人は思う。

昨日よりも今日が、今日よりも明日が良い日であればいいと。

今日は昨日の積み重ねであり、明日は今日の積み重ねである。

人は悲しむ。

今日が昨日の積み重ねでなく、明日が今日の積み重ねでないと。

昨日よりも今日が、今日よりも明日が良い日でないと。

人は明日が良い日であることを妄想する。

そして、妄想を妄想であると見ずに今日に悲しむ。

昨日も今日も明日も現実は現実として存在する。

この現実は、気持ちの持ち方次第で厳しくもあれば、優しくもなる。

気持ちの持ち方次第で昨日も今日も明日も良い日となる。

究極の目的は生きたままの極楽浄土であり、仏性の発現である。

極楽浄土は今ここにあり、仏性は今ここに示される。

これが昨日も今日も明日も見る妄想である。

妄想を妄想と悟り、現実を妄想と取り違えない。

ところが現実は妄想そのものとなる。

心の極楽浄土に住もう。

ベルもみじベルもみじベルもみじベルもみじベルもみじ
約2ヵ月ぶりの京都・奈良へのお出かけ車

リーフ購入後、初めての遠出だアップ

今回は、初めて行く吉野へ霧

吉野の桜が有名だが、今回は吉野の紅葉を見にもみじ

だが、紅葉はまだ始まったばかりのようだ。

そのおかげで駐車場はがらすきで、上の方まで車で登って行けた。

吉水神社からの一目千本の眺め目

これはすごい!!

桜の木の全体が紅葉するとかなりすごそうだ。

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金峯山寺蔵王堂王冠2

秘仏の蔵王権現さまは見れなくて残念ショック!
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こちらは帰り道に寄った、長谷寺からの景色もみじ


特別ご開帳の十一面観音菩薩さま、すごかった~。

観音さまの足に触れて、縁結びをさせてもらったてんとうむし

「わらしべ長者」の舞台がここだったのを初めて知った。

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すべてが正しいと言う単純な認識を持つことができない。

すべてが心であると言われても受け入れ難い。

心性は音となって現れ、音は心性を感じさせる。

音として発言できることがあれば、音として発言しにくいこともある。

音は人を魅了し、人は音によって自らを思い出す。

音は人の心を発言する媒体だ。

音にならない心性は、言葉に置き換えられるか、生まれては消えていく意識の連鎖を引き起こす。

音は強い力を持つ。

だから、音に表せることがその人と思いがちである。

意識は、か弱い音以前のものである。

意識は音として現れる時を待っている。

しかし、音となる前に消えていく。

大切なことほど音にしにくい。

人が成長するほど音に表せない意識は広がる。

広がった意識は理解しにくい。

それは音以前の音だからだろう。

それはなんとなく感じることだからだろう。晴れ霧雨虹
世の中、自分を肯定して他人も肯定する関係がベストだとされる。

確かにその通りだ。

交流分析で言うところのI'm OK ,You're OK の状態であり、言い方を変えればWin & Winの関係になる。

ところが、これだけではまだ足りない。

自分も他人も肯定するだけでは、人の自力を強調するあまり、行き詰まりが生じる。

人は自ら生きているのではなく、何者か(創造主?)によって生かされていると考える方が自然だからだ。

そうでなければ、この世界は人の傲慢によって支配されることになってしまう。

何者かによって生かされていると感じるならば、自分も他人も否定することを忘れてはならない。

これが仏教などに言う自己否定の考え方に思えるが。

自分も他人も否定することによって、人の意識を超えた新たな境地が初めて見えてくる。

人の力を超えた大きな力を感じるあるいは意識する境地だ。

自分も他人も肯定する姿勢と、自分も他人も否定する姿勢が必要である。

自分か他人のどちらかを肯定又は否定する姿勢は、若干病理的とならざるを得ない。

肯定するだけでは必ず行き詰まるだろう。

生きることの最終的な目標は、善悪を超えることにあると思うからだ。

肯定するだけでは強い力は生まれない。

否定するだけでも強い力は生まれない。

肯定も否定もしない境地は、人を一歩抜けていると思う。

このことは自分も他人も肯定し、自分も他人も否定する姿勢に近いのではないかと言うこと。

抜け落ちている部分を見つけ、全体を平衡させることはとても難しい。

走る人走る人走る人走る人走る人DASH!オバケオバケオバケオバケオバケキラキラ
夢の中で自分のみすぼらしさと戦う。

みすぼらしさは今ではなく過去の自分にあると思っている。

みすぼらしいと認識している自分の過去。

これが今の私の姿そのものである。

人は過去を乗り越え未来に生きるというが、過去は忘れるためにあるのではない。

過去は今の自分を示す唯一の羅針盤であろう。

過去から脱却する必要はなく、過去と共に今があり未来もある。

無論、意志によって過去も、今も、未来も一つとなり、区別する必要がなくなり、また思いを巡らせる必要もなくなる。

自分という思考と、与えられた自分とは違うからだろう。

自分という思考が、自分をみすぼらしいと考えているに違いない。

それは事実の場合もあるが、大抵は事実を誇張したものだ。

この自分という思考が、過去も今も未来も考えるものに変えてしまうのだろう。

意志の力によって、自分という思考を変えることはできるが、夢には意志の力が及ばす、意志の力によっては見る夢を変えることができない。

夢は自分という思考を反映する映像である。

この映像は思っている以上に強い力を持っている。

ワークライフバランスという言葉が提唱されつつあるようだが、夢の力はライフを左右する。

そしてライフによってワークに影響する。

夢を生じさせる思考は、意志の力によっては変えることができない。

夢を生じさせる思考はそれだけ強く、根本的なものである。

夢を生じさせる力よりも強いのは今そのものである。

今そのものが思考によっても感性によっても受け入れられれば、夢を生じさせる力は弱まる。

今は過去とも未来とも一体であり、みすぼらしさそのものが自分であるが。

ドンッドクロドンッカエルドンッドクロドンッ
なぜ生きるのか。

それは自力から考えると意味がなければならないように見えるが、他力から考えれば意味がなくて然りだ。

自ら生きているのではなく、生かされていると考えれば、意味は自分で考えることではなく、初めから与えられていることだと気づく。

自力を強調する現代においては、生きる意味、生きがいを見つけなければいけないかのように思わされる。

自力を信じる生き方は、人を安易な生きがいに定着させようとする。

自力は命を持ち物のように考える。

自力は欲求するように命を必要とする。

他力は命を持ち物と考えなければ、欲求するものとも考えない。

命は自分とは関係なしに存在する。

自分という自我は、命の上に形成された自力による考える力だ。

自我は命の存在を忘れさせる。

自我は与えられている生きる意味を忘れさせる。

自我は、生きる意味が分からず、いたずらにそれを追い求めようとする。

自我は、少し他力に解放してやるだけで、生きる意味を見つけやすくなる。

そもそも生きる意味は初めからあって初めからないのであり、わざわざ考えて意味付けをする必要はないのだと気づく。

この生きる意味は、人の自我からはなかなか分からないものだろう。

ヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジオバケヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジDASH!
人は夢を見ている時は無意識になっているようにも思える。

夢は心の現れであるかのようにも思える。

だが、夢は実際には、頭の中で考えられたことによって作り出されていることが多い。

ここでも考える力が作用している。

過去の辛い経験をトラウマとも呼ぶことがあろうが、トラウマとは考える力によって作り出されたものだ。

人から考える力を除外することはできない。

人はいいことも悪いことも、考えることによって解釈を与える。

辛い経験だと思っていることは、悪いように考えることによって、もっと悪い方向へ導いているものだ。

確かに人は皆醜い。

考える力が生み出すことは、美しさと、醜さを伴う。

考える力によって、自分の過去は醜いものだと考えている。

そして、現時点でも確かに醜い。

考える力が強くなり、反抗する気持ちが芽生える中学、高校の頃の不正直な自分は、いつまで経っても醜い自分として残るものだ。

それは考えるという力によって、夢において再現される。

考える力によって、夢においては醜いと思っていたことはさらに醜く再現される。

存在自体がちっぽけだと思ったり、あるいは上手くできないと思っていたりすることはコンプレックスとなる。

コンプレックスによって、人格が否定されるように感じ取っていることは、考える力によるものだ。

今でも若い時でも、考える力は人に反抗したいという気持ちを作る。

この考える力が、ある種の競争社会において、人から勝ち抜くための原動力になっているのは事実のようである。

考える力によって醜い対象を自分の外に作り出し、それを打ち破るために努力する。

その努力は、考える力をさらに増強させ、敗者とならないための頭脳を作り出す。

そして、自分の外部に作り出した敵と戦うことになる。

それは、偽善の戦いであり、本来の敵は存在しない。

それは、いつしか自分と他人の間に壁を作り、さらには自分の中に壁を作る。

こうして自分の中に作られる壁は、考える力と心とを分け隔てることになる。

考える力と一体化した戦士であるかのように。

夢は、考える力の延長上にあるようである。

ならば、残された心はどこで見ることができるのか。

考えることを止めたとき?

無心になることが心である?

心はもともと存在していない?

肯定も否定も乗り越えたところに心は存在する?

カエルカエルカエルあせる

答えはない?

あるいは永遠に続く無限ループが心であるかもしれない?
人は考えることによって、自分がどんな人間で、自分が何が好きで、他人をどう思うかを決めている。

この考える力が示すものは基本的には、自分を中心とした偏見でしかない。

考えることによって行動を決めている。

考えることによって、喜び、哀れみ、腹が立ち、無関心にもなる。

そもそも心は、生きていること自体に関心があるのであり、生きる事柄についてはそれほど関心がない。

生きる事柄について関心を持たせているのは、社会的に順応しようとする考える力である。

心は自由であり、社会に順応しようがしまいが気にかけない。

社会とは、共通の、あるいは暗黙のルールで成り立つ、生きる土台である。

心は社会を知らず、社会は心を制することはできない。

社会が制することができるのは、人の考える力だ。

社会は、特有の規範によって人の考える力を誘導し、人から心を遠ざけようとする。

心は社会に刃向かうこともせず、社会は心を気にかけない。

一人歩きしているのは心なのか、それとも社会なのか。

人が考える力を社会に融合する時、社会は発展する。

社会は人の考える力によって成り立っている。

心を置き去りにして考える力に同一化した人は、社会に融合し、社会的な地位を得る。

社会とは考える力の結晶であるのか。

考える力ではない心は、社会にとってはそれほど重視されない。

社会性と心とは違い、心は考える力とは別の次元に存在する。

考える力も、心もどちらも大切なものだ。流れ星星流れ星

考えるということと、心とは違うのではないか。




我々は漠然と、考える主体は自分であり、心も自分だと思っている。




我々は考えることによって、対象に評価を与え、判断し、行動を決めている。




考える対象は、情報化社会によって幅が広がって行っているように思えて、実は深さが狭くなって来ているのだろう。




表面的に見て解決できること、客観的に判断できることに考えることは集約されていく。




深層を見ないと解決できないこと、主観的にしか分からないことは忘れられていく。





心が、考える主体である自分とは違うものであるとすれば、主観と思っていることは客観になり、客観と思っていることは主観となる。





考える自分と自分の体とが、心がたまたま宿った仮のものであるとすれば。





考える自分も自分の体も、心が所有するものではないことになる。





あるいは心が、考える自分と自分の体にたまたま宿ったものであるとすれば。





心は考える自分が所有するものではないことになる。





心は、考える自分を制御できたとしても、自分の体は制御できない。





考える自分は、心をないものにしようとしても、ないものにはできない。





自分の体は、考える自分とも心ともかけ離れている。





考える自分と、自分の体と、心と、一体どれが優位に立つといえるのか。





考える自分よりも心の方が優位に立つと言えるのか。





それとも心よりも考える自分の方が優位に立つと言えるのか。





それとも自分の体が、考える自分及び心よりも優位に立つと言えるのか。





自分とは何かと尋ねると、分かりそうで分からないものである。





宇宙人はてなマークはてなマークはてなマークブタ汗

世の中では、嫌いと思う人や嫌いと思うことは決してなくなるものではない。


好きと嫌いで判断している限り、嫌いなものは決してなくならない。

嫌いの力は好きの力よりも大抵強い。

人の感情は、嫌いの力に引っ張られてしまうことが少なくない。

人の感情の限界が、好きと嫌いを分けてしまうことにある。

嫌いの力はその人が本来持つ力、本来持つ性質を歪曲させてしまう。

いいものを持っていながら、それが隠され、見ることができなくなることは悲しいことに思える。

人の性質とはそういうものだ。

人はほとんどの場面で、人のいい部分を見ることができない。

好きと思う場合には、人のいい部分が大いに発揮されるように思えるが。

好きと思えるように努力すること、嫌いではなく普通だと思えるように努力すること。

この努力は感情をねじ曲げるように見えるが、必ずしもそうではないだろう。

真の意味で好きと嫌いの判断を超えれば、皆普通になる、あるいは皆好きになるのかな。

得意げ爆弾得意げキラキラ得意げDASH!