最悪の大火災③ 

ホテルニュージャパン火災

 1982(昭和57)年

 

 

【ご注意】今回は、①大阪の千日デパートビル、②熊本の大洋デパート、③東京のホテルニュージャパンという3つの大火災事件を取り上げています。

ビル火災の恐ろしさを伝え、このような悲劇を絶対に風化させたくない気持ちから、当時の新聞・週刊誌の記事と写真を多く掲載しています。

辛くなる記事・写真もありますので、前もってお伝えさせていただきます。

 

千日デパートビル火災(日本経済新聞)

 

大洋デパート火災(日本経済新聞)

 

ホテルニュージャパン火災(時事通信)

 

【ホテルニュージャパンと火災の状況】

ホテルニュージャパンは、1936(昭和11)年の2.26事件で反乱軍が占拠したことでも有名な赤坂の日本料亭「幸楽」(第二次大戦中に撃墜されたB29が直撃して焼失)の跡地に建てられたホテルです。

 

2.26事件当時の日本料亭「幸楽」


当初は高級「アパートメント」として着工されたのですが、1964(昭和39)年の東京オリンピックで宿泊施設が不足するということから、多様なニーズに対応する都市型多機能ホテルへと計画変更され、1960(昭和35)年に開業(地下2階、地上10階)しました。

 

 

しかし、同時期にホテルニューオータニなどいくつものホテルが開業したことから、ホテルニュージャパンは開業以来ずっと赤字続きだったようです。

そこでホテルの経営者だった大日本製糖の藤山覚一郎社長に依頼され、1979(昭和54)年に大日本製糖の大株主だった横井英樹個人と彼がオーナーの東洋郵船などがホテルを買収し、横井自ら社長になったのです。

 

横井英樹社長

 

そして、横井社長による徹底した営利第一主義の経費削減方針のもと、見かけの豪華さとは裏腹に防災・安全対策がまったくないがしろにされた同ホテルで、死者33人(うち外国人22人)、重軽傷者34人を出す大火災が起きたのです。

 

朝日新聞(1982年2月8日夕刊)

 

1982(昭和57)年2月8日の午前3時半過ぎ、ホテル9階の客室から出た火は、9階から10階へと燃え広がり、両階の約4300平方メートルを焼きました。

通りかかったタクシー運転手からの119番通報で、東京消防庁からポンプ車・ハシゴ車など116台、約650人もの消防隊員が駆けつけて消火に当たりましたが、発見が遅かったのと高層階の火災のために消火に手間どり、約9時間後の翌日午後12時36分にようやく鎮火しました。

 


実際の映像と再現映像によるテレビ番組↓

 

 

間一髪で救助された宿泊客

 

【出火原因と大惨事の要因】

火元は9階の938号室(下の9階平面図の)で、宿泊者名簿によるとその部屋にはディッカー・ステファンさんというイギリス人(火災で死亡)が宿泊しており、彼の酒に酔っての寝タバコが火災の原因でした。

 

 

そのため、火災の後に横井社長は「ホテルは被害者で、悪いのは火元の宿泊客」という趣旨の発言を繰り返しています。

 

しかし、千日デパートビルでも大洋デパートでもそうでしたが、1本のタバコの不始末による失火が大惨事につながったのは、建物の経営者・管理者の火災に対する危機意識と防災対策がまったく欠けていたからです。

 

朝日新聞(1982年2月8日夕刊)

 

開業当時は法的な規制がまだゆるく、またホテルニュージャパンがずっと赤字だったこともあり、もともと防災設備も防火対策もお粗末なものでしたが、それを引き継いだ横井社長は、高級家具やシャンデリア、美術品など見た目の豪華さの演出には資金を惜しまず投入しながら、防火設備の違法状態を改善しようとはまったくしませんでした。

 

前回までのブログをお読みくださった方はご存じのように、1972年の千日デパートビルと1973年の大洋デパートの大惨事で、ビル火災の恐ろしさが深刻に受け止められ、1974年の消防法改正で「特定防火対象物」(ホテルやデパートなど不特定多数の人が出入りする建物)に対してすべての消防用設備等の設置を既存の建造物にもさかのぼって適用する条項が設けられました。

ところが横井社長は、当局からの改善勧告も内部からの進言もことごとく無視する態度をとり続けたのです。

 

その結果、このままでは営業停止処分を科すと言われてようやく決めたスプリンクラーの設置工事もまだ始まっておらず、そのほかの消防設備(火災報知器、煙感知器、非常用放送設備など)も設置業者による定期点検・メンテナンスを費用削減のために契約解除したことから、故障したまま放置されて役に立ちませんでした。

 

横井社長がした対策は、消火器を何本か買い増したぐらいだったそうですが、従業員の数も大幅に削減され(横井の社長就任時には320人いた正規従業員が、火災当時には134人と4割にまで減らされていた)、非常時の対応や客の誘導の訓練もまったくせず、手動式の館内非常ベルも従業員が使い方を知らなかったこともあって使われることはありませんでした。

 

さらに、館内平面図に見られるように、廊下が120度のY字型に組み合わさっているため方向感覚が取りにくい構造(当初は住宅として設計され、不慣れな人が多数出入りすることは想定されていなかった)であり、しかも本来なら不燃・難燃性にしなければならないカーテンやシーツ、じゅうたんも可燃性で、燃えると有毒ガスが発生する化学素材のものが多く使われていました。

 

 

また防火性であるべき客室同士の間仕切りやドアも、木製であったりブロックを積んで板を張り付けただけのため、次々と延焼していきました。

 

加えて、本来なら稼働しているはずの全館加湿装置は、横井社長の命令で電気代節約のために止められており、館内が非常に乾燥した状態であったことも火がすばやく燃え広がった要因でした。

 

そして何より同ホテルを支配していた職場の「空気」をよく示しているのが、仮眠のために9階に上がってきて異変に気づいた従業員が、火元となった938号室の内部が燃えていることを確認しながら、「ボヤで大騒ぎをすると社長に怒られる」と火災の発生を非常ベルで館内に知らせることをためらって消火器を探しに行き、また消防にもすぐに知らせようとしなかった事実です。

先に書いたように、消防に真っ先に通報したのはたまたま通りかかったタクシーの運転手で、ホテルからの通報は20分も経ってからのことでした。火災での20分の遅れは、生死を分けることにつながります。

 

また、駆けつけた消防隊員が9階に行く非常階段をホテルの守衛に聞いたところ、「社長に確認してから……」とすぐに教えようとしなかった話や、逃げ遅れた宿泊客がまだいるにもかかわらず、横井社長が秘書にロビーにある美術品や高級家具を運び出すよう指示し、「客の救助が優先ではないですか」と抵抗する現場の従業員に「社長命令だ!」と秘書が怒鳴りつけた話もよく知られています。

 

横井社長が宿泊客の救助より優先させた

豪華なフランス製高級家具「ルイ14世」

 

そのことは、大洋デパート火災の時にもワンマン経営者であった山口亀鶴社長が、上層階では火災がまだ収まっていないにもかかわらずめぼしい商品を運び出して避難させるよう従業員に指示した話とも重なり、損得にしか目がいかない経営者のモラル崩壊をまざまざと示しています。

 

このようにホテルニュージャパンの大惨事は、知れば知るほど横井英樹社長の金儲け第一の強権的独裁体制のもとで、起こるべくして起こった人災だったと言っても過言ではありません。

 

現場に現れて

「9階と10階だけで済んだのは不幸中の幸い」

と拡声器で話す横井社長

 

横井英樹自筆の「出火お詫び」

 

【横井英樹という人物】

横井英樹は本名を横井千一と言い、1913(大正2)年7月1日に愛知県中島郡平和村(平和町を経て2005年に稲沢市に編入)の貧しい農家に、横井鉞次郎(えつじろう)と政の次男として生まれました。

 

 

父は酒乱で仕事もせず家族に暴力をふるうような男で、母が機織りをして生計を支えていました。

母親の苦労を見て育った横井は、小学生(義務教育で6年制の尋常小学校)の時から近所の人が好意で貸してくれた畑で野菜を作り、売っていたと言います。

学校では成績が良く字もうまかった横井は、菩提寺の住職の援助で高等小学校(2年制)に進学しましたが、早く稼げるようになりたいと1年で中退し、15歳で上京します。

 

祖母がつけた「千一」という名を嫌って「英樹」に変えた横井は、メリヤス(伸縮性のある織物)問屋に丁稚奉公(でっちぼうこう:住み込みの下働き)に入りますが、17歳になる年の1930(昭和5)年に独立して「横井商店」という繊維問屋を起こします。

 

1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、軍需物資の生産で大儲けができると見た横井は、主に海軍の防暑服を製造する御用商人として、いくつもの工場を持ち3千人を雇用するまでに大成功しました。いわゆる戦争成金です。

 

旧日本海軍の防暑服

 

戦後は、会社を横井産業に改めて繊維関係の貿易に従事しましたが、これからは繊維よりも不動産が儲かると判断して1948(昭和23)年に東洋不動産を設立、各地で土地やビルを買っては高値での転売を繰り返し、当時のお金で20億円を超す資産を築きました。

 

1950年代に入ると、豊富な資金力に物を言わせて、日本橋に本店を構える老舗百貨店「白木屋(しろきや)」の株を買い占めた「白木屋乗っ取り事件」を起こした(結局は失敗)のをはじめとして、いくつもの会社を手中におさめていきました。

 

企業買収の過程で横井は、資金を得るために高い利息を約束して借りた多額の金を踏み倒すなど悪どいことを平気でやったことから恨みを買い、1958(昭和33)年には暴力団員にピストルで撃たれ重傷を負う「横井英樹襲撃事件」を招きます。

その時に受けた銃弾は摘出できずに体内に残り、横井は、「オマエらには2つしかないが、オレはタマを3つ持っている」とホテルニュージャパンの従業員を前に自慢げに語ったそうです。

 

なお、横井が乗っ取りに執念を燃やした白木屋百貨店ですが、奇しくも1932(昭和7)年12月16日に死者14人(焼死1人、転落死13人)を出す日本で最初の高層ビル火災を起こしています。

 

 

 

乗っ取りを仕掛けた先の白木屋社長から「どこの馬の骨とも素性の明らかでない者」とまで言われたように、家柄も学歴もなく自分の才覚だけで勝負しのし上がった苦労人の横井英樹は、自分の存在を世間に認めさせられるのはカネの力だと、金儲けがすべてという人間になっていったのでしょう。

 

また、今で言えば高校2年生にあたる17歳で起業してからの相次ぐ成功体験で、自分に絶対の自信を持つ横井は一種の万能感にとらわれ、自分を省りみるとか異なる意見にも耳傾けるといったことのできない独善的な人間になってしまったと思われます。

 

そのような人物が、よりにもよって大勢の人命を預かり安全性の確保を最優先にするべきホテル経営のトップになったところに、悲劇の根源がありました。

 

【火災の責任とその後】

ホテルニュージャパンの代表取締役社長・横井英樹は、同支配人兼総務部長であった幡野政男とともに火災の責任を問われ、業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴されました。

 

第一審の東京地方裁判所は1987(昭和62)年、

「被告人横井は、昭和五四年五月ホテル・ニュージャパンの経営を承継して以来、同ホテルの管理権原者として、所轄消防署等から、防火、消防用設備等の不設置や不備、欠陥等について、たび重なる指導、勧告さらには命令までも受けながら、その責を前経営者に転嫁し、あるいは赤字経営による資金難を口実としたり、消防法令等の遡及的適用を非難することなどに終始して、法令に定める消防用設備等の設置や消防計画の作成、これに基づく消火、通報、避難等の訓練を怠つたばかりでなく、営利の追求に腐心するあまり、既設の消防用設備等の保守点検、整備費用やホテル維持費等の支出を極端に抑制し、かつ、従業員の大幅な削減を行うなどした結果、本件火災発生時における初期消火の不手際、非常ベルや放送設備、防火戸等消防用設備等の不作動、ホテル館内の異常乾燥等の事態を招き、消防隊員らの迅速、果敢な消火、救助活動にもかかわらず、本件大惨事にまでたち至つたものである。同被告人には、多数の人命を預るホテル経営者として不可欠な、宿泊客の生命、身体の安全確保という最も重要でかつ基本的な心構えに欠けていたものといわなければならない。」

として、横井に禁錮3年(幡野に対しては禁錮1年6月、執行猶予5年)を言い渡しました。

 

横井は判決を不服として控訴しますが、東京高裁が1990(平成2)年に地裁の判決を認めて控訴棄却したため、最高裁に上告しました。

 

最高裁第二小法廷は1993(平成5)年11月25日、単なる法令違反・事実誤認・量刑不当の主張は上告理由に当たらないとしつつ、

「被告人は代表取締役として、本件ホテルの経営、管理事務を統括する地位にあり、その実質的権限を有していたのであるから、多数人を収容する本件建物の火災の発生を防止し、火災による被害を軽減するための防火管理上の注意義務を負っていたものであることは明らか」であり、「被告人に対し業務上過失致死傷罪の成立を認めた原判断は、正当である。」

として裁判官4人の全員一致で上告を棄却、横井に禁錮3年の刑が確定しました。

 

日本経済新聞

 

1994(平成6)年に服役した横井ですが、1996年には仮釈放されています。

そして1998(平成10)年11月30日の朝、突然倒れたまま虚血性心疾患で死去したそうです。享年85歳でした。

 

なお、犠牲者への補償ですが、1986(昭和61)年に総額15億5千万円の賠償金を求めて民事訴訟を起こした日本人の9遺族とは示談(内容の詳細は不明)が成立したようです。しかし、22人の外国人を含む他の犠牲者への補償がどうなったのかは分かりません。

 

東京都港区芝公園にある増上寺の敷地内には、「ホテルニュージャパンの罹災者のみたま とこしえに安らかんことをお祈りして」と台座に刻まれた聖観世音菩薩像が横井社長によって建立されています。

 

 

 

 

しかしホテルニュージャパン=横井英樹が、大惨事の過失責任を認めずに最後まで裁判で争い、千日デパートビルや大洋デパートの場合と比べてもろくに遺族補償もしなかった(もし誠意ある補償をした事実があれば教えてください)ことを考えると、このような像を作って祈ったのは「罹災者のみたま」に対してではなく、横井本人の心の平安ではなかったのかと小川は思わずにおれません。

ブログで見てきたように、千日デパートビルと大洋デパートの慰霊碑にはどちらも死亡者全員の氏名が刻まれていますが、この聖観音菩薩像にはただ建立者として横井英樹の名前しか書かれていないのです。

 

ホテルニュージャパンは、火災後に営業禁止処分のあと廃業し、建物は廃墟状態のまま長らく放置されていました。

そして、14年後の1996(平成8)年にようやく解体され、跡地にオフィスと高級賃貸住宅が入る超高層のプルデンシャルタワーが2002(平成14)年に完成しています。

 

 

※ホテルニュージャパンの火災をめぐっては、東京地方裁判所の判決文に、横井英樹の身上・経歴を含め、裁判所が認定した事実が非常に詳細に書かれていますので、詳しく知りたい方はこちらをご参照ください。↓

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

1972年、1973年そして1982年と3件の大火災について見てきました。

それを通して小川が率直に思ったことは、なぜこれほどまでに悲劇が繰り返されねばならないのかということです。

 

今回は取り上げませんでしたが、ホテルニュージャパン火災の2年前、1980(昭和55)年11月20日に、宿泊施設としては戦後最悪の惨事(死者45人、負傷者22人)となった川治プリンスホテル雅苑(栃木県塩谷郡藤原町、現在は日光市)の大火災が起きています。



 

朝日新聞(1981年6月27日)

 

朝日新聞(1987年2月12日)


この火災をきっかけにして、1981(昭和56)年からホテル・旅館の防火基準適合表示制度(「適マーク」制度)が創設・施行されました。

 

 

Wikipedia「ホテルニュージャパン火災」には、同ホテルに東京消防庁が「「適」の合格点を与えていた」という記述があり小川は驚きましたが、これは誤りで、「適マーク」が交付されていなかった同ホテルで火災が起きたことから、その後この制度が一気に普及したとのことです(牧野恒一「適マーク制度の変遷と今後の課題」東京理科大学火災科学研究所アーカイブ所収)。

 

こうした法制度の改革・改善はとても大事なことですが、1972年・73年の大火災を機に1974年に改正された消防法の趣旨が、ホテルニュージャパンにはほとんど活かされていなかったように、責任ある立場の人間が横井社長のように利益最優先で経営モラルが低いままであれば、法制度の抜け穴を通って何度でも悲劇が繰り返され、犠牲者の死と遺族の悲しみが際限なく積み上げられていってしまいます。

 

人間は「ホモ・サピエンス(知恵あるヒト)」と自称していますが、その知恵の基本はいわゆる「後知恵」です。

 

小川が子どものころから好きでよく読んだギリシャ神話に、ある兄弟神の話があります。

 

兄のプロメテウス(天上の火を大神ゼウスの目をごまかして人間に与えた神)は「先に(=プロ)考える者」という名の通り先見の明があります。しかし、「後で(=エピ)考える者」という意味の名を持つ弟のエピメテウスは、何事も経験してからでないと知恵が働きません。

 

火をもたらすプロメテウス

 

詳しいいきさつは省きますが、自分を出し抜いたプロメテウスと人間を懲らしめようと考えたゼウスは、弟のエピメテウスにパンドラという美しい女性を贈りました。

ゼウスのはかりごとを予見していた兄は、弟に何度もゼウスからの贈り物は受け取るなと注意していたのですが、パンドラに魅せられたエピメテウスは受け取ってしまいます。

ゼウスが彼女に、「この箱は決して開けるな」と言って持たせたのが有名な「パンドラの箱」です。

 

開けるなと言われると開けたくなるのが人情で、ついにある日、パンドラはがまんできずに箱を開けてしまいます。すると、ゼウスが箱に封じ込めていた疫病や悪徳などあらゆる邪悪なものが飛び出して広がり、世界を悪で汚染してしまったのです。

 

箱を開けるパンドラ

 

エピメテウスはそこでようやく兄の忠告を思い出し、ゼウスの計略にまんまとかかった自分の愚かさを知って恥じますが、その時、箱の中にただ一つ「希望」が残っているのを見つけた、というお話です。

 

このお話のように、プロメテウスのような予知能力を持たないエピメテウスである人間は、失敗の経験から学んで後知恵を働かさない限り、未来に希望を見出すことはできないのです。

 

しかしわたしたち人間はしばしば、カネや権力に魅せられ、今は/ここは/自分は例外だという思い込みにとらわれ、ポジティブ思考や未来志向など「前向き」なポーズをとって、不都合な現実や過去の失敗から目を背けがちです。

また、「過ちは繰り返しません」と誓ったのに、世代が変わると「昔とは違う」と言いながら同じ過ちを繰り返してしまうこともあります。

 

こんな悲しみ、こんな悲劇は私たちで終わりにしてほしい——これが災害や犯罪の被害者・遺族のせめてもの願いだと小川は思います。

そのためには、過去の過ちから目を背けず、多くの人の犠牲によって得られた教訓を受け継ぎ、人間の持つ後知恵をしっかりと働かせて希望へとつなぐ努力をしなければならないのではないでしょうか。

 

「鳥の目と虫の目」という言葉があります。

物事の全体像を大きく見てとらえるのが空を飛ぶ「鳥の目」で、以上は小川が「鳥の目」で見て思ったことを書きました。

 

一方、目の前にある今/ここの現実に焦点を当ててとらえるのが地を這(は)う「虫の目」です。

「虫の目」で見たときに小川が思ったのは、もし自分が火災現場に置かれたらどうしたらいいのか、何ができるのかということです。

そんなことを考えながら、前回のブログでも「救助袋」の使い方についての動画を載せました。

 

今回は、煙からの逃げ方や消火器、消火栓の使い方などについて各地の消防局・消防本部が作成している啓発動画から、小川が分かりやすかったものを3つ紹介しておきます。知らないことがたくさんありましたので、よろしければ時間のある時にご視聴ください。

 

煙の怖さとその対処↓

 

消火器の正しい使い方↓

 

屋内消火栓の使い方↓

 

 

参考文献 

FOCUS』1982年2月19日号

 

FOCUS』1982年4月16日号

 

読んでくださり、ありがとうございました🥹



 

①大阪の千日デパートビル大火災

 

②熊本の大洋デパート大火災

 

次は家庭内暴力について書きます✎