人にとって一番苦手なことは、他人から向けられる負の感情である。

人はどのような生き方をしようとも、負の感情から切り離されることはない。

自分から進んで負の感情になるか、あるいは周りから影響されて負の感情になるか。

身に覚えのないことで、負の感情を向けられることが一般的だ。

簡単に言えば、自分のこういうところが嫌い、あるいはあの人のああいうところが嫌いという、自我の働きによるものだろう。

感じること自体には、何も悪いところはなさそうである。

ところが、人は思考を働かせるから、嫌いなものをさらに嫌いなものへと発展させる。

まさに負の連鎖である。

嫌われていると感じたなら、一歩身を引こうと思考するが、そのことによってさらに相手の負の感情は増加することもある。

嫌われようが好かれようが、思考で区別する必要はない。

生活する上での一般的な思考とは違って、心あるいは魂のレベルで見た思考を必要とする。

人は、暗闇を恐れ、負の感情を嫌う。

嫌われようが好かれようが、同じ態度で接する能力。

それは霊性とでも言える能力かもしれない。

それを養うために我々人は生きているのだろう。

一段上の階層から感じ取る。

好きと嫌いは同体である。

霊的な思考を除いては、人の善さを感じ取ることはできない。

自分が嫌いであろうが、他人から嫌われていると思おうが関係なく、自分を表現できる人。

そのような人に霊性の高さを感じるだろう。

そのような人になるのは非常に難しいことだ。

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自分は居ても居なくても一緒だ。


そんな風に思うのは、自分がそこに居ると思っているからであり、自我が働いているからである。


自分がそこに居なければならないと思うのは、思考の働きである。


居ても居なくても一緒であることが、その人を苦しめる存在価値の否定だと感じるのも、思考の働きである。


元々、自分は思考ではない。


思考は、自分を越えて一人歩きする。


元々、誰しも居ても居なくても変わりがないような存在だ。


そのように素直に捉えるのは、思考ではなく、心の働きである。


居ても居なくても一緒という言葉の中には、自分だけでなく他人も居ても居なくても一緒だと思う思考も隠れている。


実は、他人に理解されないのではなく、自分が他人を理解しようとしていないのである。


思考は自分に都合の良いように働く。


これが思考が持つ本来の性質だろう。


思考に対して、心は、居ても居なくても変わらないと分かっているから、それだけで存在価値があり、偉大である。


居ても居なくても一緒という言葉は、否定的な言葉だけに思えるが、本当の肯定は否定の中にしかない。


寛容な偉大さは、居ても居なくても一緒だという感覚の中にしか存在しない。


人は偉大ではないが、思考を見直すことはできる。


思考は、直ぐには変わらないが、長い時間を掛けると変わる。


そんな時間の使い方が、心の存在を気づかせてくれる。


思考に支配された者には、心の存在価値は見えない。


思考がなくなることは、死を意味するように感じる。


これもまた、思考の働きによる。


寛容な偉大さには生も死もない。


思考から開放されれば、正しい存在価値が見えてくる。かに座かに座かに座かに座かに座かに座かに座波


それぞれの人自体には大した意味はない。

生きることも亡くなることも、体や思考が生きて亡くなると思うならば、特に意味はなく、楽しむもよし、悲しむもよしである。

しかし、人に与えられた決定的な役割は、子孫を残す、遺伝子を残すということだと思える。

多くの人には子孫を残す能力がある。

自分が、どんなに凄く思えようとも、どんなに惨めに思えようとも、生まれてくるのは全くの別の思考や体を持つ人間である。

自分に意味がなくても、子供に意味があるということもあるだろう。

自分とは、先祖と子孫との間に生きる人のことではないか。

自分の命でもなく、たった一人の命でもない。

小さな、あるいは大きな繋がりの中の一部分である命である。

この一部分である命は、それだけでは意味を見出しにくいが、繋がりの中で重要な意味を持つ。

一部分がなければ繋がりが成り立たず、繋がりがなければ一部分が成り立たない。

命の連鎖が人を未来へ連れて行く。うお座カエルとかげペンギン女の子宇宙人流れ星
このタイトルは、普段、煩悩が働くことであり、不意に思いついたようで気にしていることでもある。

どうだろうか。単純に、薄っぺらい人とは、人の悪口を言い、人の外観、能力、性格などを悪く言い、自分を正当化するような人を言うのだろうか。

周囲を見渡せば、薄っぺらい人の集団、それが人間社会だろうか(笑)

自分がデブでないことをいいことに、デブちゃんを見かけると、愛着を持って?「デブちゃん」と、よく冗談交じりで子供とおしゃべりをする。

誰しも、行いの一点を取れば、薄っぺらい人間ではないだろうか。

「仕事もろくにしないのに給料だけはがっぽり持っていきやがる。」

「人の話に同情したり、共感しない人だ。」

「自慢話や批判話ばかりしているな。」

などなど、思うことは沢山あるだろう。

これらは、いわゆる愚痴であり、薄っぺらい発想の代表格かもしれない。

どれも自然に思うことだろう。

しかし、口に出すと薄っぺらい人間になる。

誰しも、多くのことを自分の内に溜め込めるだけの器量を持っていないので、どこかで吐き出していることだろう。

薄っぺらい人間となることは、自己を保存するための基本的な性質に過ぎないだろう。

誰でも薄っぺらい。

ただ違うのは、それをどれだけ口に出すかの差だ。

自分が薄っぺらい人間であると認識すれば、他人の薄っぺらいところに腹を立てることもなくなる。

このことが、薄っぺらいことと一体化する、あるいは薄っぺらいことになりきる、ということだろうか。

薄っぺらいことになりきれない私は、まだまだいろいろなことを思う。

「職場の空気がよくない。」

「静か過ぎて、周りが空気と変わらない。」

「仕事以外の息抜きをして、正気を保とう。」

少なくとも分厚くなるためには、薄っぺらいことになりきれる必要があると思う。

薄っぺらいことになりきることができれば、もはや薄っぺらい思いや、薄っぺらい言葉は出なくなるだろう。

しかし、人は冗談に、面白く生きたいと思う動物であるから、冗談交じりに薄っぺらい言葉を連発する。

そのこと自体には何も罪はなく、至って健全なことであろう。

薄っぺらい社会、それが人間社会であろうか。

分厚くなりたければ、薄っぺらい自分を自覚するしかない。
ぶーぶー汗足あとオバケ
小さな楽しみに満足すると、人生は楽しい。

平日が終わって休日が来ることのなんと嬉しいことか。

一週間働いた甲斐があったというものだ。

休日は楽しい。

休日は、余計な思考を働かせることなく、思考を抜けた嬉しさの感覚としての自分になれる。

そんな休日も、苦しい平日があってこそ楽しくなる。

毎日が休日であったら、休日が楽しいという感覚がなくなる。

休日には、本当にやりたいことをやればいい。

休日にすることこそ、その人を育てる本当の仕事かもしれない。

この休日の仕事はライフワークとでも言おうか、お金に関係ない生きた自分に出会えるようである。

これは単に趣味というものかもしれないが。ブタキラキラ
苦痛は自分の内に生ずるものと思えても、苦痛は外から与えられると感じる。

自分の内にある苦痛自体になれば、もはや苦痛と感じることはなくなる。

苦痛は、苦痛を除外しようと思うから余計に苦痛になる。

苦痛と一体化するイメージを持って、苦痛を自分の内に留める。

ただし、苦痛を苦痛として正しく感じることが必要だ。

誤った思考を働かせると、苦痛の餌食になる。

まるで、人は、苦痛である蛇に睨まれた蛙であるのか。

思考を働かせて動けば蛇の餌食だ。

思考せずに、自ら蛇の魂の中に入る。

自ら動いて蛇の口の中に入ってはアウトだ。

蛇の中に入れる魂を養うこと。

それこそが生きる意味であり、生きることが小さな仕事でないことがわかる。

生きることのスケールは大きい。ぶーぶードンッはてなマークはてなマークはてなマーク
心と自分とは違う、心と体とは違う。

この思考や体が自分だと思っているが、自分は心ではない。

心は魂であり、魂は思考によって知り得るほど簡単なものではない。

それは遥か過去から続く遺伝の力であり、生命の力である。

思考によっては心はわからない。

それはまるで、水のように、あるいは空気のように、偉大で存在感がないから無視される。

心は生きて行くために意味のないものと思われるが、人の思考によっては意味のないと思えることほど偉大である。

身近な、仕事、お金、人間関係にしても、意味がないと思えることに嘆く必要はない。

やっていることに意味を感じなければ、そこには思考によっては知覚できない心があると思えばいい。

根拠がなくても、そこには思考では見えない心がある。

人によっては気づかない心がある。

同じ階の住民となるよりも、一階上の住民となって、見渡した方が気持ちがいい。

心はそんな一階上の住民であり、同じ階の住民からは見えない。

自分である思考とも、自分である体とも違う、心である魂が、心である命が生きている。クローバークローバードクロクローバー
クローバー
働くことが本当に虚しく感じることがある。

働くことは自己成長のためとの建前を持ったとしても、果たして本当に自己成長があり得ようか。

自己成長をするには、それなりの社会的意義がなくてはならない。

多くの仕事にはそのような意義はない。

社会的意義ではなく、他社に勝つ、あるいは他社に負けない意義があるだけである。

生活のために働いているとも言える。

あるいは、新しい物を人に売るために働いているのだろう。

苦しい仕事、つまらない仕事、やる気が起きない仕事に意義を見出し、楽しみを見つけることに自己成長はあるとも言える。

しかし、その先には何もない。

虚しさがあるだけである。

この虚しさに耐えながら働くことによって、生きる基盤となる収入が得られる。

収入以外の働く意義を見つけ、あるいは働く意義を変えることは難しい。

そもそも働くことの多くには、それほどの社会的意義は存在しない。

社会的意義を見出しやすい仕事は恵まれた仕事である。

普通は稼ぐために仕事があるといった個人的意義に陥るしかなくなる。

鈍感な者は幸せである。

虚しさと無縁になれればどれだけいいことだろう。
良好な人間関係を築ければ、働く意義を考える必要はなくなる。

人との関係の中に幸せを感じられるからだ。

仕事の内容は、一定のレベルを超えていればそれほど働く意義に影響なく、人間関係は働く意義に影響する。

他人は変わらない。

変わるのは自分の意識だけである。

意識の弱さが不幸を感じさせる。

悩みは意識の弱さであり、自我へのこだわりである。

暗くてネガティブで嫌な気持ち自体になり切ることができれば、不幸ではない。

なり切ることができなければ、不幸のままである。

意識が変われば、幸せに変わる。オバケオバケオバケくもり
人として生きることはそれ自体が無力で情けないことだと、誰にも思う日がやってこよう。

早い時期に来るか遅い時期に来るかの差はあっても。

この自己否定的な情けなさ、他人を批判しようとする情けなさが、人として生きることを思い出させる。

人はそのままでは、ただの雑音と変わりない。

しかし雑音以外の何かになるという手立てもない。

雑音とならないように試行錯誤する。

この試行錯誤自体がまた雑音である。

人は清浄な心を起こして、自身には雑音ではなくなるよう努める。

ただし、これでも周りから見れば雑音であることに変わりない。

人は周りとは関係なしに自ら清浄となる。

これが本来の姿と言える清浄さ。

これは周りとの関係によっては生まれにくいものだ。

周りから離れて初めて清浄の意味が分かる。

人が周りから離れることは難しく、生きて行くことは雑音を発することと変わりない。

せめて他人に届く雑音でありたいものだ。

それは雑音であると嘆くこともなく、雑音であると意識されることもなく、有るものとも無いものとも意識されることのない、ただの音として。ぐぅぐぅむかっ音譜汗ぐぅぐぅむかっ音譜汗
幸せになるための近道は幸せな人に近づくこと。

不幸せになるのは不幸せな人の近くにいるから。

確かに、幸せも不幸せも伝染するようである。

怒っている人の近くに居れば、自分も怒りたくなり、笑っている人の近くに居れば自分も笑いたくなる。

世の中は基本的には、快感を求める方向にあるが、快感は人に伝染しない。

快感か不快であるかは、あくまでも主観である。

これに比べて、幸せは主観とも言えるが、周りからの影響を受ける共同体的な要因を持つようだ。

幸せは独りよがりなものではなく、協調的なものであり、自分のためであって他人のためにもなる。

ならば、快感を求めることに始終せず、幸せを求めてもよいのではないか。

しかし、幸せをどうやって捉えればよいのだろうか。

人によって感じ方が違うのであれば、幸せを求めることは快感を求めることと大して差はないのではないか。

幸せになるための、人との係わり合い方は、簡単そうに見えて難しい。

多くの人が快感を求めるのであるから、多くの人が幸せが何なのかが分からない。

幸せとは、オカルト的、あるいは宗教的な要素のみとして捉えられる傾向にもあるのか。

幸せは、生きることの根本要素であり、幸せを感じない生き方には残るものがない。

ところが人は、快感を求める人の近くに居たいと思い、自らも快感を得ようとする。

快感は、生きることを直接実感できる要素である。

快感が繰り返されれば、幸せであるとも言えそうだ。

快感を求める人は幸せを求める人でもあるのか。

幸せな人とは本当はどういう人か。

経済的困難がなく、家族や仲間に満たされ、他人を理解し、他人と比較することもなく、怒ることも悲しむことも恐れることもなく、ただ笑っていられるような人かな。
ぶーぶーDASH!