9月1日 防災の日

関東大震災と歌舞伎町ビル火災

【ご注意】以下の記事では、無修正の被災者の遺体が写った当時の写真も掲載していますので、あらかじめご承知のうえお読みくださいますようお願いいたします🙇

 

今日、9月1日は「防災の日」です。

 

1960(昭和35)年6月11日の閣議で政府は、関東大震災が起きた日の9月1日を防災の日と決めました。

9月1日には、秋の台風シーズンが始まるタイミングという意味もあったとのことです。

 

前年(1959)の9月、「伊勢湾台風」に襲われた名古屋の被災地

 

その趣旨は、「災害の発生を未然に防止し、あるいは被害を最小限に止めるには、どうすればよいかということを、みんなが各人の持場で、家庭で、職場で考え、そのための活動をする日を作ろう」というものです(「防災の日」創設に関する官報資料、1960.9.1)。

 

【関東大震災】

 

 

 

今から100年前の今日、1923(大正12)年9月1日午前11時58分、東京をはじめ関東地方をマグニチュード7.9の巨大地震が襲いました。

「関東大震災」です。

 

ちょうどお昼時で、当時のことですから煮炊きに裸火を使っていた家が多く、あちこちで火災が発生し、折から日本海側を通過していた台風からの強い風もあって、東京・横浜の市街地が焼け野原となったほか、海岸部では津波、山の近くでは土砂崩れの被害が出ました。

 

ひょうたん池のほとりに建つ震災前の浅草の劇場街

右が浅草名物「十二階(凌雲閣)」

 

見る影もなく焼け野原となった浅草六区

左に見える「凌雲閣」も8階から上が倒壊した

(朝日新聞デジタル「関東大震災100年」)

 

汽車が壊滅した両国駅

(週刊大衆、1974年9月12日)

 

被災者の遺体で埋まった浅草・ひょうたん池

(週刊読売、1980年9月14日号)

 

震災での死者・行方不明者は、東京・横浜を中心に10万5千人と見られていますが、その9割が火災による死者だったそうです。

 

「路上で遺族の引き取りを待つ遺体」

(週刊読売、1980年9月14日号)




 

中でも、2万坪(6万6千㎡)あった陸軍被服廠跡の空き地(現在の東京都立横網町公園)には4万人もの被災者が家財道具を持って殺到し、その大半(3万8千人)が焼死する修羅場になりました。

 

被服廠跡に避難してきた人たち

 

被服廠跡を襲った「火炎旋風」の絵

(東京都復興記念館蔵)

 

焼き尽くされた後の惨状

 

また震災では、東京市内だけで5千人もの小学生児童が亡くなりました。

 

子どもたちの死を悼み、当時の学校長らが呼びかけて基金を募り、慰霊のための「震災遭難児童弔魂像」(小倉右一郎作「悲しみの群像」)が作られました。

 

「悲しみの群像」(原作)

 

ところが戦時中の1944(昭和19)年、この弔魂像までもが軍需物資にするための「金属回収」の対象にされ、台座だけを残して撤去されてしまいます。

震災で亡くなった子どもたちの無念や親たち・教師たちの悲しみが込められた像を、戦争は情け容赦もなくただの「金属」に還元してしまったのです。

 

1961(昭和36)年になって、小倉右一郎の弟子たちの手で原作に模した群像が再建され、横網町公園の台座の上に置かれています。

しかし小川の目には、それは戦争の犠牲に供された元の迫真の像に遠く及ばないように思われてなりません。

 

戦後に再建された現在の像

 

関東大震災は、時代やもたらされた災害の性格の違い(下の表の赤線部を見てください)がありますが、近年起きた阪神・淡路、東日本の大震災以上に深刻な被害を当時の社会に与えました。

 

 

 

関東大震災から私たちが学ぶべき教訓については、100年の節目である今年、新たな発見や検証がなされると思いますので、このブログでは以上にとどめておきます。

 

日本にラジオ放送*がまだなかった当時、

たずね人の貼り紙で埋めつくされた

上野の西郷隆盛像

*ラジオ放送の開始は2年後の1925年

 

【新宿歌舞伎町 雑居ビル火災】

 
奇しくも防災の日にあたる2001(平成13)年9月1日午前1時前、金曜から土曜にかけての週末で賑わう東京・新宿歌舞伎町の雑居ビル「明星56ビル」(地上4階、地下2階)で火災が発生しました。
 
 
火元の3階にはマージャンゲーム店「一休」が入っており、マージャンに負けたことを逆恨みした客が、店を出たエレベータホールで腹いせで何かに火をつけた放火事件との見方が有力ですが、確証は今に至るも得られていません。
 

東京新聞(2021年8月31日)

 
火が出た時、3階のマージャン店には20人、4階のキャバクラ「スーパールーズ」には27人の従業員と客がいました。
 
 
3階のエレベーターホール付近で激しく燃え上がった炎は、上図のように窓がほとんどない構造のため不完全燃焼による一酸化炭素ガスを大量に発生させながら、3階から階段を通って4階へと広がっていきました。
 
3階では、事務室にある道路に面した窓から従業員3人が飛び降り、重傷を負ったものの助かりましたが、客ら17人は店の奥へと逃げ、煙にまかれて亡くなりました。
 
従業員が飛び降りた3階の窓
 
また、4階のキャバクラ店は焼けなかったのですが、3階から登ってきた激しい煙に襲われ、27人全員が一酸化炭素中毒で亡くなるという凄惨な状況となりました。

 

東京消防庁に119番の第一報が入ったのは午前0時59分、このビルの3階から人が落ちたという救急車の出動要請でした。

 

その後すぐ、午前1時1分、4階の店内から女性の声で助けを求める次のような119番通報がありました。

 

「歌舞伎町なんですけど、火事みたいで煙が凄いんですよ、歌舞伎町一番街のスーパールーズです。早くきてください、出られない、助けて!」

 

この通報をしたのは、携帯電話の通話履歴から、亡くなった従業員の中村沙由理さん(当時23歳)だったことが後になって分かりました。

 

 

消防への通報はその後も、「すぐきてください、もうかなり煙が回っているんです、お客さんも女の子も全部、まだ到着しませんか、早く、かなりいるんです」(1時5分)などほぼ2分間隔に3通話ありましたが、1時7分を最後に電話は途絶えました。

 

通報を受けた東京消防庁は、ただちにポンプ車やハシゴ車など消防車53台と救急車48台を出動させ、駆けつけた消防隊員はすぐに3階の犠牲者搬出に奮闘しました。

 

 

しかし、4階従業員からの通報があったにもかかわらず、連絡がうまくできていなかったのか、4階にも取り残された人がいることに現場の消防司令長は気がつかなかったようです。

 

 

4階にも人がいると知った消防隊員たちは、すぐに階段を伝って登ろうとしました。

けれども、熱と煙に加え階段にぎっしり積まれた物に阻まれ、なかなか上がることができません。

 

毎日新聞(2021年8月29日)

 

ようやく4階の店に入った消防隊員が見たものは、真っ黒なすすで覆われた室内と、折り重なって亡くなっている人たちでした。

 

すすで真っ黒のキャバクラ店内部
(smart FLASH、2021年9月3日)
 

搬出されたキャバクラ店の女性従業員

口と鼻の周りがすすで真っ黒になっていた
(FRIDAY、2008年12月12日号)
 
店内には、安否確認をしようとする家族・友人からなのか、たくさんの携帯電話の着信音が虚しく鳴り響いていたそうです。
 
こうして歌舞伎町のビル火災は、1982(昭和57)年2月8日に起きたホテルニュージャパン火災の死者33人を上回り、44人もが亡くなる大惨事となったのです。
 
 
サムネイル
 

小川里菜の目

 

100年前の今日、後に「防災の日」となる9月1日に起きた関東大震災。

その78年後の今日、「防災の日」に新宿歌舞伎町で起きた雑居ビル火災。

 

規模も質もまったく異なる二つの災害ですが、過去の出来事から教訓を学び、その「後知恵」を働かせ、同じ過ちを繰り返さず、未来を少しでもより良いものにすることにしか、犠牲者の無念の死を無駄にしない道はないと小川は思います🥺

 

しかし、関東大震災については、議論のあるものも含めて非常に多くの考えるべき問題・課題があり、今ここでそれらに立ち入ることは、小川の知識・力量を超えています。

 

先に書きましたように、100年の節目にあたって、今日を中心にさまざまな新たな資料や考察や問題提起が本やマスメディア、ネットを通して発信されると思いますので、小川もそれらを注視しながら、ブログで扱えるようにテーマを絞ることができれば、改めて取り上げさせていただこうと思います。

 

もう一つの歌舞伎町ビル火災については、以前に「最悪の大火災」として、①大阪 千日デパート火災(1972)、②熊本 大洋デパート火災(1973)、③東京 ホテルニュージャパン火災(1982)を取り上げた小川としては、「既視感」を覚えるものでした。

 

 

 

 

つまり、以前の大火災で問題とされた経営者の営利至上と防災意識の欠如、消防・避難設備の不十分や建物自体の構造問題、備えてあった設備すら作動しない人為的過失、消防点検ですでに問題を指摘されながら放置する管理者の怠慢・無責任、新たな規制が過去の建物に遡及適応されない法制度上の問題などが、歌舞伎町ビル火災においてもほぼそのまま繰り返されているように思われるからです。

 

たとえば、避難出口(階段)が屋内の1方向にしかなく、そこが使えないともう逃げられない建物の構造、脱出用避難具は3階にはなく、4階にはあったものの誰も使えず(従業員の消防訓練をしていない?)、煙感知器に連動し3階から4階へ火と煙が上るのを防ぐ防火戸も前に積まれた荷物で閉まらず、自動火災報知器は誤作動が多いという理由でスイッチが切られ、道路に面した以外の窓は3階も4階も板や鍵で開けられないようにしてあり排煙や脱出に使えず、「不審者の侵入を防ぐ」という理由(言い訳)で階段に山と積まれ、可燃物となり消防隊の通行も阻んだゴミや荷物など、このビルはこれでもかというほど無防備で危険な建物に従業員と客を詰め込んでいたのです。

 

それに加えて、同ビルではオーナーと賃貸借契約した借主が、各店の経営者に又貸をしていたことから、消防点検での指摘や改善指導について、店の経営者には何の情報も伝えられていなかったそうです。

 

このように見てくると、大惨事をきっかけに進められてきた防災のための法制度改革が、雑居ビルのような末端にまではほとんど効果を及ぼしていないことに愕然とします。

 

火災の責任については、2008(平成20)年7月2日に東京地方裁判所が、ビル所有会社「久留米興産」の実質的経営者・瀬川重雄(64歳)と社長、マージャン店「一休」の実質的経営者、キャバクラ店「スーパールーズ」の経営者に業務上過失致死傷罪で禁錮3年・執行猶予5年、「一休」の店長に同じく禁錮2年・執行猶予4年の、いずれも執行猶予付きの有罪判決を下しました。

しかし、44人もの犠牲者を出した大惨事への責任としては、あまりに軽いという印象を拭うことができません🥺

 

なお、119番通報した中村沙由理さんの母親ら被害者33人の遺族が損害賠償を求める民事訴訟を起こし、2006(平成18)年3月に久留米興産が約8億4千万円を支払うことで和解が成立しました。

 

しかし、記者会見した遺族は、「和解金を払ったからといって終わりではない」「お金の問題ではないが、遺族それぞれに事情があった」と、事の真相や責任が裁判で明確にならないままの「和解」に対し、複雑な心境を語っていたそうです(共同通信、2006年4月24日)。

 

責任追及や防災への取り組みが現行の法制度では不十分だという批判もあってか、この火災の翌年(2002年)に消防法が改正され、ビルのオーナーらに防災管理のより大きな法的責任を負わせるほか、防災機器の設置基準の強化や違反者への罰則強化などが定められました。

 

そうした対策が効果をあげ、歌舞伎町ビル火災のような悲劇が無くなっていくことを小川は強く願います!

 

しかしそのためにも、防災という課題を誰かに任せて済ますのではなく、今日の「防災の日」を機に、過去の災害に思いを馳せながら、いま私たち一人ひとりが自分自身の生活の場から、「災害の発生を未然に防止し、あるいは被害を最小限に止めるには、どうすればよいか」を考えなければならないと改めて思う小川です。

 


参照資料

・関東大震災映像デジタルアーカイブ

・朝日新聞デジタル「関東大震災100年」

・歌舞伎町ビル火災に関係する新聞記事など

・「新宿ビル火災の概要」「新宿ビル火災の教訓」防災システム研究所

・「歌舞伎町ビル火災から20年」TBS NEWS DIG

 

読んでくださり、ありがとうございました🥹💕

 
関東大震災2年前のひょうたん池と「浅草十二階」(凌雲閣)
日本初の電動エレベーターが設置されていたが……
 

震災で8階から上が無惨に崩れ落ちた