパンフレットにも虚偽の記載が多数あったことが後に明らかにされています。
朝日新聞(1985年6月17日)
値上がり確実だと金の地金を客に買わせながら、それを会社に預けると1年で10%の運用益を払うと誘導して「純金ファミリー契約証券」なる紙切れだけを渡し、期日が来るとしつこく迫って強引に更新させ、途中解約を申し出る客には事前の説明にない違約金30%を取ると脅す悪どい手口でした。
(NHKテレビ放送史 4章より)
その結果、設立して1年も経たずに所管の通産省(通商産業省、今の経済産業省)や相談機関に苦情が殺到したそうで、下のように1983年に朝日新聞は豊田商事の「黄金商法」を「詐欺まがい」と報じています。
朝日新聞(1983年8月12日)
被害者の約半数は高齢者、そして主婦で、金やバブル期の投機ブームへとつながる高い「運用益」への人びとの関心の高まりを背景に、インフレや生活への不安などから、コツコツ溜めたお金を少しでも増やしたいという心理につけ込まれたものです。
まず「テレフォンレディ」からの電話で興味を示した人の家をすぐに営業社員が訪問するのですが、一人暮らしの寂しいお年寄りの中には、家に上がり込むと仏壇があれば線香をあげ、家事をしたり話を聴いたりしながら何時間も粘って勧誘する社員を「いい人」だと信じ込んで契約する人もあったようです。
朝日新聞(1985年6月21日)
毎日新聞(1985年8月8日)
豊田商事は、「日給2万円プラス売上げの5%以上保証」という破格の条件で営業社員を集め、一件でも多くの契約をとってくるようアメとムチで厳しく駆り立てました。
ただ、商品知識と営業ノウハウの研修だけを受けて、会社の不正な利益のカラクリを知らないヒラ社員には、自分が詐欺商法を行なっているという自覚に乏しい人が少なくなかったようです。
朝礼で社員に気合を入れる豊田商事営業所
永野一男は、豊田商事の他に、販売したゴルフ会員権の賃貸で収益が得られると称する鹿島商事やクズダイヤを扱うマルチ*まがい商法のベルギーダイヤモンドなど100近くもの会社を設立して豊田商事グループとし、その上部組織として永野が100%出資した「銀河計画」さらに統括会社の「白道」を作りました。
*商品自体からの利益よりも、購入者(親会員)が新たな購入者(子会員)を勧誘して販売マージンを得ることを目的とする仕組みで、「無限連鎖講」(いわゆる「ねずみ講)と言われるように購入者(会員)が「親→子→孫→ひ孫……」と無限に増殖することが儲けの前提となる商法
朝日新聞(1985年6月19日)
こうして、上の記事によれば1984年10月だけで豊田商事で約80億円、グループ企業10社で120億円余りのカネを集めた永野ですが、幹部や営業成績の良い社員への法外な給与*、永野の自家用機や自家用クルーザーなどの購入と飛行場や港でそれらを管理するためだけの赤字会社、また計画倒れで頓挫した会社などを抱え、経営は自転車操業状態だったようです。
*一部の幹部は1000万円もの月給を取っていた
約7000人の従業員を使って全国の各支店・営業所で吸い上げたカネに加え、絶頂期の1983年には7回も豪華客船をチャーターして「トヨタゴールド・フェスティバル'83」を開催し、約600kgの「金の延棒」(イミテーション)を積み上げた船内ホールで、芸能人のショーを約500人の招待客(高齢者が多数)に見せながら、毎回2億円以上の契約を取っていた豊田商事でしたが、被害者からの訴えで社会的批判が高まったことから営業実績が急激に落ち込み、1985年6月には「ほとんど活動停止状態」になりました。
トヨタ・ゴールドフェスティバルで歌うジュディ・オング
右からMIE(ピンクレディー)、春日八郎(演歌歌手)、
藪内博銀河計画副社長、北本幸弘同社長
(いずれも「FRIDAY」1985年7月19日号)
1985年4月、先に名前をあげたグループ企業である鹿島商事の外務員が逮捕されて内部書類が手に入ったことから、警察の捜査が本格化します。
捜査の対象は中心人物である永野一男に及び、同年6月17日に永野は警察の取り調べを受けます。
またこの日、兵庫県警が外国為替及び外国貿易法(外為法)違反で、大阪の永野の自宅マンションを家宅捜索しています。
【永野一男刺殺事件】
毎日新聞(1985年6月19日)
豊田商事会長の永野一男が前日に警察の取り調べや家宅捜索を受けたことから、今日にも逮捕されるのではないかと考えたマスコミ各社は、1985(昭和60)年6月18日、大阪市北区天神橋3丁目の永野が1人で住むマンション自室(ストークマンション扇町502号室)前に約30〜40人の記者やテレビクルーを待機させ、インタビューを求めていました。
朝日新聞(1985年6月19日)
今もそのままにある事件現場のマンション
午後4時25分ごろ、そこに薄茶色のブレザーの中年男と、パンチパーマに黒づくめの服の若い男の2人が現れ、「ここやな、あいつとこは。もう金いらんから殺したろ思うとる」「被害者を6人ばかり面倒見ているんや。殺すよう頼まれた」などと言い、報道陣の鉄製折りたたみ椅子で部屋のドアを激しく叩き始めました。
(共同通信)
朝日新聞(1985年6月19日)
中に1人でいる永野から何の応答もなかったので、若い男が玄関横の窓のアルミ格子を壊し、2人は窓ガラスを蹴破って中に入りました。
若い男は黒いカバンを持っていましたが、そこに凶器を隠し持っているとは報道陣も気づかなかったようです。
凶器の旧日本軍の銃剣
この侵入時点で、毎日放送の記者が3軒隣に駆け込んで110番通報を依頼しています。
NTTが携帯電話サービスを開始したのは、翌年(1987)4月ですので、この時はまだ今のような携帯電話がなかったのです。
しかしそのわずか数分後に、返り血を浴びた男が血のついた銃剣を手に窓から出てきて、「おれが永野をやった。おれが犯人や警察を呼べ」と叫んだそうです。
永野会長を刺して窓から出てきた犯人たち
若い男の手には凶器が
(「FRIDAY」1985年7月5日号)
室内には、刺されて血まみれの永野会長が横たわっていました。
襲った2人は、マンションを出たところでパトカーで駆けつけた天満署員により殺人の現行犯で逮捕されました。
刺された永野はすぐに救急車で病院に搬送されましたが、すでに失血死の状態で、午後5時15分に死亡が確認されました。
医師によると、深い刺し傷が8箇所あったそうです。
食料などは会社が雇ったガードマンが差し入れに来ていました*が、所持金はわずか711円だったと言われています。
*事件の時もガードマンが玄関前にいましたが、犯人たちが「永野に会わせろ」というので、マンションを降りて確認に行った間の出来事でした
6月19日に永野一男の通夜、20日には告別式が公益社枚方会館別館で、銀河計画グループ(北本幸弘社長)の社葬として執り行われました。
会葬者50人ほどの寂しい葬儀だったそうです。
法名「誓願院釈一信」、享年32でした。
なお、永野の遺品は事件の数日後に叔父が引き取りました。
しかし、目ぼしい遺品は30インチのブラウン管テレビにカラオケセット、あとは歌謡曲のLPレコードに本ぐらいだったそうです(「被害総額2000億円!豊田商事「会長刺殺事件」の凄惨な結末ーバブル前夜に起きた巨額詐欺事件」「週刊現代」2016年6月26日号)。
犯人の2人は、大阪府豊中市で鉄工所を経営*していた(前年9月に倒産)自称右翼団体「まことむすび誠心会**代表委員」の飯田篤郎(当時56歳)と、鉄工所の元従業員で建築作業員の矢野正計(まさかず、同30歳)です。
*従業員は4人ほどで、高齢者や障害者を雇用していたと言われます
**構成員は飯田ひとり
警察の取り調べに対し主犯の飯田は、「今の法律は手ぬるい。警察のやり方も手ぬるい。わしがやらんかったら、ほかにやる者がいない」と述べ、矢野は「飯田から〝永野を殺そう〟と誘われ、同調した」と自供しました(毎日新聞)。
殺人罪と銃刀法違反で起訴された2人に対して検察は、飯田に懲役15年、矢野に懲役13年を求刑しましたが、1986年3月12日の判決公判で、大阪地裁の青木暢茂裁判長は飯田に懲役10年、矢野に同8年を言い渡しました。
判決は、「犯行は残虐で多数の報道陣の前で白昼公然と行われ、生々しい惨劇の前後の状況がテレビで放映されるなど、社会への影響は軽視できない」としながら、「残虐な行為だが、老人たちが悲惨な目にあわされたことによる義憤などが動機となり、酒の勢いも手伝った突発的な行為」だとして、求刑よりどちらも5年軽いものでした。
なお、大量の酒を飲んだなどを理由に飯田は心神耗弱を、矢野は心神喪失を主張しましたが、裁判所はそれらを退けています。
毎日新聞(1986年3月12日夕刊)
2人はそれぞれ控訴しましたが、飯田は1990年、矢野は1989年に上記の刑が確定しています*。
*飯田篤郎には妻と子どもが2人いて出所後は妻と関西で2人暮らし、矢野正計は出所後に結婚して子どもも生まれ大阪から広島に移って生活していると言われます
この刺殺事件については、豊田商事が騙し取った金が流れた暴力団など裏の組織が、口封じに永野を殺したという憶測が流れ、今もそうした見方は根強くあります。
2千億円を超える金を集めながら、残されていた金額があまりに少ないためにそうした「闇」の存在が考えられのですけれど、しかし、犯人の2人がいわゆる「ヒットマン(殺し屋)」だった可能性は警察・裁判所もマスコミもつかめなかったようで、真相は謎のままです。
すでに「死に体」になっていた豊田商事は、永野の死によって決定的打撃を受け、1986(昭和60)年6月21日、被害者からの破産申し立てを受理した大阪地裁が資産保全命令を決定し、仮差し押さえを執行しました。
豊田商事はこれにより実質的に倒産しました。
同年7月1日に豊田商事に破産宣告がなされたのに続き、7月3日には、のらりくらりと責任追及をかわす残りの幹部たちに業を煮やした豊田商事破産財団(中坊公平管財人)が、被害者の救済を最優先に親会社である「銀河計画」の破産申し立てをおこない、豊田商事グループは一気に崩壊に向かいました。
毎日新聞(1985年6月21日夕刊)
さらに、1987(昭和62)年3月21日、豊田商事グループを捜査していた大阪地検特捜部と大阪府警捜査二課は、同グループに詐欺罪の適用を決め、豊田商事元社長の石川洋(当時47歳)ら元幹部5人を逮捕、行方をくらませた銀河計画元社長の北本幸弘(同45歳)を指名手配しました。
毎日新聞(1987年3月22日)
豊田商事グループへの責任追及や被害者救済の状況、再発防止のために取られた法制度的措置については、すでに詳しい解説記事や動画がたくさんありますので、ここでは省略させていただきます。
過去に例を見ない大規模で巧妙な詐欺商法のため、早くに被害者からの訴えが多数寄せられていたにもかかわらず、警察は決定的な犯罪の証拠をつかめず、「民事不介入」の原則にもとらわれてなかなか動かなかったことが、ここまでの大きな被害を出すことになりました。
それでは、豊田商事事件の中心にあった永野一男とはどういう人物だったのか、乏しい情報からわかっていることをまとめてみます。
【永野一男の生い立ちと就職】
永野一男は、1952(昭和27)年8月1日に、岐阜県恵那郡東野村(現在の恵那市東野)に生まれました。
永野の家は東野村の国鉄明知(あけち)線(今の明知鉄道)
のそばにあった(写真は付近の現在)
当時の東野(ひがしの)村は決して豊かとはいえない農村だった上に、出典がはっきりしませんが、永野の父親には障害があって満足に働けないため、祖父が農業で一家を支えていたと言われます。
小学5年生の永野一男
(「SHOOT」1985年9月号)
上の写真は、永野一男が小学5年生の時に社会見学に出かけるときのものですが、このころは祖父も健在でまだ幸せだったのか、表情もごく普通の小学生に見えますし、当時の担任の記憶にもほとんど残っていない目立たない生徒だったようです。
ところが、永野が小学校を卒業するころに祖父が亡くなったことから、母親は仕方なく息子の一男を連れて島根県の実家に身を寄せました。
時期は不詳ですが、その時までに両親は離婚しています。
しかしその母までも家を出てしまったため、永野一男は15歳の時に島根県浜田市国分町の叔父(母の弟)の家に引き取られ、そこで中学を卒業します。
永野が中学を卒業した1968(昭和43)年の高校進学率は全国平均で76.8%(学校基本調査)で、農村部はそれより低かったでしょうが、中卒で就職する人はもう少数派になっていました。
そんな中、永野は同年4月に集団就職*で東海地方に行き、トヨタ自動車系列の日本電装(現在のデンソー)に入社、刈谷工場で働き始めます。
また、工場勤めの傍ら愛知県立刈谷高校の定時制にも入学しました。
*1975(昭和50)年に最後の集団就職列車が運行された
集団就職で九州から名古屋駅に着いた若者たち
(撮影年不詳)
もちろん、すべての人がそうというわけではありませんが、安全を犠牲にして収益を最優先させたため多数の焼死者を出したホテルニュージャパンの社長・横井英樹のように、貧しい家庭環境で苦労を重ね、自分の才覚と努力で成り上がった人の中には、信じられるものはお金だけで、どんな手段を用いても金を稼ぐことが自己目的になってしまう人がいます。
永野一男もそのひとりだったように思われます。
このままでは学歴もない自分は安月給のままで将来性もないと思ったのでしょう、永野は2年で同社を辞め、「勉強よりも実社会に出たい」と2ヶ月後には刈谷高校も退学します。
【倫理不在のカネもうけの果てに】
日本電装を退職した永野は、消火器の販売や不動産会社などを転々とした後、名古屋の商品先物取引*業「岡地(おかち)株式会社」(現在の本社は東京)に入社します。
*ある商品を将来の一定日時に一定の価格で売買することを現時点で約束する取引。売り手はあらかじめ決めた価格よりその期日に高値であった場合は損をし、安値になると得をする(買い手はその逆)ことから、投機目的にも使われる
永野はこの会社で働きながら、「モノを作るより、左から右へとモノを動かすのが賢いやり方だ」と思ったようです(先述の「週刊現代」の記事参照)。
というのも、非常に有能な営業マンだった永野は高い販売実績をあげて年収600〜700万円を得るようになったのですが、数年前に工場で働いていたころの月給はわずか1万円ほどだったからです。
もし永野がこの会社で地道に働いていたら、その人生はかなりゆとりあるものになったと思われますが、今風に言うと「今だけ、金だけ、自分だけ」だった永野は、ギャンブルのように一攫千金の金儲けを追い求めてしまったのです。
彼は顧客の3000万円もの金を小豆の先物取引につぎ込み、1800万円の大穴を開けてしまいました。
それが発覚して「岡地」を懲戒解雇された永野は、のちの「ベルギーダイヤモンド」の原体験となるダイヤの訪問販売会社ほか職を転々とします。
しかしうまくいかずに金に困ったのか、1976(昭和51)年3月30日には大垣競輪場のトイレで164万円が入った財布をすって逮捕されています。
そうした紆余曲折を経て、1978(昭和53)年ごろ、友人とゲーム機器のリース会社「名東商事」を設立したのを始まりにし、同年7月に貴金属販売・有価証券保有利用の「豊田商事」を設立したのは、先に述べたとおりです。
商号に「豊田」と入れたのは、自分が最初に就職したのがトヨタ自動車系列の会社であったことと、トヨタグループの一つと錯覚されることを狙ったものでした。
こうした経験を通して永野は、事業はマネーゲームで商売に道徳/倫理はいらないという信条を身につけ、豊田商事を舞台にまさにそれを実践したのです。
世はまさに、多くの人がカネ儲けに憑かれたバブル経済の「虚業の時代」にまっしぐらに向かっていました。
そうした社会風潮にも駆られるように、強烈なカネ儲けの意志を抱いた永野でしたが、そのカネを何にどう使うのかという目的もビジョンも希薄だったようです。
朝日新聞(1985年6月20日)
いかにして(How to)カネを儲けるかの知恵をしぼる欲望はあっても、それが何のためか(What for)を熟考するだけの知性がなかった永野一男の虚しい人生は、あっけない幕切れを迎えました。
(前掲「週刊現代」2016年6月26日号)
救急搬送される瀕死の永野一男
(前掲「SHOOT」)
生前の永野は、「顔を知られると殺される」とマスコミを嫌い、社員や幹部にもほとんど顔を見せなかったそうです。
彼の顔写真が非常に少ないのはそのためです。
それだけ、自分のやっている詐欺的なペーパー商法がいかに悪どく反社会的なものであるかの自覚があったのでしょう、何人もの女性とつき合いながら家族に累(るい)が及ぶ事を避けるためもあり、生涯にわたり結婚することはありませんでした。
ただ、大阪北新地のホステス女性(当時29歳)との間に、死の前年の1984年11月21日に娘が生まれ、永野は誕生の2日前に認知しています。
そのため、永野の死後に被害者が損害賠償の民事訴訟で7ヶ月の女児を唯一の相続人として訴える事態が起きましたが、女児側は相続放棄をしたと思われます。
毎日新聞(1985年7月12日夕刊)
子どものころの不運をバネにして、30歳そこそこで豊田商事を創業し、7000人もの従業員の総帥となりながら、得意の絶頂にあった時でさえ顔をさらす事を極端に避けて「殺されるかもしれない」と怯(おび)え、ついに32歳で凶刃に倒れた永野一男の生涯を見る時、小川の心中には、当然の報いという思いと哀れを覚える気持ちが交錯します
もしも彼の生育環境がもっと良いものであったなら、その有能さは別の形で発揮されたことでしょうし、先に書きましたように「岡地」で真面目に働いておればその生涯はまったく違ったものになったことでしょう
豊田商事グループの詐欺商法で自殺者まで出たことの罪を、永野は決して免れることができません。
しかし、子どものころの悪しき生活条件や人間関係がいかにその人の一生を歪め狂わせてしまうか、あらためて思わずにおれなかった小川です
終わり🔚
読んでくださり、ありがとうございました
次回もリクエスト企画にします