今回はリクエスト企画ですニコニコ

「生き仏」殺人事件

(闇屋4人殺害事件)

1946-47年

1945(昭和20)年8月15日の敗戦後、不足する食糧や生活必需品のほとんどが政府によって統制され自由な売買が禁止される中、配給物資だけでは生きていけない*都市部の人びとの必要を満たしたのが、米などの物資を違法に売買(闇取引)する市場、いわゆる「闇(ヤミ)市」でした。

 *1947(昭和22)年に、配給物資だけで生活していた山口良忠裁判官が餓死する事件が起きています

 

大阪の闇市「梅田自由市場」

1946年7月1日撮影

朝日新聞デジタル

 

その大阪の闇市を舞台に、4人の闇商人がある内縁の夫婦が仕掛けた詐欺にあって殺され、金品を奪われる事件が起きました。

 

この「闇屋4人殺害事件」は、犯人の男女が逃亡先で近隣の人たちから「生き仏」と呼ばれるような善行を施していたことから、「生き仏」殺人事件とも言われます。

 

【加害者となった夫婦】

4人を殺害するという凶悪な犯罪に手を染めてしまったのは、岩崎治一郎と杉山志づという内縁の夫婦です。

 

岩崎治一郎は、新潟で1899(明治32)年10月3日に岩崎勇松・テリの長男として生まれます。

幼くして両親は離婚、父親とは生別し母親も再婚したため、治一郎は埼玉の母方の祖父母のもとで弟と一緒に育てられます。

 

高等小学校(2年制で現在の中学1・2年に相当)の2年途中で退学した治一郎は、家の農業を手伝っていましたが、1917(大正6)年、17歳で結婚*し1男2女をもうけます。

 *当時の民法では、男性は満17歳、女性は満15歳で結婚できました

 

1919(大正8)年、治一郎は舞鶴海兵団(旧海軍が軍港の警備や新兵・下士官の教育のために設けた陸上部隊)に入団しますが、祖父が亡くなり、再婚相手と死別した母親が実家に戻るなどがあって、2年半ほどで海兵団を退団し、家に戻ります。

 

舞鶴海兵団

 

母が料理屋を始めるというので、祖母の意向もあって治一郎は祖父から相続した農地のほとんどをその資金にするため売却し、自分は自作農から小作農に転落してしまいます。

そのことから妻やその実家とのいざこざがたえなくなった彼は、25歳で離婚して家のことは弟に託し、家を離れて各地を転々としながら人夫や店員として働きました。

 

土木建築請負業者に雇われて働き、やがて自分も建築の下請け業者になった治一郎でしたが、戦争で土木建築が統制されるようになり、左官の「こね屋」(左官が壁に塗るモルタルなどをこねる専門の職人で、自身で塗ることもある)に転業します。

 

そうして静岡県下で働いていた1943(昭和18)年、彼は杉山志づと出会って内縁関係になり、彼女の連れ子(娘)と3人で同棲するようになります。

 

1944(昭和19)年3月、大阪府北河内郡住道町(すみのどうちょう、町村合併により現在は大東市)にあった松下飛行機株式会社(松下電器が海軍の要請で木製爆撃機「明星」を製造するため昭和18年10月に設立)の建築工事現場で働くため、一家で飯場(はんば:土木建築工事などの現場に設けられた作業員の宿泊施設)に移り住みます。

 

木製爆撃機「明星」

敗戦までに4機が製造された

 

しかし、戦争の激化で工事が進まないことからそこでの仕事をやめた治一郎は、1945(昭和20)年2月ごろに住道町大字下三箇(現在の大阪府大東市三箇)に家を得て住むようになります。

 

時折は静岡に出稼ぎに行きながらこれといった仕事もしないうちに敗戦を迎えた彼は、働く意欲を失い、それまでの蓄えや手持ちの衣類を売るなどして生活していました(義理の娘は家を出て水戸で働く)。

 

いよいよ生活に窮した治一郎は、1946(昭和21)年になって仕事を探しますが見つからず、闇物資のブローカーになろうとしましたがそれもうまくいかずに、生活はますます逼迫していったのです。

 

一方、内妻の杉山志づですが、1903(明治36)年6月1日、山梨県南都留郡に杉山房吉・ヤスの長女として生まれます。

 

杉山志づ

 

彼女が9歳のころ、樵(木こり)をしていた父が病気になったため一家は清水市に移り、志づは尋常小学校を3年(現在の小学3年)で中退し子守や女工、女中などをして働きます。

 

1922(大正11)年、ある男性と19歳で内縁関係になった彼女は、翌々年に長女を出産しますが、その後まもなく男性とは別れます。

 

娘だけでなく病気の父親も抱えた志づは、1926(大正15)年から4年間娼妓(しょうぎ:売春婦)として働き、その後に寿司屋で女中奉公しますが、母親まで病気になったことからまた娼妓として働くなど、苦労が絶えませんでした。

 

1940(昭和15)年に彼女は、マーシャル群島のヤルート島(当時日本が委任統治していた中部太平洋ミクロネシアの島で、海軍基地があった)に兵隊の慰問婦として1年行っています。

 

日本経済新聞(2015年3月23日)

 

1941(昭和16)年に帰国した志づは、寿司屋や夜店で働くうちに、1943(昭和18)年に治一郎と出会って内縁関係になったのです。

 

【事件の概要】

 

読売新聞(1947年4月28日)

 

大阪府北河内郡住道町に住んでいた岩崎治一郎(「高橋明」という偽名を使っていた)と杉山志づ(「静子」とも名乗る)は、戦争中に購入した戦時国債(戦費調達のために国が発行した債券)が、戦後のすさまじいインフレ(1945年8月から1949年の間に物価が約70倍に上昇)によって紙屑同然になってしまい、仕事が見つからない中、1946(昭和21)年の春ごろには売り食い生活も限界に来ていました。

 

戦時国債(例)

「大東亜戦争割引国庫債券」(昭和17年)

 

そんな時、治一郎がラジオで、1944(昭和19)年に多額の現金を持って物資の買い出しに行った人が行方不明のままだというニュースを聞きます。

 

それをヒントに犯行を思いついた彼は、1946(昭和21)年6月ごろ、「この節尋常な手段では金を手に入れることはできないから、モンサントサッカリン(サッカリンは人工甘味料で、モンサントはアメリカの製造販売会社)等の品物を取引すると言って客を騙して自宅に誘い込み、殺して金を取ろう。死体は裏庭に埋めておけば世間に判らないで済む」(大阪地裁判決文、( )内は小川の補足)と志づに相談し、彼女も承諾したので2人で準備を進めました。

 

①第一の殺人 1946(昭和21)年7月17日

計画を実行に移した2人は、志づが適当な相手を探してだまし、新聞報道によれば「吉田御殿」と呼ばれていた自宅に誘い込む役をすることにしました。

 

7月14日、大阪市北区曽根崎の闇市で相手を探していた志づは、曽根崎の通称「お初天神」(露天神社:つゆのてんじんしゃ)境内で露天の魚店を開いていた和田五郎さん(当時45歳)に話しかけました。

 

当時の雰囲気をわずかにとどめる

お初天神裏参道

 

しかしその日詐欺を切り出せなかった志づは、16日に再び和田さんを訪れ、「主人がモンサント(サッカリン)を3万円分お世話できる。お金を持って私の家まで来て貰えば品物をお渡しする」と持ちかけたところ、彼はすぐに話に乗ってきたそうです。

 

こうして7月17日の午前10時ごろ、迎えに来た志づに同行して和田さんは、途中で野村銀行(大和銀行をへて現在はりそな銀行)梅田支店でお金を下ろし、12時ごろに治一郎の家に行きました。

 

しばらく取引の話をしてから治一郎は、契約書を書いてくれと紙と万年筆を渡し、和田さんが畳の上にかがんで書こうとした時、彼に飛びかかって首を締め、さらに左官や大工の仕事で使う掛矢(かけや:木のハンマー)で頭を殴打、最後は真田打紐(布製品の梱包やふんどしの紐として使われていたテープ状の紐)を首に巻いて窒息死させ、現金3万円*を奪ったのです。

 *インフレが進んでいたので一概には言えませんが、今の価値では数百万円以上に相当すると思われます

 

ちなみに、治一郎は柔道4段の腕前だったそうです。

掛矢(例)

 

真田打紐(例)

 

そして和田さんの遺体は、計画どおり裏庭に穴を掘って埋めました。

 

②第二、第三の殺人 1946(昭和21)年12月28日

治一郎と志づの2人は手に入れた金で生活していましたが、同年10月ごろ、知人の中西信隆さんからガソリンなら売れる人を探せると言われたことから、闇ガソリンの取引でだまして再び金を手に入れようと考え、志づもそれに同意します。

 

「旧日本軍のガソリンを持っている人を知っている」と中西さんを信用させた治一郎は、中西さんから藤田繁郎さん(同30歳)を紹介してもらい、藤田さんはさらに知人の松近喜久馬さん(同35歳)に話を伝えて、松近さんがガソリンを買い取ることになりました。

 

12月28日、藤田・松近の2人と中西さん宅で落ち合った治一郎は、正午過ぎに自宅に彼らを連れて行きます。

2人を一度に殺害することは難しいので、口実を設けて志づが松近さんを外に連れ出しました。

 

そしてその間に治一郎が、第一の殺人と同じ要領で藤田さんに襲いかかり、掛矢で撲殺し縁の下に遺体を隠したのです。

 

しばらくして戻ってきた松近さんにも、藤田さんは所用で出かけたのでその間に契約書を書いてほしいと同じようにして掛矢で殴りかかり、さらに首を絞め窒息死させて現金2万円と腕時計を奪い、2人の遺体を裏庭に埋めて遺棄したのです。

 

③第四の殺人 1947(昭和22)年4月22日

その後も2人は特に仕事もせずに暮らしていましたが、1947(昭和22)年3月ごろに志づの方から、またサッカリンの取引を装って金品を強奪しようと治一郎に持ちかけ、2人はサッカリンの包に見せかけたものを作るなどして準備を始めます。

 

今度も、志づが神戸の闇市でだます相手を探しました。

 

神戸元町付近の高架下の闇市(1948年ごろ)

神戸新聞(2015年8月30日)

 

志づは、人を介して知り合った名村五三六さん(同21歳位)に、「主人が進駐軍の倉庫係をしているのでモンサント(サッカリン)を12万円分流すことができる」と持ちかけ、名村さんもその気になりました。

 

1947年4月22日、内金として10万5千円を持参した名村さんを志づが午後2時ごろに自宅に連れて行き、これまでと同様に治一郎が掛矢で彼を殴打のうえ紐で窒息死させ、裏庭に埋めました。

 

ところが、2人にとって誤算だったのは、名村さんは用心して現金を持って来ていなかったのです。

 

さらに決定的な誤算は、取引のことを名村さんが実兄の豊二さんに話していたらしく、連絡がつかなくなった名村さんを探して兄が家にやって来たことでした。

 

その場はなんとか取りつくろったものの、犯行の発覚を恐れた2人は、4月25日の早朝、身の回りのものだけを持って逃亡しました。

 

再度やってきた名村さんの兄は、もぬけの殻になった家を見て怪しみ、26日に警察に名村さんの捜索願を出しました。

 

届けを受けた大阪府警四條畷(しじょうなわて)署の警察官が家宅捜索をしたところ、裏庭で4人の遺体を発見し、治一郎と志づの2人を殺人容疑で全国に指名手配したのです。

 

朝日新聞(1947年4月30日)

 

【12年の逃亡と逮捕】

大阪・住道の住まいから逃亡した岩崎治一郎と杉山志づは、東北地方を転々とした後、1947(昭和22)年7月に上京して日雇人夫や手内職をしていましたが、1949(昭和24)年ごろから屑物(廃品)回収業を始めます。

 

バタ屋さんの廃品回収

リヤカーで紙や布、金属類を回収し売った

(「山谷の歴史ときぼうのいえ」)

 

この仕事が順調だったことから、2人は1951(昭和26)年春ごろに東京都文京区小石川町の通称「バタ屋部落」(バタ屋=屑物回収業者)に移り、1954(昭和29)年には近くの防空壕跡の住居で生活するようになります。

 

 

都内に今も残る個人宅の防空壕

朝日新聞デジタル(2021年8月8日)

 

ようやく生活が落ち着いたこともあってか、治一郎と志づは4人を殺めたことへの悔悟の気持ちに駆られたようで、手製の仏壇を自宅に置いて朝晩被害者たちの冥福を祈る毎日を送りました。

 

また治一郎は、近隣住民の世話役となってその福利厚生のために尽力し、また親身になって困っている人の世話を焼いたことから、彼のことを「生き仏」と呼ぶ人さえあったようです。

 

その間も警察は2人の行方を探しており、1958(昭和33)年7月と1959(昭和34)年6月には、警察庁が2人を特別手配の筆頭にあげて追跡捜査しました。

 

読売新聞

*治一郎の顔写真は載っていません

他の記事に、身長5尺4,5寸(約165㎝)、体重18貫(約67.5kg)

で丸顔と書かれています

 

その結果、1959年6月10日、小石川町を管轄する警視庁富坂署に、「以前、小石川後楽園のバタ屋部落にいた時に、隣りに住んでいた夫婦が手配書に似ている」という重要情報が寄せられました。

 

こうして公訴時効まで2年半と迫った1959(昭和34)年8月25日、ついに2人は逮捕されたのです。

 

【裁判と判決】

岩崎治一郎と杉山志づは、大阪に送られて裁判にかけられました。

 

大阪地方裁判所(当時)

 

裁判で検察は、2人に死刑を求刑しました。

 

読売新聞(1960年10月6日)

 

それに対し、大阪地方裁判所で1960(昭和35)年11月28日に開かれた判決公判で西尾貢一裁判長は、被告の2人に無期懲役を言い渡しました。

 

判決文は、「なるほど犯行当時は終戦後間もない頃のこととして、生活面における窮乏が殊の外甚だしく、土木建築業や左官としての経験、技術しか有しない被告人岩崎が、そのような社会情勢の下で困窮したことや、それに基づく被告人らの焦燥、不安の念の一通りでなかったこと、又当時の社会の混乱や、道義観念の著しい低下が、被告人らの道義感覚や常識を著しく動揺させたこと等、想像に難くはない。しかし本件犯罪の重大さや、一般国民がからくも当時の窮乏に堪え、あらゆる辛酸を嘗めていたことを想起すれば右のような事情がさほど被告人らの責任を軽くするものとは考えられない」と2人の罪を厳しく弾劾しています。

 

しかしその一方で、死刑判決を回避したことについて次のように述べています(以下、太字加工は小川)

 

「被告人両名は本件犯行を悔い、逮捕に至るまでの間10年以上にわたり被害者の冥福を祈って来たものであり、その間における被告人らの生活態度も右のような心境にふさわしいものであったから、被告人らが東京で逮捕された時には、その平素を知る近隣の者は、ひとしく意外の感に打たれた程で、またかかる改悛懺悔の情の顕著なことは当公判廷における両名の供述等からも十分これを窺い知ることができるのである。従ってこれらの点よりすれば、被告人両名は、現在では社会人として恐らく普通人以上に道義に基き規範に適った生活をなし得るだけの心構えと能力とを兼ね具えるに至ったものと考えられる。」

 

しかしそれでも「道義の尊厳を明らかにし、社会秩序を維持する見地から、その犯人に対し、なお極刑を以て臨まなければならない場合もなしとはしない」としてさらに検討を加え、概略次のように論じました。

 

①歳月の経過

犯行後逮捕まで既に12年余の歳月が経過し、この犯罪の社会に与えた衝撃がある程度減退し、被告人らの悔悟と相まって被害者・社会の応報感情(犯罪者にそれにふさわしい処罰を与えるべきだとする感情)も幾分かは和らぎ得たものと考えられる。犯行に対する道徳的非難は時間の経過により減退するものではないが、社会秩序の維持を使命とする法においては、この間のわが国の社会状勢の急激な変化も留意し、時間の経過が制裁の必要性を減退させたことを、刑の量定においても十分考慮しなければならない。

 

②公訴時効制度

本件は犯行後12年余で公訴が提起されたが、公訴時効制度の根拠が時間の経過によって可罰性が減少すると考えるなら、公訴時効(当時は15年)を迎えると可罰性がゼロになることとの均衡が考慮されなければならず、時日の流れを無視することの方がより不当であると言える。

 

最後に判決文は、「本件犯罪が兇悪無残なものであることはここに改めて繰返すまでもなく、又被害者の家族の或る者は今日もなお恵まれぬ生活を送っている状態にあって、この犯罪の残した傷痕は深く且つ大きく、心より同情の念を禁じ得ないものではある」としながら、「諸般の点を慎重考慮すると、被告人らに死刑の極刑を科してその生命を奪うよりは、なお少なき余命を全うせしめ、今後も永く被害者らの冥福を祈り、贖罪の生活を続けしめる方が法の趣旨にも適い相当の処置であると考えられる」と述べています。

 

これに対して検察は、量刑不当として控訴します。

 

それを受けて大阪高等裁判所は、1961(昭和36)年7月19日、原判決を破棄して岩崎治一郎を死刑にし、杉山志づは一審通り無期懲役とする判決を下します。

 

大阪高裁の判決文が入手できませんでしたので、どういう理由で治一郎の量刑を見直し死刑にしたかは不明です。

 

この新たな判決は、1962(昭和37)年7月17日に最高裁が上告を棄却したことで確定します。

 

読売新聞(1962年7月17日夕刊)

 

そして、それから5年4ヶ月後の1967(昭和42)年11月16日、岩崎治一郎の死刑が執行されました(享年68歳)。

 

「刑場から 郷土への旅 菊日和」——これが彼の最後の句(決別句)だったそうです。

 

 

サムネイル

小川里菜の目

 

とても複雑な思いにかられる事件ですショボーン

 

岩崎治一郎と杉山志づが4人もの命を奪ったことは、弁解の余地ない凶悪犯罪です。

 

今のイメージでは、「闇屋」と聞くと密輸業者のように思われるかもしれませんが、そもそも闇市自体が違法取引(自由な売買が違法な闇取引とされていた)の場ではあっても、それなしには戦後の食糧難の時代を人びとが生き延びられない必要悪だったわけです。

 

都会から農村へ食糧を求めての「買い出し列車」

買ってきた芋や米が闇市でも売られた

(1945年11月撮影、朝日新聞デジタル)

 

ですから、仮に彼らが悪どい商売をしていたとしても、殺された4人は自分や家族のために必死に動いていたわけで、殺されても当然とするような理由はなかったはずです。

 

ですから、いくら自分たちが生活に困っているからといって、彼らを計画的かつ無慈悲にだまし殺害したのは、鬼畜の所業と言われても仕方ないのです。

 

しかし、だからと言って治一郎と志づが根っからの悪人だったのかといえば、そうではないと思います。

 

人権など無いに等しい戦前の社会では必ずしも珍しくなかったのかもしれませんが、家庭の事情もあって2人が子どものころからそれぞれに味わった苦労や舐めた辛酸は、今の私たちには想像もできないほどのものでした。

 

特に、小学校を3年でやめざるを得なかった志づは、9歳の時から働きづめに働き、成人してからは病気の両親まで抱えたシングルマザーとして合計6年間娼妓となって身を売り、1年は太平洋の島に渡って兵隊相手の慰問婦までしています。

 

さらに2人が内縁の夫婦となってから、将来のためにとなけなしのお金を出してようやく購入した戦時国債が、敗戦後のインフレで預貯金ともども実質価値を失い消えてしまいます。

 

外崎コウ「生き仏殺人事件」より

(『ザ・女囚』所収)

 

それまでの価値観や社会秩序が崩壊した終戦直後のアノミー状態(精神面でも行動面でも社会の規範が失われた無規範状態)の中で、衣食住にも事欠く2人が、将来への希望を失い「鬼畜」となって犯した罪が4人を殺害して金品を奪う行為だったのではないでしょうか。

 

2人の刑が確定し、妻の志づが無期懲役で刑務所に送られる時、逮捕以来初めて、そして最後の別れに、拘置所の計らいで2人は面会を許されたそうです。

その時の様子を、村野薫さんは次のように書いています。

 

二人は終始決然と、手ひとつ握りあうでなく、岩崎が「お前と二人の人間らしい一生は敗戦の日に終わった。それからの惨めな長い年月を苦労をかけどおしで、これという楽しい思い出はひとかけらも与えずこのような結末を招いて……すまんことをした」と訥々(とつとつ)と詫びれば、妻は「お父さんこそ、長い間やさしくしてもらって、どこへ行っても忘れません」と肩ふるわせ、互いを気遣う心に、傍で見ているものもついつい、もらい泣きする風景だったという。

 

「お前と二人の人間らしい一生は敗戦の日に終わった」——その絶望が彼らを連続強盗殺人の狂気へと駆り立てたのでしょう。

 

彼らが「人間らしい」心をようやく取り戻しかけたのは、東京小石川のバタ屋部落で社会の最下層の人たちと共に暮らし、互いに助け合う生活を始めてからでした。

 

自分たちが犯した罪の重さにおののいた2人は、手製の仏壇を作って毎日朝晩被害者の供養を欠かさず、またわずかでも罪を償おうとするかのように、近隣の世話役となり困っている隣人に親身になって手を差しのべたのです。

 

もちろんそれで罪が帳消しになるわけではありません。

2人が逮捕され裁かれたのは、当然の報いと言うべきでしょう。

 

それでは、4人を殺めた「鬼畜」の顔と、わが事のように隣人を助けた「生き仏」の顔のどちらが彼らの素顔だったのでしょうか。

どちらもが彼らの素顔であって、それは人間が誰しも持っている善と悪の二面だと小川は思います。

 

そして、そのどちらの面に人が支配されるかは、本人の意志や努力だけでなく、置かれた情況によって大きく左右されざるをえません。

 

その意味では、加害者である彼らもまた、戦前の社会や、戦争という大きな狂気の犠牲者でもあったでしょう。

 

高裁の判決文が読めていないので、治一郎を死刑にした根拠が妥当だったのかについて、ここでは判断を保留せざるを得ません。

 

しかし、「その生命を奪うよりは、なお少き余命を全うせしめ、今後も永く被害者らの冥福を祈り、贖罪の生活を続けしめる方が法の趣旨にも適い相当の処置である」と地裁の判決文が言うように、彼ら2人が自らの罪の自覚をどう深め、その後仮釈放も視野にどのような贖罪の生活を続けるかを見とどける方が、人はいかにして「鬼畜」にあるいは「生き仏」になるのか、そして人間にとって避け難い罪と罰についてどう考えるのか、彼らの自己反省や生きざまから学べることが私たちに多くあったのではないかと思う小川です。

 

参照資料

・関係する新聞記事

・村野薫『新装版 戦後死刑囚列伝』宝島SUGOI文庫、2009年

 

 

・川島れいこほか『ザ・女囚〜金と男で地獄を見た女たち』ぶんか社、2016年

 

 

・大阪地方裁判所 昭和34年(わ)2764号判決

 

 

 

最後までお読みくださり、ありがとうございましたおねがい