最悪の大火災② 

大洋デパート火災

 1973(昭和48)年

 

 

 

【ご注意】今回は、①大阪の千日デパートビル、②熊本の大洋デパート、③東京のホテルニュージャパンという3つの大火災事件を取り上げています。

ビル火災の恐ろしさを伝え、このような悲劇を絶対に風化させたくない気持ちから、当時の新聞・週刊誌の記事と写真を多く掲載しています。

辛くなる記事・写真もありますので、前もってお伝えさせていただきます。

 

千日デパートビル火災(毎日新聞)

 

千日デパートビルの大惨事からわずか1年7ヶ月のち、今度は熊本の大洋デパートで火災が起き、またしても多数の犠牲者が出ました。

 

大洋デパート火災(西日本新聞)

 

朝日新聞(1973年11月30日)

 

【大洋デパート火災の状況】

大洋デパートは、1952(昭和27)年創業の熊本を代表する百貨店でした(「太洋」という表記も併用されていたようですが、このブログでは「大洋」に統一します)。

 

買い物客でにぎわう店内の様子

(TBS NEWS)

 

朝日新聞(1973年11月29日夕刊)

 

1973(昭和48)年11月29日午後1時20分ごろ、熊本市の中心街にある大洋デパート本店(地下1階、地上9階)の2階と3階をつなぐ従業員用階段付近から出火、火は3階以上に燃え広がり、死者104人、負傷者67人という大惨事になりました。

 

朝日新聞(1973年11月30日)

 

朝日新聞(1973年11月30日)

 

同店は普段木曜は定休日なのですが、この日は歳末商戦のため特別に開店しており、4千人ほどの買い物客で賑わっていました。

しかし、臨時営業とあって来店者は普段より少なめだったそうで、もしいつも通りの人が店内にいた時であれば、犠牲者はこれだけではすまなかったと思われます。

 

犠牲者の死因の多くは、千日デパートビルの時と同様に噴き上がってくる煙と有毒ガスを吸い込んだためで、亡くなった後から炎で焼かれた人もあったそうです。

 

朝日新聞(1973年11月30日)

 

火災現場の緊迫した状況を、新聞は次のように伝えています。

 

「空に噴き上げる黒煙の下で、ハシゴ車に殺到する屋上の人たち。窓からは真っ赤な猛火が噴き出し、身を乗り出した女性のひきつった顔がみえる。助けを求める必死の叫び声、泣き声が、窓から、屋上からむなしく響いた。(略)炎と有毒ガスの密室に閉じこめられて、ようやく消防士にかかえ出された客も店員も、顔は黒く染まり、ぐったりと動かない。やっと助かった人たちも、あまりのむごさにふるえ続けた。」(朝日新聞1973年11月30日)

 

読売新聞

 

「「6階で焼死体を発見」と8時過ぎに無線連絡。捜索に当たった消防署員は「遺体は非常階段近くにかたまるようにして倒れていた」と話した。8時20分過ぎには「8階にも焼死体があるらしい」と新しい情報も。「あの中に遺体がまだあるんだろうな——」消防署員の表情はきびしかった。

夜10時半すぎ、6階南東すみの窓ぎわに、約20人が折り重なるように死んでいるのが見つかった。その中に、一歳くらいの子どもを胸に抱きしめたまま死んでいる婦人もある。そばには3歳くらいの女児の遺体。楽しいショッピングが死出の旅になった。

死者の上に机や家具が倒れかかり、泥と水に半ばつかり、よくみないと人かボロかわからない状態。ツーンと鼻をつくにおいと煙がまだたちこめる中で歯をくいしばっての搬出が続いた。」(同上)

 

「母ちゃん、こんなになって」

パート従業員だった母/妻の遺体に

泣き叫ぶ長男と夫(朝日新聞)

 

NHKニュースの映像↓

 

毎日ニュースの映像↓

 

【出火の原因と大惨事の要因】

 

朝日新聞

 

出火元となった2階から3階へのらせん階段は、午前11時から午後2時まで交代で取る昼の休憩時間に従業員がタバコを吸う喫煙場所になっており、午後1時20分という出火時間と、らせん階段で燃え尽きたタバコのフィルターが発見されたことから、これが原因ではないかとみられています。

タバコのフィルターは、商品の段ボールと壁に挟まる形で見つかっており、階段に積み上げられていた商品を入れた段ボール箱に火が燃え移ったようです。段ボール箱はこの階だけでなく、1階から6階までの階段に置かれており、火が燃え広がると同時に、出た煙や有毒ガスが階段をダクトのように上の階へと噴き上がっていったとみられています。

 

朝日新聞(1973年11月30日)

 

これだけの大惨事を引き起こした要因は、大洋デパートの防火・防災体制が消防法で求められる最低限の設備すら備えていなかったことにあります。

 

熊本市消防局は、それまでに何度も特別査察をおこなって改善命令を出していましたが、同デパートはそれを無視したまま放置していました。

スプリンクラーについてはようやく前年夏から工事を始めましたが工事中で使えず、排煙装置や煙感知器も同様でした。

 

また災害時の避難についても、当時隣接するビルを借りて売り場の増築工事をしていた関係で、火災時の避難路として最も安全性の高い非常用の外階段が撤去・閉鎖されていたほか、救助袋の設置もなく、停電時の自家発電機も動かず、非常口を知らせる誘導灯がそもそも自家発電機に接続すらされていなかった疑いもあるとのことです。

 

 

 

また、従業員への避難誘導訓練も実施しておらず、従業員自身が逃げるのに精一杯でした。

昭和のデパートの女性店員にはミニスカートにヒールのある靴という服装が多く、それも非常時の行動を制約したという防災専門家の指摘もあります。

 

昭和のデパートの女性店員(例)

 

さらに、適切な避難誘導がなされないまま防火シャッターが閉まると、逆に逃げる人の行方を妨げる逆効果にもなり、この火災でも4階と6階の階段の防火シャッターのそばに焼死者の多くが倒れていたそうです。

 

火元に近い3階の防火シャッターは

商品棚に引っかかって閉まらなかった

(朝日新聞)

 

さらに、3階から上の窓は内側にベニヤ板が張られて商品棚が設置されていたために、停電になったとたん店内が真っ暗になり(自家発電機も作動せず)、館内放送も避難誘導もないまま視界を閉ざされた人びとは逃げまどうことになりました。

それだけではなく、消防隊が窓を破って放水しようとしても、ベニヤ板や商品棚に邪魔されて水が奥まで届かないこともあったようです。

 

加えて、熊本市消防局にはハシゴ車とシュノーケル車(屈折式ハシゴの先端に注水装置を備えた消防車)が各1台しかなく、それらもアーケード街にはばまれて現場になかなか近づけなかったことも被害を大きくした一因となりました。

 

シュノーケル車

 

【火災の責任と教訓】

 

 

大火災から約半年後の1974(昭和49)年5月27日、犠牲になったうちの82人(客35人、従業員など47人)の遺族74世帯239人が、大洋デパートと山口亀鶴社長を相手どって、総額37億4846万円の損害賠償請求の訴えを熊本地裁に提出しました。

 

山口亀鶴社長

 

遺族側は、大洋デパートと同社の株式のほとんどを所有するワンマン経営者の山口亀鶴社長が、利益優先のあまり人命を軽視し安全対策をないがしろにしてこれほどの犠牲者を出す大惨事を引き起こした責任の重大さは故意に等しいと主張し、法人と山口社長個人は共同不法行為により連帯して損害を賠償する責任があるとしました。

 

訴状では、損害賠償は遺失利益(生きていれば得られたはずの利益)にかかわらず死者一人一律に3300万円とし、遺族への慰謝料は配偶者600万円、親と子はそれぞれ300万円としています。

なお、大洋デパートは遺族に相当額の賠償金を支払ったようですが、民事訴訟の結果の詳細は不明です。

 

それとは別に1974(昭和49)年11月30日、熊本地検は山口社長ら幹部3人と、3階の火災責任者、防火管理者の計5人を業務上過失致死傷の容疑で熊本地裁に起訴しました。

 

朝日新聞(1974年11月30日)

 

しかし、第一審の審理途中に、責任の中心であった山口社長と常務取締役が死去してしまったため、熊本地裁は残りの3人に対して無罪の判決を下しました。

絶大な権力を握っていた山口社長のもとで、ヒラの取締役や現場の責任者には行使できる十分な権限もなく過失責任も問えないとの判断だったようです。

それに対して検察が控訴し、福岡高裁は1988(昭和53)年6月に逆転有罪の判決を下しましたが被告側が上告しました。

それを受けて最高裁は1991(平成3)年11月、山口社長と常務には業務上過失致死傷の責任を認めたものの、3人については権限が与えられていなかったなどと無罪の判断を下し、社長の死去というアクシデントがあったとはいえ、結局この大災害で誰も現実には刑事責任を問われないことになったのです。

 

ただ、最高裁の判決でも、防火責任者が権限のない名ばかりのものであった問題など、形ばかりの防火・防災体制を改める必要性が指摘され、また、前年に起きた千日デパートビル火災に次いで大洋デパート火災という大惨事が引き起こされたことから、消防法や建築基準法の改正が急がれ、既存の建物にも屋内消火栓やスプリンクラーなどの消防設備を遡及的に設置することが定められました。

 

朝日新聞(1973年12月1日)

 

【大洋デパートのその後】

大洋デパート本店は、1975(昭和50)年11月に消防設備を整えて再オープンし、三越との提携を強化するなど再生を図りましたが客足は戻らず、1978(昭和53)年6月17日午後5時をもって閉店しました。

 

朝日新聞(1978年6月18日)

 

その後この建物は、ダイエー熊本下通り店などを経て解体・建て替えられ、2017年4月から新たな商業施設がオープンしています。

 

 

そして、現場の一角に犠牲者の名前を背面に刻んだ慰霊碑(「太洋火災殉難の碑」)が建立されましたが、建物の解体にともなって近くの白川の河岸緑地に移転されました。

 

 

 

もう2度とこのような出来事は繰り返すまいと誓ったはずだったのですが、しかし、大規模なビル火災の悲劇は、これで終わりはしなかったのです。

 

(③につづく)

 

こちらが ①大阪の千日デパートビルのブログです↓