年を取るほど人の話が聞けなくなっていくのは悲しいことである。


人は年を重ねると、自らの経験に自信を持つようになる。


この自信は、その人を育て、その人に与えられる栄光となる。


ところが、自信は一歩間違えば我がままとなってしまう。


大抵の大人は年下の者よりも優れると思っている。


人は経験によって生きるからだ。


経験によりつくられた自信は、時に自らを破壊するための起爆剤となる。


だが、そのことは本人にはわからないことだ。


このような破壊から救われるためには、過去の経験は架空又は幻想であると思えばいい。


そして、現在も架空又は幻想である。


人の話が聞けるような柔軟な姿勢は経験からは生まれない。


それは、経験をリセットした柔らかい心からしか生まれない。


このことに気づく者が増えれば必ず社会は好転していくことだろう。台風ブタあせる

腹が立つという幻想。


誰しも腹を立てたい訳がなく、笑っているか平常心でいたいと思うものだ。


腹が立つと思う場合は、良かれと思ってやった事なのに仇として返されたと思う場合だろう。


自分が悪く思われていると思うと腹が立つのだ。


ところが、相手にしてみれば当然に相手の主張をしただけに過ぎないことだろう。


また、悪く返されたと思うこと自体が幻想である。


人は誰でも悪くもなり良くもなる。


人は誰も身勝手な存在である。


自分の魂は自分を優先して考える。


他人を悪いと思う感情は、自分を悪いと思う感情と表裏一体であるかもしれない。


他人からみれば自分が悪く見えることがほとんどだろう。


人の認知は狭く、また偏っている。


他人からみれば自分が存在するのだが、自分からみて自分を存在させる必要はない。


眼は常に外を向いており、中を見ようとしても見れない。


他人を見ることによってしか、自分を見ることができないのかもしれない。


ならば、果たしてそんな自分は存在していると言えるのだろうか。


人間の形をした自分はここにいたとしても、魂は果たして見える自分と一体のものだろうか。


だが、実際には、人が社会で生活するためには、刺激に対して反応することが精一杯である。


それが人の社会を形成している。


そのような社会で健全に生きていくためには、自分を見る魂と向き合うしかないのだろう。パンダパンダパンダ波

イケメンはいい。


存在するだけで美しさを認められる。


その美しさは外面だけのこともあろうが、内面も美しいことも多いだろう。


イケメンは真っ直ぐに生きられる。


存在を肯定されることが、その人を真っ直ぐにする。


余計な詮索をする必要はない。


イケメンの痛いところは、逆境に弱くなってしまうところだろうか。


逆境に対する強さは、存在を否定されることによってしか養われないと思えるからだ。


どのような人にもコンプレックスはあり、一見恵まれているように見える人でも、本人はそれほど恵まれていないと感じているものだ。


イケメンであり続けるためには否定される感情をわかっていることが必要だろう。


人の強さは、否定されることから生まれる。


その点、ブサメンは強い。


存在を否定されれば、逆境に耐えるだけの力が養われる。


人が生きて行く上で必要なことは、ある種の弱さでもあるが、逆境に対する強さである。


痛い思いをすればするほど、生きていることを実感すればいい。


今まで気づいていなかった強さに気づくはずだ。


そんな風に人のオーラは作られていくのかな。ブタブタブタ汗ドクロ汗ブタブタブタ

若い頃は自分の居場所がないだとか、自分に相応しくないだとかよく思うものだ。


これは確かに正しい。


ただ、意識が一歩開けると、元々どこにも居場所はないのであり、仮の居場所があるだけなのだとわかる。


また、自分に相応しいというものなど存在せず、元々相応しくないものしかないのだ。


そこの点に早くから気づける人はいい。


まさに恵まれた人と言えるだろう。


この架空の状態を早くから気づくことができていたなら、もっと違う人生を歩んでいたに違いないと思う。


だが、そのこと自体がまた幻想である。


どこまで行っても幻想の世界が広がる。


人には幻想の世界しか見ることができないのだろう。


その幻想が人に勇気を与え、人に安らぎを与え、人に喜びを与える。


幻想が人をつくる。


幻想によって動かされ、現実をつくっているのだろう。ヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジヒツジDASH!

何か一つ。好きでいられるものがあればその人の人生は生かされる。


誰か一人。好きでいられればその人の人生は生かされる。


どこか一つ。好きな場所があればその人の人生は生かされる。


多くを求めずとも、少ないことに事足りて好きでいられることが人生を明るくする。


近くを見過ぎず、あまり遠くも見過ぎず、普通に見えるものを好きになることができればその人の人生は生かされる。


好きであることは見えないもので守られることであり、守られるから好きになる。


嫌いになったり、腹を立てたり、無関心になったり、守られない要素は多い。


好きになることは守ることでもあるだろうが、それ以上に守ってくれるものである。


黄色い花チューリップ黄黄色い花チューリップ黄黄色い花チューリップ黄黄色い花チューリップ黄黄色い花チューリップ黄黄色い花チューリップ黄黄色い花チューリップ黄黄色い花チューリップ黄

内に秘めたるものは柔らかく、外に出すことができない見た目は冷めた子ども。


もう一度子どもに戻ることができるならば、今とは違う生き方ができたかもしれないと思うのは私だけではないだろう。


私の場合は、自分の夢を主張しないことに何かポリシーのようなものを持っていたのかもしれない。


あるいは夢という言葉は夢というまま葬り去られた。


そもそも人は誰しも生きる意味があって意味がないのだが、正直に生きられたかどうかは、生きる意味をどう捉えるかを左右する。


正直であれば、どのように生きようとも生きる意味は見出される。


不正直になれば、どのように生きようとも生きる意味は失われる。


生きる意味は正直な自分の姿からしか見られないものだ。


正直になるには勇気がいる。


正直になるには粘り強さがいる。


正直になるにはプライドが要らない。


妙なプライドが邪魔をしたり、やる前から諦める臆病者であったり、先入観でやろうともしない。


不正直から正直に変わるときには、失った過去が見える気がする。


本当は何も失ってはおらず、失うもの自体が存在していなかったことだろう。


不正直な過去に思いを巡らし、正直になろうとする。


正直になれるときには、過去も未来も現在も、考えていたことは幻想だと知ることになる。


正直と不正直の狭間で、ただ生きている自分という命が残される。


どこに正直があってどこに不正直があるのか。


不正直ばかりの印象が残ってしまうのが人として悲しいことである。もみじもみじもみじもみじもみじくもり

9月から11月にかけては、まさに行事のシーズンだ。


10月に入っても全く暑いままで、半袖のまま10月に突入だ爆弾


主観と客観、今の自分が何を考えているのかを意識してみると、主観的なことと客観的なこととが入り混じっている。


主観から客観、客観から主観。


会話などの場合には人に共通する必要があるから客観になり、ブログを書く場合等には人に共通する必要がないから主観になる。


その場で咄嗟にしゃべる場合には客観になり、あれこれ考える場合には主観になる。


主観と客観はどちらも大切なことだ。


我々はいつしか、主観が幼稚なことであると決め付けて、客観に傾こうとする。


主観とは感情的な見方であり、整理されない混沌とした身勝手な立場だと思うようになる。


これに比べて、客観とは理性的な見方であり、整理された秩序が存在する立場だと思うようになる。


だからできるだけ客観によって反応すれば大きな過ちは生じないと思い込む。


こうして社会は進歩し、これからも進歩していく。


主観はどこかに消し去ろうとしているのか。


それともそれぞれの人の中に熟成されていくのか。


子どもは子どもらしく子どもであることに拘り、大人は大人らしく大人であることに拘る。


この拘りは意識せずとも必然的な成り行きとして生じることだ。


客観になって行動し、主観になって意味を考えようとする。


しかし、この行動と考えることは、本来は一体的なもので、これが意識されず、うまく一致していることが健全であるということだろう。


行動するときには考えず、考えるときには行動しない。


そんな境界を持ってしまうのが人の立場である。


思っていることを口にすることは難しく、思ってもみないことを口にしては主観から離れる。


思ってもみないことを口にすることも難しく、思っていることを口にしては客観から離れる。


主観に入っては心細くなり、客観に入ってはつまらなくなる。


主観と客観が一体化されるように行動すれば、自分にとっても他人にとっても健全となる。


これは主観も客観もなくなることを意味するように見えるが、本当のところはどういうことなのかわからない。


人の社会を創っていくものは主観だけでもなければ客観だけでもない。


その中間がどこにあるのかよくわからないままである。


星空星空星空流れ星きのうすごく明るい流星🌠を見つけたっ!!

つっ遂に我が家にリーフちゃん(日産リーフ)がやってきた。



車にワックスをかけることなど忘れてしまったところだが、リーフの場合は違う。



これは普通の車ではない。



電動ゴーカートの進化版?



いや電池で動く移動ロボット?



何か普通の乗り物としての車とは違う魅力を感じる?



電気だけで走ると言うのが、すごい親近感を与えてくれるような。



避けたいと思う排気ガスが出てこない。



クリーンな車とはこういう車を言うんだ。



耕運機も草刈機も、ガソリンを使うものはみんなエンジンが掛からなくなってしまったが、これからはやはり一般家庭では電気の時代か。



電池の役割は大きい。



電池次第で車も家も何もかも変わっていくような・・・・・・ブタわんわんブタわんわんブタわんわん





行動しなければ人としての価値はないように思える。

行動しなければ何も見えもしなければ起こりもしない。

好きであるか嫌いであるかはっきりさせたいと思う。

やりたいこととやりたくないことをハッキリさせたいと思う。

立場を明確にしたいと思う。

自分の中に描く他人像を決めつけたいと思う。

これらは人が人として生きるためには切っても切れないことである。

無意識に見る夢は人の願望を表すこともあれば、人の美しさを映すこともある。

この夢は行動を伴わないから永遠の美学にもなる。

行動を伴わないから何も起こっていないが、脳には行動をしたことかのように映る。

行動する人であることに執着すれば行動しないことの美学が失われる。

夢に留まっているから永遠の美学となる。

無理に現実にする必要はない。

現実はいつも醜いものでもあるから。

焦らずともそこに夢は保たれる。
働くことは働き方や内容を変に意識すると気持ちが良くはならない。

そこにあるのは、分析であり能率であって、お金に直結するようなことだ。

働き方や内容などはどうでも良いことである。

何らかの技で働くことができるならばそれでいい。

働き方が悪いとか内容が悪いとか考えるのは妥当でない。

若い時はいろいろ考えて行動するのはそれでいいことだと思うけど。

何をやっていても、報酬に差がつくことはあるかもしれないが、気持ちの持ち方には大差がない。

適度に休めてうまく集中できれば、仕事をすること自体に意味がある。

要求が叶えられるよう働くことには意味があるが、何をしているかには特に意味はない。

働くことによってしか報酬は得られないのだから、働けるということに大きな意味がある。

仕事と自分との良い関係を築けられれば幸せなことだ。

そうして働くことによって日々はすぎて行くのだが、それが人の宿命か。

楽しみを考えつつ、空白な気持ちで働けることが幸せなことである。

つまらぬことを意識するよりも、何も意識しないことの方が優れる。

そこに何かの原理が見えるかな。わんわんあせる