幸福になるための生き方。

幸福になるための働き方。

幸福になるための遊び方。

それらは主観によるものであるから人それぞれであろうが、多くの人に共通するものがある。

幸福と言えるためには一時の感情で消えてしまわないことが必要になり、一時の快楽とは分けて考えられそうだ。

幸福も快楽も心地よい点で同じだが、長続きしなければ幸福とは言えなさそうだ。

一時の快楽による感情は、刺激が除かれればまた元の感情の原点に戻る。

幸福は、感情の原点そのものを上昇させる原動力でなければならない。

幸福は、考え方を変えることにあり、物事の捉え方を変えることから得られそうだ。

幸福は、人との関わり合いの中から生まれる。

幸福は、どれだけ他人の役に立てるかを自覚する時に生まれる。

残念ながら、仕事に対する私の感情は、幸福からは程遠いところにある。

幸福感を阻害するのは気持ちの持ち方である。

人がやりたいと思わない難しさがあるから、報酬が得られる仕事となる。

幸福感は、人がやりたいと思わないような難しさに、やりがいを感じることによって増加する。

幸福感は、人との関わり合いにおいて、どれだけ人に与えたと感じることができるかによって変わる。

多くを、あるいは極端には全てを与えたいと思えるような人が居れば、幸福感は増す。

幸福感を増加させる関わり合いを持つことは本当に難しい。

多くの人の幸福感への理解が必要とされる。

実は、人に与えることが最も幸福を感じ、最も自分のためになるとは・・・・・・。

幸福とは菩薩の境地であり、菩薩は幸福である。

社会で生きることの難しさ。

幸福を感じることの難しさ。

それは与えることよりも貰うことばかり意識してしまう社会のあり方に依存している。

仕事はまるで、貰うことが全てであるかのように。夜の街ナゾの人
人は無駄なことを無駄だと思わず、無駄であると認めると活気を失う。

菩薩は無駄なことを無駄と思い、無駄であると認めて活気を失わない。

無駄が何かと言えば、無駄なものは何もないと言えても、その理由を言うことはできない。

無駄であるという理由は、そこに心がないからであると言えるが、心というもの自体もともと存在しない。

働くことも、知り合うことも、考えることも、祈ることも、もともとそこには何もないものをあるように心が捉えてのことだ。

人は小さなことで苛立ったり悲しんだりするが、小さなことで喜ぶこともできる。

人が行うことのほとんどは自分のためであり、自分にとっては無駄でないと思っている。

確かに、努力をすれば得られることは沢山ある。

努力が何のためにあるかと言えば、自分のためにある。

努力は、他人にとっては無駄であることが多い。

しかし、努力は他人の客観的な幸せを増やすことはできる。

他人にとって無駄とならない努力は、自分にとっても無駄にならない。

努力とも関係なしに、無駄だと思えることを続ける。

人には無駄が必要で、菩薩にも無駄が必要だ。ヒツジDASH!ヒツジDASH!ヒツジDASH!
人生の後半戦に突入し、趣味の世界をメインに思いつつある。

楽しいことを考えて仕事をすれば、仕事は大して苦でもないだろう。

過去には、技術や特許などの専門書に惜しむことなく相当なお金を使ったが、そういった専門書はいつの間に不要なものと化してしまった。

専門書の中で今でも生きているのは、趣味である心理学などに関するものだけである。

今は仏像彫刻の関係の本が欲しくなる時があるが、購入は極めて慎重である。

過去に大量に本に費やしたお金の一部があれば、趣味の本が楽に買えるのだが・・・。

今は、もっぱらAmazonを使って、値打ちな中古本を購入することがほとんどだ。

過去の専門書は一時のものであるのに対して、趣味の本は一生ものだ。

何かがおかしい。

でも、それが普通かな。

仕事ではないから趣味であり、趣味ではないから仕事である。天使リサイクルオバケ
いつの間にかゲーマーになってしまった爆弾

何だ、この楽しく無意味な時間は?!メラメラ

今年の目標はどこに持って行こうかな。ブタ

我に返ることもなく、漠然とした正月休みを過ごした。ぐぅぐぅ

これから少しづつ、いつもの静けさの中に帰っていく。

私には、人が何のために生きているのかが本当にわからない。

人は自分に与えられた使命を感じるために生きているのではなかったか。

それとも人は幸せを感じるために生きているのではなかったか。

あるいは人は心地よさを獲得するために生きているのではなかったか。

人の目標とは何か。

人は誰かの役に立つために生きているのではなかったか。

人は誰かに思いを寄せるために生きているのではなかったか。

人は祈りの中になければ、社会生活を営むただの生き物に過ぎない。

身の回りをよく見るといい。

果たしてどこに祈りがあると言えようか。

人はただの生き物である。

そして、それを認めないところに人らしさがある。オバケ

一昨日行った白鳥庭園(名古屋)。

かなり広い庭園だ。

木々が池に映って美しい。

散歩するにはもってこいの場所だろう。

正月は食べ過ぎで、気がついたらもう終わりだった。

今年は珍しく、地元の神社以外に、お千代保稲荷、熱田神宮、大須観音に行った。

どこも物凄い人!

外へ出かけるよりも、家に居て、SD仏像を彫り、テレビを見ていた昨日の方が充実した感じだったドンッ

下の写真は白鳥庭園。

{A02920A7-1950-40F5-A01B-C1D0BFF51DBA:01}


{5E22DB5D-1BD3-434F-857D-E0DF07FFB3E4:01}

{98B8BE17-284B-4305-8A63-D210FE31B24E:01}

{612E04DA-5BC8-442B-B83A-4C6E785B19BF:01}


新年あけましておめでとうございます。

本年もよろしくお願い致します。
 
年末に出掛けた日間賀島。
 
タコ(多幸)とフグ(福)の島だ。

「とくがね」での¥8,400のフグ会席は安くてボリュームがある。

それに旨い。
 
2人分で、大人2人、子供2人が食べてちょうどいい量だった。
 
日間賀島の海岸は綺麗だ。

夏は海水浴場になる。
 
大きなハイジのブランコもある。
 
また訪れたい場所だ。
 
下は、ラグーナ蒲郡の夜景。
 
{86A63962-9152-4792-95AC-DB70EB647DF7:01}
 
{3122504B-BA5A-4647-B620-5E02FCF4399F:01}

{E47A8EFE-BE30-480D-B9E2-BC2463699A81:01}

{152A5805-58FC-4B7C-AE3F-CC9FF0CBF43F:01}

{4B4EC2C9-9A70-4F1E-A0EB-308D90BD9AEB:01}
 
1年のなんと短いことか。

明日で仕事納めになる。

昨日、娘が欲しがっていたナノブロックを、思いつきで追加のクリスマスプレゼントとした。女の子女の子

親にとって嬉しいのは子供が喜ぶ顔だ。ニコニコ

だが、甘やかし過ぎて何でも与えるのは間違っているだろうが。

本当に欲しがる物を買ってやるのが、親にとっても喜びである。クラッカー

子供の無邪気さを、親も真似をすると楽しくなる。

一緒に喜び、一緒に悲しむ。

一世代前の親子の関係と、今の親子の関係とは、かなり違うものになってきたのかな。

それとも自分と親の関係が、自分と子供との関係と違うだけなのかも。

子供には欲があるが、その欲は大人が持つ欲と違って多くを望まない。

大人の欲はどこまでも多くを望むものである。

欲を小さく持つことが生きる上で大切なことを子供は教えてくれる。

欲をなくしてしまっても健全ではいられない。

小さなことに欲を持ち、小さなことで満たされることが大切なようだ。

人生は小さな出来事であり、小さな奇跡でもある。

欲を出して、大きく見せようとして生きても、実際には小さいことに変わりがない。

それが一人一人の人生であるのかな。ブタ
クリスマスケーキも食べ、いよいよ今年も終わりが近い。ケーキ

昨日のお見合いの番組、面白かったな~。

今年になって、携帯をiPHONEに変えてから、SDガンダムにはまった後、今は碧の三国志にはまっている。

ゲームにはまるのは20年以上ぶりかもしれない。

昔では有料に思われる色々なゲームが無料でできるとは、随分と進化したものだ。

ゲームをする時間は言わずと知れた無駄な時間であるが、果たして人生に無駄でないと言える時間があり得ようか。

人生は何事もゲームのようなものである。

ゲームには明確な勝者と敗者があるが、人生には明確な勝者と敗者がない点が異なる。

仕事をすることがゲームであれば、学ぶこともゲームであり、遊ぶこともゲームである。

ゲームでないのは家族の関係だけだろうか。

何ものにも変えることができないのが家族だ。

もし、これもゲームのように見えてしまうなら、世界は完全な仮想世界となる。

何かをやらねばと思う心は、我に返ると不意に蘇るものだが、果たして何かをすることが、ゲームでないということもできない。

いずれの行いもゲームであると言っても言い過ぎではないようだ。

だから我々は与えられた人生ゲームを楽しめば良いことになる。

それが純粋な快楽を意味しようが、苦痛を伴う志を意味しようが、ゲームには変わりない。

人は何事にも意味を持たせたがるが、本当のところは何事にも意味はない。

あるのはそこに伴う感情のみである。カメあせる

日曜日は伊勢・安土桃山文化村へ車DASH!

子どもからの忍者屋敷へ行きたいというリクエストだ。

やはり、かなりさびれた感じはある。

日曜日は冷たい風が吹き荒れていて本当に寒かった。

お化け屋敷のような結構怖い建屋が2つほどあるオバケ

子どもは2人とも入らず。

小2の次女は号泣だったドクロ汗

リアルに怖かった~。

帰りには、伊勢のおかげ横丁に行って、さらに津ギョーザの店へ。

おかげ横丁は歩いているだけで楽しくなる場所だ。

津ギョーザは、15cmぐらいある大きなギョーザだ。ラーメン

まいうーであった割り箸

{F6BB6874-C27F-450E-B477-4D566CA7F310:01}

{D613234B-6CCB-45EA-970C-C32D7F4A17E1:01}


仕事をしている時間は早く過ぎる。

人は仕事をせずには生きられないから、人が持っている時間はそれだけ短い。

楽しい時の方が時間が早くすぎるとの考えより、時間が早く過ぎると感じることは恵まれていると考えることもできる。

しかし、仕事で早くすぎる時間はなかったことと同じようにも思える。

楽しい時間でなければ、早く終わって欲しいと思うものだが、それでは生きる全体の時間も短くなってしまう感じだ。

それでは何かつまらない。

しかし、如何につまらないと思えても、それが現実に与えられた時間である。

仕事は他人のための奉仕活動であり、実質的には何もやっていないように思える。

それで毎日は終わって行く。

それが人の生きる道であり、人の生命そのものである。

何かをやったかのように自己評価することが人の考え方だ。

何もやっていないと感じても、その時間に感情を働かせることはできる。

人は日々の日課としての仕事を続けることの方が、仕事をしていないことに比べて、特別に何かをやったという感覚はなくなる。

それが人の平穏な生き方であり、その方が健康である。

体が痛いと感じながらも仕事をする方が、仕事をしていない状態よりも健康である。

それにしても不調な一週間である。ショック!爆弾