愛の感情は届きにくいから尽きることもない。

人は愛に生きたいと思う。

愛は人を生かせる。

人は愛に動かされ、愛に沈む。

全ての発現は愛を伴う。

人は心によって愛を確認する。

それは見えなければ語り得ることもできず、静かな海へ帰る場所である。

心に抱く愛が真実の愛である。

形に表す愛は嫉妬を伴う。

心の中にある暖かさ。

それは子供時代の記憶であるかもしれないし、楽しかった日々の記憶であるかもしれない。

それが愛の感情と結びつくものであって、愛を尽きさせない。

ふわっとした微笑みのように、不要な力が入らず、落ち着きが持てる感情。

それが愛の発現に思える。天使いて座クマ
今年の納会も終わって、いよいよ年末だ。

乾燥肌の私は冬に弱く、飲酒を控えているが、納会では飲まない訳にはいかない。

アレルギー症状がありながらも飲み続けると、最後には浄化されているかも爆弾

腹が痛くなるのには困るが。

寒冷じんましんなのかもしれないドンッ

ナイロン系の服を着ると乾燥を抑えるようで、意外と楽であるようだ。

たまには若干如何わしい店に連れて行かれるが、それも一つの刺激であろうかメラメラ汗

財布の紐を緩めるだけでもいけないので、たまには使うことも必要か¥

と言っても、お金を使う先がリーフに乗って、京都・奈良付近まで徘徊するという方向にシフトしているだけなのだが車

ガソリン代がかからないと思うと、ついつい遊びに行きたくなるのがリーフオーナーの定めか。

充電スポットを確認して観光地に出かけるのが楽しい。

それにしても、10時間ぐらい飲んでいると、何かアルコールに親近感が生じるのかビール

酔いを突き抜けるようだドクロ
私は毎朝、暗唱した正信偈を唱えて仏に対面しているが、その日その日によって、よそ事が勝手に頭に想起されている時があれば、無心の時もある。

よそ事が想起されていると、暗唱していることがわからなくなることがある。

暗唱しているから、大抵はよそ事をしながらでも勝手に口に出るものだが、そうならない時がある。

そうならない時というのは、何らかの感情を後ろに隠している場合で、思考が優先されてしまう場合だろう。

人は隠された感情を追って思考に入る。

その思考には、自我という人間らしさがあるが、逆に人間味を遠ざけるものが多い。

思考は暗唱という神秘を遠ざけようとする。

しかし、生きていることのほとんど全ては思考であるとも思われる。

思考に支配され続けると、思考に支配されない神秘が何であるかがわからなくなるだろう。

自我は日常であり、仏は神秘である。

仏と対面するのであれば、それにふさわしい心でいたい。

しかし実際にはそうでないことが多い汗

「なまんだぶ」と唱える姿は、自分の心に問いかける姿である。

それは単に信心の名で片付けられるものでもなく、生きる根元そのものの発現だ。

自分との、言うならば自分の仏性との対面である。

ブタぐぅぐぅ・・・UFO宇宙人ドンッ

ぼんやり眠たく冴えないが、焦ることがなく悪くもない日。

そんな感じの日だ。

私が子供に頼られるのは、歯磨きのときや、子供なのにマッサージのときやドンッ、その他の雑用などのときであろうか。

しょうもないことが多いが、このしょうもないことが大事だ。

私も気持ちの上では子供に大いに頼っている。

無邪気さは大人にもあり、見ているだけで幸せになれる。

疲れた時に頼られるなど、思わず怒ってしまうことがあっても、本質的なことではない。

子供の価値観は大人にとっても心地よい。

言うならば、しょうもない価値観だから、心地よいのである。

そこに金額などは関係ない。

どれだけ気持ちが入っているかどうかだ。

子供もやがては大人になって行くが、家族におけるしょうもないけど心地よい価値観は、いつまでも持っていたいものだ。

この価値観は共通のベースとなるものだからだ。

西洋的な形式に支配された社会は何やら冷たい印象を受けるものだが、家族は暖かみのある価値観を維持したいものである。

頼るという言葉には、面倒を見てもらうという言葉以上の、何やらもっと大きな意味があるようだ。

頼ることは頼られるためにもある。

心の支えとなる場所、自然体に帰る場所、世の中の価値観に左右されない場所、いろんな言い方はできそうだが、人にとってはそう言った場所が一番大事なようだ。

フグうお座クマノミフグうお座クマノミフグうお座クマノミあせる

某茄子ゲッツしたから音譜、今年はフグ狙っていくか~はてなマークDASH!

 休み明けの方が疲れを感じるのは、休みの方が活発に動いているからに違いないだろう。
 
月曜日のかったるさを過ぎて火曜日へ。
 
日々を生きていることは、自分に回帰する感性がなければ、なかったことと同じになる。
 
日々の一つ一つの行動が仏の現れであると思えば、生きるという小さなことに感謝が生まれる。
 
一つ一つが仏の現れであると思えば、一つ一つが粗末に扱われない。
 
一見、仏と関わりのない考えるという行為にも、心が宿れば感謝となる。
 
我々は右にあったものを左に動かすという作業をしているに過ぎず、役に立つという幻想の元で人生を送る。
 
そこに仏がなければ、幻想が幻想でなく、幻想であると永遠に知ることもなく終わって行くことになる。
 
終わりは誰にでもやってくるが、仏は誰にでもやってくるが訳ではない。
 
仏は自分に回帰した者にしかやってこない。
 
仏を見ることは難しくても、仏を忘れることは簡単だ。
 
一瞬にして消えてしまう。
 
一つ一つの行為が仏の現れとするために、仏を消してしまわないことが必要になる。
 
仏はいつでもすぐ近くで待っている。
 
生ずることもなければ滅することもない今に仏は住んでいる。

我々の力がないためにそれを感ずることができない。
 
この力を維持することは簡単そうに見えて難しい。
 
人間としての愚かさを捨てることはできないからだ。
 
それでも人間は唯一の救いである。
 
人間に頼らなければ、生きて行くこともできない。
土曜日に行った恵那峡は、紅葉もほとんどなくなり、ガラすきの状態だった。霧

遊覧船からの眺めは実にいい。船

近くに、「銀の森」というところがあって、こちらのビュッフェは、明るいテラスで食事ができ、全体的に美味しくて大正解だった。合格

その後、土岐プレミアムアウトレットへ。車

特に買うものはないけど、嫁からのリクエストだ。

店内の乾燥した空気が私には辛い。

恵那峡

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銀の森のもみじ


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ちょっとした勘違いからこじれる人間関係。

人が人を正しく見ることは難しい。

人は自我を強調するから、人が見えなくなる。

だが人は自我をなくすと、空気と同じになる。

空気になるよりも実態あることを望むから、自我を強調し、好き嫌いを生み、正しく見ることが難しくなる。

心は偏見に囚われる。

自我を強化すれば、心も強化されそうだが逆のことも起こり得る。

心地よさも心地悪さも自我がつくるのだとしたら、自我には思った以上の力があるように見える。

所詮、自分はこの程度だと思う決めつけ。

自我にはそういう力がある。

この決めつけは意外と強いものだ。

この決めつけを緩めることができたら、自我は良い力を発揮するのだろう。

これと違って、自我を強調せず、空気と化せば、祈りへと通じる道が開かれる。

生きることはまだ見ぬ、あるいは永遠に見られない景色を探し求めることにある。

探し求めるのは、目に見えない空気のような偉大な存在でもあるだろう。

このあるのかないのかわからず、あっても何も主張しない偉大な存在が知覚できることを望むのが、生きることの目的地でもあろう。もみじとかげ

人は囚われの中に生き、人は囚われの中から抜けることはない。

良い意味でも悪い意味でも囚われている。

人は考えることによって自ら囚われ、囚われることによって再び考える。

考えることは生活の豊かさをもたらすが、それと同時に生活の貧しさももたらす。

嫌だと思っていることは大抵は考えることによって作り出された幻想である。

人は習慣に生きるから、自分の習慣と化したことは自分の中では常識となる。

それが人の囚われを作る。

しかし人は、囚われから離れては単なる根無し草になってしまうかもしれない。

囚われは上手く生かせば人に満足感をもたらす。

囚われながら囚われに左右されず、ここにある道を歩く。

所詮は誰も、力のない人間に過ぎない。

だから囚われ続けて生きていく他に生き方はないようだ。

この思考も、この身体も、この命もぶーぶー汗汗汗汗汗オバケ星空
忙しい時期が過ぎて、ひと段落だ。

しばらくは、ほぼ定時帰りで行けそうだ。

昨日は小5長女のクラスの女子みんながやって来て、賑やかだった女の子

みんなかわいいね~。小学生。

小さいながらに女子会かぁおうし座しし座おひつじ座女の子天使

過疎化が進み、人数は9人であるが。

私は久々にSD仏像の彫刻をして楽しんだカエルあせる

忘れそうになった頃に再開している感じだが。

ただ彫ることに意義があり、彫ることが生きることだ。爆弾

彫ることで見えることがあれば、彫ることで癒される。ぐぅぐぅ

彫っているのは家族の守護本尊であるSD仏像王冠1

彫る作業はなかなか面白い。

それ以上には何もないのかもしれないが。

人生には元々大した意味がないのであれば、ただその作業をすることに祈りがあり、その作業をすることに楽しみがある。

仕事では、時間との兼ね合いがあるので、なかなかそういう楽しみを持ちにくいものだが。

彫ることは楽しい。にひひ
人間であることは全くもって情けないことが多い。

年を取れば体がくたびれ、他人のことは除外していつも自分中心に考え、知ったか振りして本当は何も知らないのだ。

そんな人間に腹が立つことがあれば、また自分もそんな人間だろう。

自分にない性質で、他人に腹を立てることはないからだ。

他人の性質ではなく自分の性質に腹を立てているのだろう。

いかにして人間を嫌にならないかに努力をする必要もある。

この努力は気持ちの持ち方の工夫である。

仕事は考えることによって良い結果が生まれるが、人間については考えることによって悪い結果しか生まれない。

そこの点が面白い点である。

考えることは人間を一定の類型に当てはめることを意味する。

一定の類型は確かに正しいかもしれないが、それは人間の半分の側面を見てのことにすぎない。ケン・ウィルバーからのパクリです汗

人間について考えることを止めれば、ストレスも不安も苛立ちも一切がなくなるだろう。

そんな境地が菩薩に近づく境地ではなかろうか。

考えることからすれば、慈悲は損をすることである。

しかし、考えないことからすれば、慈悲は愛である。

相手の立場を考えることにすれば、慈悲が生まれる。

人間について考えることが良い結果を生むのは、相手の立場を考えるということにしかないようだ。

自分の立場で考えると、たちまちに怒りが沸き起こる。

考えることは使い方を間違うと厄介なことになる。

世の中を生きやすくするために、自分の立場で考えない工夫をすることは大事だ。ブタブタブタブタブタDASH!