年に2回ぐらいしかやらないゴルフに行って、2回とも雨に降られ、スコアはもちろんボロボロドクロ

娯楽の一種としてゴルフは悪くないが、ミスショットを連発すると結構疲れる汗

ゴルフか飲み会かゲームか、それぐらいしかできる娯楽はないのかな。

愚痴会になってしまう飲み会に行くことを控えているが。

娯楽にハマると自分がなくなってしまうだろう。

自分は客観的な情報で捉えられてしまう娯楽にはなく、主観的にしか捉えられない感覚にあるからだ。

しかし、息抜きであったり、普段しないことをすることは大切だと思う。

それによって気づくことが多いからだ。

それに、仲間を持っていると救われる時がある。

どんどんどんどん日は過ぎて行く流れ星

人は自らを失ったまま、自らを情報と化して、前へ進んで行く。

人が失ったものは何か。

人が人に帰るにはどのようなことを心がけるといいのか。

意味があると思っていることは何も意味のないことばかりであるが、この意味のなさの中にしか人はいないようだ。

働くことの先にも大きな意味はない。

しかし、意味がないということが、我々人にとっては唯一の現実であるかもしれない。

我々はそれ以上のものになることができない。

個々の人生には意味がないが、意味がないことを知っていればそれで救われる。

どのように生きるのも自由であると、気づくからだろう。

しかし夫々の人に自由はあってないものだ。

我々の言う自由とは、そもそも何でも好きにできるということを意味しない。

言うならば、我々の自由とは、自我、考え方、執着などからの自由を意味するのだろう。

慌てること、焦ること、いらつくこと、惨めなことからも、考えることをなくせば、かなり自由になる。

意味を問うことは生きることである。

しかし、肝心の問うている意味は初めからないかもしれない。

それでも人は、生きることに自由になれば幸せになれる。

見つめれば見つめるほど、意識すれば意識するほどに意味は消えていくが、消えていく意味は人から幸せを奪わない。

人は意味から自由になって、気が軽くなる。ヒツジヒツジヒツジDASH!
土曜日に京都大原三千院へ車

紅葉の真っ只中で、もの凄い賑わいもみじ

1日で7千人ぐらいくるらしい。

ただし、12月の寒い時期には、1日70人になるとか汗

弥陀三尊像があるお堂では住職の面白いトークを聞くことができる。

風情ある庭での紅葉が素晴らしい。

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こちらは駐車場から歩く時の道路際の紅葉。

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こちらは帰りに通った琵琶湖大橋。

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生まれた時、小さな時は誰も美しく、歓迎されていたことだろう。

成長する途中でひねくれたことがあったりしても、年を取るに連れて浄化されて行きたいものである。

なのに年を取るに連れて見た目は悪くなり、臭くなり、傲慢になる。

それは成長期には感じることがなくても、一定の年齢を越えると顕著に感じるようになる。

自分ではあまり気づかないことだ。

人は精神的な成長を止めると、ないものをいたずらに求め、あるものをより多くしようとし、欲求のために生き、いつかは傲慢になる。

そのことに自分では気づかない。

皮肉なことに社会で真面目に生きるほど、そのような傾向にあると言ってもいい。

不真面目になるということは、一見悪のように見えて、実は人を高い位置から再考した見方ではないか。

精神的な成長を止めた人は、獲物を求めて終わりなき旅に出る。

終わりがないというところが味噌だ。

終わりを感じてしまうと、精神的な後退にも繋がり得るからだ。

終わりには何が......。ぶーぶー




久々にヘッドハンティングの会社から電話がかかってきた。

いきなり電話をしてくるとは、おそらく相当の人数に声かけをしようとしているのでは?

速攻で断っておいた。パー

ヘッドハンティングで引き抜かれて、長い間、待遇?などがよくなる例は少ないのではないだろうか。

以前それで転職した人は、僅か1、2年ぐらいで別の会社に移ったようだ。

誰しも声をかけられると気分が悪くなく、ついつい話を聞いてみようかと思うものだ。

だが実際に転職するとなると、現状にかなりの不満を持っている人となるのかもしれない。

不満はさらに別の不満を呼び、転職しても長続きしないおそれがある。

無論、私の考え方は間違っているのかもしれない。

現状に満足することは理想だが、理想を求めた満足を得るのは難しいだろう。

というよりも、そのような自分都合の理想によって満足することはあり得ない。

満足するのは、良いことも悪いこともすべて呑み込む場合にしかあり得ないと思うからだ。

悪いところを受け入れて一人前となる。

それにしても私のようなヘタレに声をかけてもらってありがたいものだ。

私は仕事、社会を冷めた目で見ている。

私にとっては、キャリアアップすることが重要なのではなく、働き続けられることが重要だ。

私にとっては、働くことが重要なのではなく、生きることが重要だ。

だから、私にはもはや損得の勘定は要らない。わんわん

時折、損得の勘定をして自分が嫌になることもあるが……。爆弾ドクロ

生きられる時間が短ければ、働ける時間も短い。キラキラ

あっという間に、終わってしまいそうだ。

だから、いい意味で気を抜きながら、生きることを考えながら、ヘタレな働き方ができることがとても幸せだ。

土曜日、京都行くぞぉ~車DASH!もみじもみじもみじもみじもみじ

愛はどこへ。

いつも近くにありながら感じにくいもの。

いつもあるのに、あるとはわかりにくいもの。

あると景色が変わって見えるもの。

あると内側からみなぎる力を感じるもの。

あることを前面に出すと何か気持ち悪いようにも感じるもの。

あることを隠すと、ひねくれてしまうもの。

あることが憎しみを生むもの。

あることが執着を生むもの。

ないと魂を抜かれてしまうもの。

愛から厳しさは生じても、厳しさから愛は生じない。

愛から執着は生じても、執着から愛は生じない。

愛から安らぎが生じれば、安らぎからも愛が生じる。

あるのか、ないのかわからないもの。

実はそういったものに、愛と結びつく安らぎがある。

ハチいて座天使あせる
自分探しの旅、自分を見つめる旅、癒しの旅。

いろんな呼び方はあるが、仏像やお寺の情緒が好きになった者にとっては、切っても切れない縁にあるテーマである。

私もそのようなテーマのBS番組を録画して見ている。

生きて行くことは自分を見つける旅である。

そして人は、自分を見失いそうになった時、自分探しをしようとする。

自分がわからなくなったとは、一般には自分の自我がわからなくなったことを言うのだろう。

自我とは、自分自身が感じる自分であり、他人の反応からも感じられる自分である。

確かにそのような自我は何かに没頭したり、仕事に流されたり、環境に適合し過ぎてしまうとわからなくなるものだ。

それは自分が感じる自分であるのか、それとも他人の反応から感じる自分であるのか。

人は社会性の動物であるから、他人を抜きにして自分を考えたり感じたりすることはできない。

常に社会との関係で自我が出来上がっている。

そんな自我は果たして、本当の自分を示すのか、それとも装う自分を示すのか、わからないことだろう。

そもそも、自分探しの旅が本当の自我を探す旅であるとしたならば、それは永遠に見つからない自分を探しに行くことになるだろう。

あるいは、自分という自我の妄想を探しに行くことになるだろう。

だからと言ってテレビ番組がつまらないわけではなく、面白い。

生きることは、見つかることのない自分を探して行くことにあるからだ。

自我というものが果たして何なのか。

なぜ人は自我に拘り、自我に苦しむのか。

人は自我という形でしかこの世界に関わりを持つことができない。

この世界では、自我そのものがその人であるとされる。

この世界では、自我そのものが自分であると思っている。

自我を超えた自分があったとしても、この世界で社会的に見出されなければ、ないことと同じではないか。

それでも人は自我に納得しないから、自我を超えた存在に憧れる。

自我を超えた存在は、とても静かな、有るのか無いのかわからないような、まるで空気のような根本的なものであるだろう。

それは言うならば、目に見えない道とでも言えるような。かたつむり………足あと汗


人の正義とは何か。

人にとっての正義は、人の道徳観に沿うものであり、自分に損がないことでもある。

一般的にいう道徳観は、他人に害を与えないというところから来ている。

なおかつ、大抵は自分も損をしないということが道徳観だ。

自分に損をしてでも、守るべき道徳観も存在するだろう。

人をそれだけ強く駆り立てる正義や道徳観とは何か。

それはひょっとすると自分の面子を守るためだけのものか。

自分の面子を守ることが正義だとしたならば、人が正義を主張することは果たして良き行いとなるのか。

正義は見方を変えると悪なのかもしれない。

世の中は相対的なものであり、正義を主張するためには悪を作らなければならない。

一方にとっての正義は他方にとっての悪である。

ならば正義を主張することは同時に悪も主張するようなものかもしれない。

であれば、主張することは正義であると同時に悪であると思えばいい。

悪であるとの認識があると正義は認められやすい。

悪を除外した正義を主張すると、正義は正義と思えにくくなる。

人の主張は全て相対的である。

悪を認識して正義を主張することと、正義を認識して悪を主張することは大して変わらないことになる。

この点をよく認識すれば、人の意識から少しだけ抜けられる。

人に溺れることがなければ、人から遠ざかることもない。

そういった人になることができるだろうか。ブタ汗汗汗波

人の価値観や道徳観は年を取るに連れて変化していく。

子供の時には既にそれらの基盤があったとしても、人に押され風に吹かれて飛んで行くものである。

子供の時には自由である一方で、持っている力を出すことができない。

子供の頃には高望みや憧れが強くて、本来の自分を消してしまおうとする。

ただ外の世界に、人に怯えながら、自分の固定観念の中に留まるだけである。

それでも中心にあったものは今でも子供の頃でも変わらない。

あの頃偉大だと思っていたことは一つの空想の現れに過ぎず、逆にあの頃貧弱だと思ったことは現実の現れであったりもする。

子供の頃の価値観や道徳観は、変化しながらも今に強い影響を与えている。

自信なくやっていたこと、ひねくれていたこと、気を遣っていたこと、それらは今のトラウマともなっている。

トラウマは表面上は現れない。

意志の力によって、あるいは価値観や道徳観の変化によって、トラウマは消されて行く。

しかし、深層ではトラウマはそのまま残っている。

このトラウマこそが生きることの辛さ、生きることの宿命を教えてくれる。

トラウマを忘れないことが、命に謙虚でいられることの第一歩となるようだ。

自分には大した生きる価値はない。

それは日々を見ればわかることである。

人は大した価値がなくても生きて行ける。

それは命が、大した価値がないと思う自我よりも先行しているからだろう。

命は自我とは別に存在する。

だから命に自我を任せれば、自然に近くなる。

ところで、過去を変えることはできないから、過去に対する意味付けを変えるという考え方がある。

確かにそれは正しい。

過去は何らかの意味で今にとって重要だからだ。

しかし、暗いと思っていた過去の意味を変える必要はなく、人はそもそも暗い存在だと知ってもいい。

人が明るくなるのは、そのことを知ったからである。

だからトラウマは、人にとって重要な一面に気付かさせてくれるだろう。

過去の暗さは人の暗さである。

これを抜きにして、今を生きることはできない。

雨雨雨台風雨雨雨流れ星くもり晴れもみじ
我々が普段自分だと思っていること、自分の素直な気持ちだと思っていることは、本当に真実の自分であり、自分の素直な気持ちであろうか。

体の調子が悪いと思う時には調子が悪くすることが素直な気持ちだと思い、腹立たしいと思う時には腹立たしくすることが素直な気持ちだと思い、喜ばしいと思う時には喜ぶことが素直な気持ちだと思っている。

嘆いて、怒って、喜ぶのが素直な表現だと思っている。

果たして素直さとはそういうことを言うのだろうか。

思ったままに反応することが素直さと言えるのだろうか。

真実の自分を知った時、思ったままの反応というのは、素直な自分ではないと気づく。

思ったままの反応は、下界の刺激に対する反射であり、自分自身ではない。

自分とは単なる反射をする生き物ではなく、刺激に踊らされない中心ではないか。

かくして、恐れず、怒らず、浮かれない真実の自分の姿が想起される。

人は真実の自分で他人に接することはできず、他人は、真実の人を見ることはできない。

他人では見ることができないのが、自分の内側に入ることによってしか見れない心。

自分の中心に位置する何者かである。

中心は、慌てず、気取らず、落ち込まずに静かに自分の存在を見届ける。星流れ星星空
人生は長いように思えて、実際にできることはほんの僅かである。


自分ができることが少なければ、人にやって上げられることはもっと少ない。


我々は自分が楽しむことで精一杯であり、人を楽しませることはほとんどできない。


自分が生きていくことで満足し、他人が生きていくことにはほとんど関与しない。


人生のほとんどは自己満足の場である。


他人が満足するかを考えることはほとんどない。


自己満足の延長上にしか、他人の満足を考えることができない。


そういったことに気づき、求道心とは何かを思い直す。


人は自己満足を自己満足と感じなくなり、自己満足をあたかも他人のためであるかのように装う。


求道の道は我々に向けられた小さな思い付きであろう。


自己満足は人生において必要なことである。


これがなければ人生はただ辛いものとなる。


人はやりたいことに眼を向けて自分を興奮させる。


人生とは、興味あることへの興奮といっても間違いではない。


この興奮がなくなってしまうと、また人生は辛いものとなる。


興奮によって支えられるのが人としての生き方である。


興奮を忘れると、生きる意味に悩むことになる。


興奮は、自己満足のためだけにあらず、良い副作用をもたらすようだ。


興奮は悩むことを忘れさせる。


興奮は小さな成功体験と合わさって人を成長させる。


こうして、興味を興奮に変えて、自己満足と自己成長を促していく。


それが人としての生き方である。


どこに求道心があるのか。


それは興奮の中にもある。叫びメラメラ