今回はリクエスト企画ですニコニコ飛び出すハート

看守を殺して逃走 

中野刑務所脱獄事件

1961年

 

1983(昭和58)年に廃庁される直前の

住宅に取り囲まれた中野刑務所

(『中野のまちと刑務所』)

 
【事件の概要】
 
朝日新聞(1961年1月21日夕刊)
 
1961(昭和36)年1月21日、東京都中野区新井町にあった中野刑務所で、窃盗犯として服役していた清水義平(ぎへい、当時27歳)と武藤照雄(同28歳)が、2人の作業を担当していた看守の梁瀬三喜雄さん(同37歳)を殺害して脱獄する事件が起きました。
 
清水義平
 
清水は東京杉並区生まれの元水道配管工で身長162cm、1958(昭和33)年7月に窃盗41件、寸借詐欺7件、業務上横領などで捕まり、懲役4年6月(執行猶予を取り消された2年分を含む)の刑で服役、1963(昭和38)年5月に出所予定でした。
 
 
武藤照雄
 
武藤は川崎市生まれで身長168cm、神奈川県立の工業高校を卒業し成績も中程度だったそうですが(母親の話)、どこで道を踏み外したのか詐欺や窃盗で4回捕まっています。
1960(昭和35)年4月に女性の留守宅から鏡台など5点を盗んで捕まり、懲役1年の刑を受けて、この年の7月に出所予定でした。
 
中野刑務所は、25歳未満の男性成人受刑者で、刑期1年以上7年以下で入所歴のない者を収容していましたが、配管など営繕(建物や設備の改築・修繕)の仕事ができる者がいなかったので、経験のある清水と武藤が累犯刑務所から移されてきていたそうです。
2人は、5ヶ月ほど前から所内での仕事を一緒にしていて親しくなったようです。
 
黄色い丸が殺害事件が起きた学生寮
 
朝日新聞(1961年1月22日)
 
この日も2人は、昼食後に刑務所内の分類舎と呼ばれる建物で水洗便所の工事をしており、午後0時30分ごろに梁瀬看守が2人を連れて東門から構外に出、大八車(だいはちぐるま)で材料倉庫に洗面台を取りに行きました。
 
大八車(例)
 
その時、「ここの便所の修理も依頼されている」と嘘の作業を申し出た2人は、倉庫の近くにある学生寮(法務省職員子弟の学生が入っている刑務共済組合の施設)に梁瀬看守を誘い込みました。
2人は2階の便所で作業をするふりをしながら隙をみて武藤が梁瀬看守を突き飛ばし、清水が工事用のカジヤ(釘抜)で彼の頭を殴り、さらに用意していた麻縄で首を絞めて殺害、逃走したのです。
カジヤ(例)
 
午後1時半ごろ、勤務明けで帰宅途中の同所企画室長が、刑務所西側の公舎脇を走って逃げていく2人の服役者を見つけ追いかけましたが見失ったので、すぐに刑務所に通報*し、非常点呼をしてそれが清水と武藤であると判明しました。
 *当時、同刑務所に勤務していた職員の回想(「忌まわしい脱獄の日の記憶」)では、梁瀬看守が2人を連れて構外に出たまま連絡がないため、脱走と直感した正担当の看守が上司に連絡したのが第一報と書かれている
 
その後、看守部長が、鍵がかけられた上記学生寮の大便所の中で頭を殴られ血まみれになった梁瀬看守の遺体を発見しました。
 
刑務所は当初、2人が逃走しただけと考えて内々で見つけて処理するつもりだったようですが、看守が殺害されていることが分かったために警察に通報しました。
 
警視庁は、午後4時50分に都下に特別緊急警戒を発令、野方(のがた)警察署に特別捜査本部を設置して警視庁捜査一課や各署の捜査員、さらに機動隊員ら合わせて610人を投入し、2人の行方を探しました。
また中野刑務所も、看守や職員360人の捜査班を編成して徹夜で捜索を続けました。
 
毎日新聞(1961年1月23日)
 
上図のように彼らは、まず清水の友人2人を頼って訪ねますがいずれも転居していたため、梁瀬看守から奪った金で服を買い飲食をした後に映画館に入り、その夜は土管の中で寝たそうです。
 
 
翌22日の朝、東京都北区の国電(現在のJR)王子駅近くの映画館に入ろうと開館を待って映画館街をうろついていたところ、新聞で2人の写真を見ていた中学3年生から目撃通報があり、まず武藤が王子署員に逮捕されました。
 
読売新聞(1961年1月22日夕刊)
 
逮捕・連行される武藤照雄
毎日新聞(1961年1月22日夕刊)
 
清水もつい先程まで一緒でまだ付近にいるとの武藤の供述から、警察は北区一帯を包囲捜査していたところ、午後0時40分ごろに北区豊島にある下川タバコ店に「自首したい」と現れたため、店の公衆電話からの通報により急行したパトカーによって逮捕され、野方署の捜査本部に身柄を移されました。
 
清水義平逮捕の瞬間
毎日新聞(1961年1月22日夕刊)
 
こうして、窃盗犯に過ぎなかった2人が殺人を犯してまで行った脱走は、わずか1日で終わりを遂げたのです。
 
【裁判と判決】
清水と武藤の2人は、強盗殺人(梁瀬看守の腕時計と現金3千円を奪った)と加重(暴行を加えた)逃走罪で起訴され、1961(昭和36)年3月14日から東京地裁で審判が始められました。
 
ひと月半のスピード審理の末、4月28日に開かれた判決公判で荒川裁判長は、主犯格の清水に求刑通り死刑を、武藤に同じく求刑通り無期懲役を言い渡しました。
 
報道によると判決文では、「清水は酒を飲みたいため脱獄を計画し、内妻から音信の絶えていた武藤をさそって計画を実行したもので、受刑者が看守をあざむいて殺したことは同情の余地がない」と述べています。
 
朝日新聞(1961年4月28日夕刊)
 
2人は控訴しますが、東京高裁は1962年4月30日、東京地裁の判決を支持して控訴を棄却しました。
 
読売新聞(1962年5月1日)
 
さらに1963(昭和38)年3月28日、最高裁第一小法廷は上告を棄却し、清水への死刑が確定したのです。
 
読売新聞(1963年3月28日夕刊)
 
清水義平の死刑は、1967(昭和42)年10月26日に執行されています。 
 
武藤照雄の消息は分かりませんが、当時の無期懲役であればすでに出所している可能性が高いと思われます。
 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

清水義平と武藤照雄の2人は、窃盗(主に空巣泥棒)や詐欺・横領の前科はありますが暴行や傷害など暴力犯罪はそれまでにしておらず、刑期も満期まで務めたとしても清水であと2年4ヶ月、武藤に至っては半年ほどすれば出所できるところでした。
 
ところが、この事件を起こしたために清水は死刑となり、武藤も無期懲役になってしまいました。
単なる脱走ならまだしも、看守を殺害すればどうなるかぐらいは予期できたはずなのに、なぜこのような愚かなことをしたのか、まったく合理性を欠いた、常識では理解し難い脱獄事件ですびっくり
 
刑務所で清水は配管工の腕を買われ、他の服役者を指図して営繕の仕事をし、気が弱く見栄っ張りな遠藤は相棒でした。
 
服役態度や気分の安定などで囚人が1級から4級に分類*されていたうち、清水と武藤は近々3級から2級への昇格(最上位ランクの1級は、当時936人の服役者中2人だけ)が決まっていた模範囚だったそうです。
事件当日、2人の作業に看守が丸腰の梁瀬さん1人しかつかなかったのは、その安心感が災いしたとも言えますキョロキョロ
 *中野刑務所は当時、全国で唯一の「分類センター(分類刑務所)」として、効果的な矯正措置を講じるために囚人を分類する役割を担っていました
 
脱獄の首謀者は清水で、以前に犯した窃盗が発覚して執行猶予が取り消され刑期が2年延びた1年前くらいから脱獄の意志を同房の囚人仲間に漏らしていましたが、遠藤(隣の房)に話を持ちかけたのは前日の20日だったそうです。
 
清水は、神戸あたりに高跳びをするなどと遠藤に話して仲間に引き込みましたが、それが「計画」という名に値するようなものでなかったことは、わずか1日の「自由」で逮捕・自首したことからも明らかです。
 
しかも(遠藤には予想外だったようですが)、これまでしたこともなかった殺人を犯してまで逃げるにしては、そもそも何のための脱獄だったのか目的が不明で、新聞も、毎日新聞は「ただ出たい一心」、読売新聞は「酒がさせた殺人脱獄」と見出しにあげています。
 
毎日新聞(1961年1月23日)
 
読売新聞(1961年1月23日)
 
今では、2016(平成28)年に「再犯の防止等の推進に関する法律」(再犯防止推進法)が制定されて、矯正と再犯を防ぐための取組が刑務所内でも、また出所後においても、下の図のようになされてきています。
 
犯罪者・非行少年の処遇と社会復帰支援の取組
(法務省)
 
ただ次のデータを見ていただくと、刑法犯の検挙者数と再犯者数が毎年減少している一方、再犯者率は50%弱の水準(2022年で47.9%)で高止まりしていることが分かります。
 
 
再犯者率が高い要因としては、再犯時に「学歴なし」「職なし」「住居なし」「65歳以上」「知的障害あり」などが統計的にあげられるようですが(政府広報「再犯を防止して安全・安心な社会へ」2023)、ここには貧困などの社会問題や社会福祉の課題が大きく関係していると小川は思いますキョロキョロ
 
このように、犯罪者の更生と再犯防止は今日でも未解決の問題ですが、ましてやこの脱獄事件が起きた63年前には、犯罪者には刑務所の規律を守り課された刑期を務めさせることが中心で、それ以外にはわずかな工賃を与えて職業技術を伝授する(清水らが行っていた配管工事もその一つ)取組がなされていた程度でした。
 
とすれば、自分を待ちわびている家族がいるとか、やりたい仕事や受け入れてくれる職場があるといった出所後に希望の持てる人は良いとしても、配管工としての腕を持ちながら酒好きで窃盗やかっぱらいがやめられない清水や、出所が近づいても内妻からの連絡が途絶えて見捨てられた気持ちになっていた遠藤のような囚人は、将来の希望もなく刑務所での生活にも意味を見出すことができないでいたことでしょう。
 
強制収容所や刑務所、精神科病院の閉鎖病棟など、強制的に自由が抑圧された拘束状態に置かれた人間には独特の異常な反応が見られることがあり、精神医学や心理学ではそれを「拘禁反応」と呼んでいますが、ただ「酒が飲みたい」「シャバの空気が吸いたい」など一時の欲求を満たすためだけに殺人まで犯すという彼らのまったく割に合わない行動は、一種の拘禁反応も影響したのではないかと思えるほど非合理なものです。
 
しかし、いずれにしても彼らの身勝手極まる振る舞いの犠牲となり殉職された看守の梁瀬三喜雄さんの悲劇は決して忘れられてはなりません  ショボーン
 
梁瀬三喜雄さん
 
清水が21日に脱獄決行を決めたのは、看守が「おとなしく、気さくな簗瀬さんだったため」だと読売新聞は報じています。
 
凶悪犯が収容されていなかった中野刑務所だからかもしれませんが、囚人に対しても同じ人間として気さくに接していたらしい梁瀬さんの優しさを逆手にとって情け容赦なく惨殺した清水に対しては、心の底から怒りが込み上げてきますプンプン
 
群馬県高崎市出身で、父親と同じ刑務官(看守はその階級)の職についた梁瀬さんは、妻のいのさん(同39歳)と長女・美智子さん(同11歳)、長男・隆君(同9歳)の4人家族で、刑務所の東隣りにある官舎アパートに住んでいました。
 
黄色の枠で囲んだ建物群が官舎アパート
 
まさに目と鼻の先にある職場で夫を殺害された妻のいのさんは、「つねづね危ない仕事だとは思っていましたが、まさかこんなことになるとは思ってもいませんでした」と涙ながらに繰り返していたということです。
 
毎日新聞(1961年1月23日夕刊)
 
1月23日に官舎アパート2号館35号の梁瀬さん宅で、近親者や同僚だけの内輪の葬儀が行われたことを、毎日新聞が「都内ニュース」紙面で上のように報じています。
 
梁瀬三喜雄さんと遺族のご無念、とりわけ突然に父親を奪われたまだ小学生の2人のお子さんの悲しみと深い心の傷を想うと、涙が溢れて言葉も出ない小川ですショボーン
 
 
【付記:中野刑務所について】
中野刑務所のルーツは江戸時代の伝馬町牢屋敷にまで遡るそうですが(場所は異なる)、大正の豊多摩監獄時代には大杉栄が、昭和に入っての豊多摩刑務所時代には治安維持法違反容疑で中野重治、小林多喜二、埴谷雄高、亀井勝一郎ら著名人が多数収監され、終戦からひと月余り後には哲学者の三木清がここで獄中死しています。
 
十字舎房(後の分類舎)の内部
 
1957(昭和32)年に中野刑務所と改称されてからは、1972(昭和47)年に学生運動のリーダーだった藤本敏夫が歌手の加藤登紀子とここで獄中結婚したことでも知られています。
 
住宅密集地にあった中野刑務所は、住民の強い要求もあって1983(昭和58)年に廃止・解体され、1985(昭和60)年に区民のための「平和の森公園」となりました。
 
刑務所の建物で今も保存されているのは、豊多摩刑務所時代のれんが造りの正門(「平和の門」として2021年に中野区の有形文化財に指定)のみです。
 
 
 
 

 

本日、4月2日は国連が定めた「世界自閉症啓発デー」です💙

 

 
この日は世界各地で自閉症に関する啓発の取り組みが行われます。日本でも自閉症をはじめとする発達障害について広く啓発活動に取り組んでいます。
今日は職場のみんなでイベントに参加しました。
 

 

 
世界や日本各地の代表的な建物等をブルーにライトアップする取組が行われます。
 
 
さっき、仕事帰りに見に行ってきました💙
 

 

 

 

 
最後までお読みくださり、ありがとうございましたニコニコ💙