最悪の大火災① 

 

千日デパートビル火災

 1972(昭和47)年

 

【ご注意】今回は、①大阪の千日デパートビル、②熊本の大洋デパート、③東京のホテルニュージャパンという3つの大火災事件を取り上げていきます。

ビル火災の恐ろしさを伝え、このような悲劇を絶対に風化させたくない気持ちから、当時の新聞・週刊誌の記事と写真を多く掲載しています。

辛くなる記事・写真もありますので、前もってお伝えさせていただきます。

 

 

【千日デパートビル火災の状況】

今では大阪を代表する歓楽街の一角を占めている千日前(せんにちまえ)は、江戸初期に大規模な墓地が作られ刑場と焼き場が併設された地区で、その地名は千日念仏が唱えられることから千日寺とも呼ばれた法善寺に至る門前であったことに由来します。

 

現在の法善寺

 

火災があった建物は、1932(昭和7)年に建てられた大阪歌舞伎座が、移転にともなって1958(昭和33年)に商業施設に改築され「千日デバート」(日本ドリーム観光が経営)となったものです。

 

大阪歌舞伎座

 

ただ、デパートとは言っても、百貨店ではなく実態はさまざまな個別店舗が入っている大規模な雑居ビルで、そのことも火災などへの対策がバラバラでおざなりなものになっていた大きな要因でした。

 

 

 

50年前の惨事を振り返るニュース映像(関西テレビ)↓

 

 

朝日新聞(1972年5月14日)

 

1972(昭和47)年5月13日の午後10時40分ごろ、大阪市南区難波新地にある千日デパートビル(地上7階、地下1階)の3階付近から火災が発生し、またたく間に火が広がって3階から5階が全焼しました。

 

3階のエスカレーター付近

(朝日新聞 2022年5月13日)

 

火元となった衣料品スーパー「ニチイ千日前店」の3階では電気工事をしており、工事の現場責任者のタバコの火の不始末が原因と見られました。

 

 

この時間にまだ営業していたのは、7階のアルサロ(アルバイトサロン:OLや主婦など素人の接客をウリにしたキャバレー)「プレイタウン」だけで、火災で亡くなった118人はすべてこの店の客とホステスら従業員でした。

 

7階の窓から助けを求める人びと

 

逃げようと7階から飛び降りて死亡した人もありましたが、燃えなかった室内で亡くなった人たちは、火災による黒煙と、化学繊維の商品やプラスチックなどを使った内装の新建材が燃えて発生した有毒ガスを吸い込んでの窒息死でした。

 

火災現場の凄惨な様子を、新聞は次のように伝えています。

 

 

「可燃物の巨大なエントツとなったデパート。窓という窓から吹き出す黒煙と新建材の有毒ガス。その煙を突き抜けて次々と人間が降ってはコンクリートにたたきつけられていった。煙と炎につつまれた建物の内から聞こえてくる女性の悲鳴、助けを求める絶叫——週末の大阪・ミナミの夜はたちまち地獄絵となった。」(朝日新聞 1972年5月14日)

 

火災現場のニュース映像↓

 

この火災で亡くなったのは、飛び降りた人22人(うち16人が女性)、プレイタウン内で96人(うち女性が53人)の計118人で、女性の69人はプレイタウンのホステスでした。

 

共同通信

 

50人がはしご車で救助された

 

千日デパート7階の平面図と死者の状況

(東京消防行政研究会作成)

 

7階プレイタウンの死者と避難・救助者の内訳

(大阪市消防局作成)

 

消防士の後に続いてプレイタウンに入った新聞記者は、室内の惨状を次のように書いています。

 

「意外にも、室内はまったく焼けていない。深紅や濃紺のビロードのカーテンにも、客室のシートにも焼けこげた跡ひとつない。だが、その室内に数え切れない死体が無念の表情で連なっていた。誰かが低い押殺した声でつぶやいた。「まるでアウシュビッツのガス室だ」。」

 

アウシュビッツ強制収容所のガス室で殺され

野積みにされた犠牲者の遺体

 

「客席と北側調理場の間のフロアに、かたまってくずおれている6人のホステスたち。色とりどりのドレス、ピカピカ光る金ラメ、銀ラメのクツ。床の上7、8センチの深さにたまった水の中、白ワイシャツ姿、30歳くらいの男が、上向きに横たわっている。その横に、顔をうずめるようにホステスが一人。チャイナ服の胸から、ビールのセン抜きが下がっていた。倒れかかったシートの上に、抱き合ったホステスが2人。ホールの真中付近、東側の窓ぎわに、重なり合った遺体の山。目を見開いたままの遺体が不気味だ。(略)

北側の調理室をのぞくと、(略)ブチ割られた換気扇の下の窓に、身を乗り出し、室内に足と腰だけを残した遺体が一つ。」(朝日新聞 1972年5月15日)

 

 

プレイタウンで働いていた女性の中には、主婦が家計のためにアルバイトで働いていた、いわゆる「ママさんホステス」が多く含まれていました。

奇しくも火災の翌日の5月14日(日)は「母の日」で、ビルの表には母の日にちなんだ垂れ幕の広告が下げられていました。

 

毎日新聞

 

犠牲者の遺体が運び込まれた小学校とお寺には遺族が駆けつけましたが、その中には母の日を前にお母さんを奪われた子どもたちの姿が多く見られたのです。

また、「小菊」など店での呼び名(源氏名)しか分からず、身元確認が難航したホステスさんの遺体もあったそうです。

 

 

朝日新聞(1972年5月15日)

 

関西テレビ

 

【火災の原因】

出火の直接の原因については、3階で電気工事をしていた現場責任者が、休憩時間にビールを飲んで現場に戻り、吸ったタバコをポイ捨てしたと供述したことから、警察は彼を現住建造物重失火、重過失致死傷の疑いで逮捕しました。

しかし、彼が証言を二転三転させ、また明確な証拠もないことから、結局この現場責任者は不起訴処分となり、火災の原因は不明とされたままになっています。

 

しかし、出火の直接原因はともかく、火の出た3階に設置されていた防火シャッターが閉まらず、火や煙がエレベータや階段を通って上の階へとまたたく間に広がったこと、同ビル1階保安室にいた保安係長が、手動で押された3階の火災報知器で火事の発生を知り消防へは通報したもののプレイタウンには連絡をしなかったこと(ただしその時点で連絡しても手遅れだったとして保安係長は責任を問われなかった)などにより、大惨事が引き起こされました。

 

また、雑居ビル特有の迷路のような内部構造だけでも危ないのに、ビルを経営する日本ドリーム観光と入居テナントがビル全体の火災を想定して防災対策を協議したり、共同で防災・避難誘導訓練を実施するといったことも何もしてきていませんでした。

 

それだけではなく被害者のすべてを出したプレイタウンでは、7階から屋上に出る非常口の鍵を持っていた支配人が鍵を持ったまま真先に逃げ出し、きな臭いにおいが漂ってきたので客たちが店を出ようとしたところ従業員がエレベータに乗るのを押しとどめ、また階段にも鍵をかけて客が出られないようにしたことなど、避難誘導とは真逆の対応を店側がしていたことが、助かった人からの聞き取りなどで明らかになりました。

客の避難をむしろ妨害するようなことをしたのは、混乱に乗じて飲み逃げをする客が出ることを恐れたからとのことです。

 

朝日新聞(1972年5月15日)

 

 

 

さらに根本的な問題は、同ビルの前身である大阪歌舞伎座が建てられた1932(昭和7)年には現在の消防法や建築基準法はもちろんなかったのですが、こうした古い建物については法令の一部しかさかのぼっての適用がされないため、現行法では当然設置していなければならないスプリンクラー設備や自動火災報知器とそれに連動して作動する防火シャッターなどがなくても違法とはされずに、「既存不適格」という危険な状態のまま見過ごされていたのです。

 

 

【火災の責任と教訓】

千日デパートビル火災の刑事責任については、日本ドリーム観光とプレイタウンを経営する千土地観光の責任者2人ずつ、計4人が業務上過失致死傷容疑で起訴されました。

大阪地裁は1984(昭和59)年5月、審理中に死去して公訴棄却となった一人をのぞき、3人に無罪判決を下しましたが検察側が控訴し、大阪高裁は1987(昭和62)年9月に3人に執行猶予付ながら逆転有罪の判決を下しました。

今度は被告が上告し最高裁まで争われましたが、1990(平成2)年11月に上告が棄却されて3人の有罪が確定しました。

 

また、事件後に消防庁が既存不適格の建物を緊急点検したり、事件をきっかけに消防法等を改正し消防設備の一部を古い建物にもさかのぼって設置させるなど、雑居ビルや高層ビルの火災への対策が大きく見直され始めました。

 

朝日新聞(1972年5月16日)

 


『週刊新潮』1976年1月1日号

1971(昭和46)年12月25日に、死者163人を出した韓国ソウルの大然閣ホテル火災が起こり、高層ビル火災の恐ろしさが世界に知らされましたが、日本でも同様の災害が起きないかと危惧する防災専門家や消防関係者がいた一方で、日本は法律も消防設備も韓国よりしっかりしているから大丈夫だと楽観視する人の方が多かったそうです。

 

黒煙をあげる大然閣ホテル

 

しかしその約半年後に、日本でも千日デパートビル火災が起きたのです。

 

1976(昭和51)年11月13日、犠牲者を追悼する慰霊碑が高野山に建立されました。

 

 

碑文には次のような言葉が刻まれています。

 

    

昭和四十七年五月十三日午後十時二十七分頃大阪市南区千日デパート(地下一階地上七階)の雑居ビルの三階より出火、流入した猛煙により炎熱の地獄と化し逃げ道を必死に求めその苦しさに肉親の名を叫びながら遂に力尽き窒息死又は転落死による百十八名のいたましい犠牲者をだす日本最高の凄惨な大火災となる。事故後遺族の会(九十一遺族)は法廷内外において「いのち」の尊さを訴え防火設備等の充実に闘い続ける。ここに悲惨事を再び繰返えさないように願いをこめ「命は地球より重い」を合言葉に多くの人のカンパの援助を元に各精霊の未来永劫に安かれと祈念するとともに地球上からの災害絶無を期し末長くより多くの人たちの命を守る慰霊碑として建立す。

 

千日デパート遺族の会 慰霊碑建設委員会、千日デパート大火災被災者慰霊碑 1976-11-13

 

118人もの犠牲者を出したこの大惨事の教訓は、果たしてその後にどう活かされたのでしょうか。

 

建て替えられた現在のビル

(朝日新聞 2022年5月13日)

 

(②につづく)