人は夢を見ている時は無意識になっているようにも思える。
夢は心の現れであるかのようにも思える。
だが、夢は実際には、頭の中で考えられたことによって作り出されていることが多い。
ここでも考える力が作用している。
過去の辛い経験をトラウマとも呼ぶことがあろうが、トラウマとは考える力によって作り出されたものだ。
人から考える力を除外することはできない。
人はいいことも悪いことも、考えることによって解釈を与える。
辛い経験だと思っていることは、悪いように考えることによって、もっと悪い方向へ導いているものだ。
確かに人は皆醜い。
考える力が生み出すことは、美しさと、醜さを伴う。
考える力によって、自分の過去は醜いものだと考えている。
そして、現時点でも確かに醜い。
考える力が強くなり、反抗する気持ちが芽生える中学、高校の頃の不正直な自分は、いつまで経っても醜い自分として残るものだ。
それは考えるという力によって、夢において再現される。
考える力によって、夢においては醜いと思っていたことはさらに醜く再現される。
存在自体がちっぽけだと思ったり、あるいは上手くできないと思っていたりすることはコンプレックスとなる。
コンプレックスによって、人格が否定されるように感じ取っていることは、考える力によるものだ。
今でも若い時でも、考える力は人に反抗したいという気持ちを作る。
この考える力が、ある種の競争社会において、人から勝ち抜くための原動力になっているのは事実のようである。
考える力によって醜い対象を自分の外に作り出し、それを打ち破るために努力する。
その努力は、考える力をさらに増強させ、敗者とならないための頭脳を作り出す。
そして、自分の外部に作り出した敵と戦うことになる。
それは、偽善の戦いであり、本来の敵は存在しない。
それは、いつしか自分と他人の間に壁を作り、さらには自分の中に壁を作る。
こうして自分の中に作られる壁は、考える力と心とを分け隔てることになる。
考える力と一体化した戦士であるかのように。
夢は、考える力の延長上にあるようである。
ならば、残された心はどこで見ることができるのか。
考えることを止めたとき?
無心になることが心である?
心はもともと存在していない?
肯定も否定も乗り越えたところに心は存在する?
答えはない?
あるいは永遠に続く無限ループが心であるかもしれない?