小さな失敗は気持ちがないからするのだろう。

失敗しないという注意を働かせれば、ほとんどなくなる。

やりたいこととやりたくないこととがあるから、やりたくないことをする時には慎重になった方がいいだろう。

こういう時には、早く終わらせたいと思う焦る気持ちから失敗が多くなる。

やりたいことをする時には、長く時間を持ちたいと思うから失敗は少なくなる。

小さな失敗は、不注意であったことを教えてくれ、 自分の愚かさに気づかせてくれる。

これと違って、人生を左右するような大きな失敗は、もはや失敗とは言えないだろう。

それは自分では気づくことのできなかった何かを与えてくれ、自分の愚かさの範疇を超えている。

小さな失敗はすぐに忘れられ、また小さな失敗を生む。

人は小さな失敗をするために生きているのかもしれない。

人生を左右するような大きな失敗をすることはまれだ。

人は小さな失敗を気にしないために生きているのかもしれない。

このことが人を明るくもするし暗くもする。

どんなものもやがては消え果ててゆくもの。

しかし、すぐに無くなることを恐れ、失敗して無くす時には後悔する。

これが、人が愛着を持つということか。お茶お団子満月
生きた芸術となるためには、自分を意識しなくても良い状態になりたいものだ。

自分を意識しない状態が対象と溶け合っているのであり、この状態は芯はあっても無心の状態になる。

意識せずに対象と一体化すること。

人は永久に孤独から解放されないことを知っているから、何らかの対象と一体化して自分を忘れる。

この対象は興味の対象であって、人が芸術化するための対象となる。

自分が意識されない状態の方が人にとってはよい。

その場所、その行為に溶け込んでいれば自分は意識されない。

このような意識せずにできることに、芸術としての生き方が存在する。

人にはいつも邪念が伴う。

他人との関係によって人は自分を意識するからだ。

人は邪念によって芸術から遠ざかろうとする。

邪念こそ、人が自分を意識する心である。

自分を意識する心は自分を他人から隔てる。

自分を意識する心は、自分は他人と違って特別だと思うか、あるいは自分は他人と違って劣っていると思う。

そこに芸術的要素は見出されない。

芸術的要素は比較によっては生じず、比較しない心にしか生じない。

どうあっても、比較することに勝ち目はない。

郷に入っては郷に従う生き方は敗者としての生き方ではない。

芸術を育てることは生き方の核心をつく。満月

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生きることは最終的には芸術を求めていくことにある。

芸術は決まった尺度がなく、感性そのものであるからいい。

それに芸術には金銭的な価値観はもともと関係がない。

自分で認めるのが芸術であり、芸術には固定された観念はない。

仕事で上手くやっていけるのも芸術的要素があってのことだろう。

自分で自分を認める芸術としての面白味がないと長続きはしない。

芸術にはテーマがあり、このテーマが働く上でも重要になる。

働くことには自由がないから、休日のみ芸術家になれるということも少なくないだろう。

これだけでもいい。

芸術性を忘れなければ。

人は生きた芸術作品である。

自分で自分を認めるために、自分にしか分からない世界を作っていく。

自分で認められれば、他人にも認められる可能性が広がっていく。

芸術として生きることは活力を与えてくれ、終わりがない。

価値として生きることは活力を使い果たし、必ず終わりが来る。

終わりのない楽しみのために生きた芸術作品となろうではないかはてなマークはてなマークはてなマーク

とかげとかげとかげ宇宙人とかげとかげとかげ宇宙人とかげとかげとかげ宇宙人とかげとかげとかげ宇宙人
台風が通り過ぎてすっかり涼しくなったので、今日から長袖のシャツに変更だ。

朝は涼しいどころか、かなり寒い感じだった。

日常の会話には、人の恣意が含まれていて毒となるものも少なくない。

人の恣意を恣意と感じなくなり、毒があることは普通のことになる。

人の常識から外れた目で人をみると、何とも人は情けない存在に思える。

刺激と反応の繰り返しに浸る我々人という存在だ。

どのようなことで刺激して、どのような反応をするかを期待する。

でなければ、考えることを深めて反応を弱める。

何とも滑稽で愚かで情けないのが人という生き方である。

人は無限ループにある。

これが輪廻転生というものであるのかもしれないが、認識できるのは現生だけである。

人にはそれほどの力はない。ドクロ天使ドクロ天使ドクロ天使

娑婆世界での出来事を本気に捉えると、腹が立つことや馬鹿馬鹿しいことやつまらないことが多いだろう。

娑婆世界は人が自らの存続のために自己防衛する場であり、人が快楽を求めて楽しもうとする場でもある。

言い方を変えれば修行する場でもあるだろう。

娑婆世界から楽しみを除いてしまっては、人は自らの方向性を失ってしまう。

楽しみの捉え方は人によって様々だ。

どこに楽しみを見つけるかは自由である。

その人にとっては楽しみであっても、他の人にとっては楽しみでないことが多いだろう。

人によっては遊びよりも学ぶことが楽しみであったりする。

楽しみは娑婆世界で生きる人間の趣向性や性格を作っていく。

自他共に楽しめることは少ない。

だから人はお祭りを好む。

他のすべての趣向性を取り除いて楽しむことができるからだろう。

人の趣向性は社会を作る。

この社会は趣向性によって左右され、趣向性が見えなくなって不安定になる。

趣向性が見えなければ商売の材料が分からないからだ。

楽しみを持つことが大事だ。

人それぞれの楽しみを認められる社会でありたいものだ。ヒツジキラキラヒツジあせるヒツジDASH!汗ヒツジむかっ
人の会話には何かしらの意味を持たせたいと思うものだ。

だが、無理に意味を生じさせるのであれば、意味はない方がいい。

人の会話は事実関係を話すのに留まり、それをどう思うかなどの主観が抜け落ちていることがほとんどだ。

ただしゃべることによって、その場が救われる気がするのだろう。

だが、ただしゃべるということがなければ、会話をすることは難しい。

意味なきことを意味があるようにとっても仕方がないことだろう。

意味なき会話が人を和ませるとも言える。

場所によっては意味なき会話を続けることは難しい。

意味なき会話は半分冗談として流れていけば楽しい。

楽しさは求めて行っても得にくいものだが、求めて行かなければすぐに得られるものだ。

楽しさは人を良くする。

楽しさは人を迷いや不安や不満や怒りや嫉妬や寂しさから解放する。

楽しさは想像する中で作られるもので、想像以上のものでもない。

そのような楽しさは時が流れるのを忘れさせ、自分を忘れさせる。星キラキラ星流れ星星あせる

誰しも早く老けたいとは思わないものである。


体が痛くなったり、顔の皺が増えたり、白髪が増えたりする老けは、極力来て欲しくないと思う。


成人した人は老けるために生きている。


この老けが、外見的に、あるいは痛みとして感じられるだけのものであれば、誰しも避けたいと思うものだ。


だが、見た目や体は老けようとも、内面的に充実する心は育てることができる。


成熟した心を求めるためには、老けることによる落ち着きが、うまく作用するとも思える。


成熟した心は、考える頭で育てるものではなく、感じる気持ちで育てるものだろう。


年を取るとともに、小さな詮索を捨てていけば、清浄な国土に生きることもできるだろう。


人は老けを考えることによって悪いように解釈してしまう。


老けは生きる者にとって当然のことであり、うまく付き合えば生かすことができる。ブタ雷ブタ台風ブタ波

仕事のミスが見つかった時には落ち込むものである。

しかし、考えてみれば、ミスが生じうるやり方をしていただけのことだ。

ミスをなくすために慎重になりすぎたり、ミスによって萎縮してしまえば、良い結果は期待できなくなる。

人にできることは同じミスを二度と繰り返さないように注意するだけだ。

そういうと、気づいていなかった異なるミスはどうなるのかという問題もあるが。

人には間違いが付き物であるから、そのことを分かっておくだけでも随分と改善されるはずだ。

少し気を抜いてしまったときに間違えてしまうことが多い。

気が焦っている場合にも間違いが多くなる。

そんな人間の特性を思えば、平常心で居ることが間違えないことに他ならない。

だが意外とそれが難しい。

だから特に気にせず、同じ間違いをしないことだけを思っていればよいだろう。あせるあせるあせるあせるあせるぶーぶー


ちょっとしたことに怒りの言葉を発するのは怒りであろうか。

ちょっとしたことに嬉しさを感じるのは嬉しさであろうか。

ちょっとしたことに寂しさを感じるのは寂しさであろうか。

人であるから自然に沸き起こる気持ちに他ならない。

人であることを続けるから、こうした感情はつきものである。

人であるから、後悔という言葉があれば、眠っている時の夢のなかでは過去と現在、空想と現実の区別がつかない。

過去と空想はそのまま現在と現実である。

過去がなければ現実の自分を特定することができない。

それと同じように空想がなければ、現実を特定することができない。

現実は元々空想から作られているものである。

怒りも嬉しさも寂しさも、実態があると思った現実に焦点を当てた訳であるが、その現実は空想から生じたものであるだろう。

だからそれらの感情には実態がないとも言える。

それらの感情は、空想によって置き換わってしまうものだろう。

怒りも嬉しさも寂しさも現実に反応しただけのことであって、それ以上の意味はない場合もあるだろうが。はてなマークはてなマークはてなマーク宇宙人UFO
考えるのではなく、ただ思うだけに留めるのがよい。

とかく考える仕事に就く私たちは、何かにつけ考えてしまうことが多いようだ。

考えてよくなるのは金銭的、物質的なことであり、精神的なことは考えることによってはよくならない。

精神的なことは思うだけに留めるのがよく、その思いが移り変わっていく状態にあればよい。

それ以上に考えを巡らすと、得られるはずの安らぎを失なってしまう可能性が出てくる。

仏道に近づき、観行を深めれば、考えることからは離れる。

考えることは自力を信じるということであり、他力本願に近づくにはそのときの思いに集中すればよい。

そこのところが考えて暗くなることを防ぎ、考えずして浄土に近づくということに繋がるのだろう。

ちっぽけな考えるという力を捨てれば、大らかな思う、願うという心境に変わりうる。

そして、嬉しさの中だけに生きることが理想である。

姑息な考えるということを止めれば、 残されるのは嬉しさだけでしかない。

そううまく行けばよいのだがしっぽフリフリ霧しっぽフリフリ霧しっぽフリフリ霧