









雨続きであった日の後の晴れた日はなんと気持ちのよいことか。![]()
太陽のエネルギーが感じられる。![]()
ほんの些細なことのように思えるが、人の気持ちはほんの些細なことに左右されるものだ。
些細なことをきっかけに思い込みを深め、気分を変えていく。![]()
性格は一時の気分によって変わるものではないが、気分の変化の継続によって変わっていく。
太陽を拝むのは、この世界が太陽の恵みによって成り立つものだからだ。
この世界には慈悲の仏が居ると思い込みを深めれば、いたずらに寂しい心に振り回されることも少なくなるだろう。
信心とはそういうもので、それ以上にもそれ以下にもならない、人の考えを巡らさない自然体であることだろう。
人の頭で考えるのではなく、頭に頼らない感じるままの存在で居ること。
気分が冴えた時の心は、洗練された音楽を聴くときのような、綺麗な花火を見るときのような、一瞬の儚い感激にも近い。
気分が冴えるのは瞬間でしかないのかもしれない。![]()
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生きるために、仏像を思い浮かべ、仏像が持つ心になろうとし、仏像と一体化しようとする。
仏像を観賞する人は、そのように仏像を観るのだろうか。
仏像を観ることによって、心の安らかなる状態がどのようなものなのかを想像する。
そして、自分もその安らかなる心を得ようとする。
煩悩多き人として生きる上では、仏像は遠き存在にも思える。
仏の持つ心は憧れでもある。
だが人には、仏の心と一体化し、心安らかな境地に入ることはできるようだ。
仏像という具体的な形を持ったものを拝むことによって、安らぎとはどういうものかを認識しやすく。
人が目指していくことは、この社会で生きて行く能力を身に着けることであれば、これと同時に安らぎを得るということでもある。



生きるということは、納得しようとすることであり、納得できるものに辿り着こうとすることであろうか。
人は健全に行動するために自分を納得させているものだ。
自分を納得させるように考えを巡らす。
行動する際に何らかの理由付けを必要とするのが人だ。
これが人をよくもするし、人を狭くもする。
自分で自分の目標を決め、自分で自分の限界を決める。
日々の生活は小さな納得の繰り返しである。
さもなけば、日々の生活が苦しいだけになる。
納得することから満足感が得られ、納得することで平常心で居られることだろう。
以前は納得できなかったことが、年とともに徐々に納得できるようになっていく。
納得することには、本心から納得することと、建前上納得することがあるだろう。
どのような納得の仕方であっても、自分を健全に保つためのことだ。
人は小さなことに納得できなければ、大きなことにも納得できない。
小さなことから納得していくことになるのか。
納得とは諦めに近いものだろうか。

よい時間はそれほど長く続かない。
あっという間に終わってしまうのならば、それは本当にあったことなのか、それともなかったことなのか曖昧になる。
あっという間に終わってしまっても、思い出のなかには残っているのだから、それほど短い時間でもない。
思い出がよい時間を継続してくれる。
よい時間は思い出のためにあり、思い出に残る時間は永遠に消えない。
よい時間を振り返る時間がまた、よい時間となる。
二度と繰り返さない時間であれば、余計によい時間として残る。
苦しさや、寂しさや、辛さに不安になるときは、よい時間を思い出せばよい。
何もないときも、よい時間を思い出して過ごせばよい。
人の心は、よい時間によってしか満たされない。
よい時間を持つために、苦しみや、寂しさや、辛さに耐える。![]()
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夜の三門。