お盆休み前から続いていた、口の上辺りの痙攣がようやく終わりそうだ。

楽しくないのに笑おうとしたり、自分が思っていることと異なる表情を作ろうとするようなときに、痙攣が出るようだ。

確かにそのとおりだと思う。

つまらないものに対してはつまらない顔をし、楽しいものにはヒョー っと笑っていればいいのだろう。

痙攣を停止させるために、これが起こりそうなときに、その部分の筋肉に対して強制的に、痙攣しないように意識を向ける。

これが意外と効く気がした。

痙攣は、一旦こちらの命令に従ってくれると、その後は結構従順になるようだ

痛みなどに対してはこの意識を向ける方法ではダメかな。

体の痛みの方はもっと重症のようだ。

気持ちの持ち方がほとんどを支配することには違いない
社会の中の自分、自分の中の社会。
 
社会の中の自分は外見的に証明できるものであり、社会人としては生きていくために最も必要なことだ。
 
これはいろんな形で示すことができ、人に共通する尺度をもつ。
 
主観的にどう思おうが客観的に示せることなので話は簡単だ。
 
だが忘れてはならないと思うのが、自分の中の社会である。
 
これは外見では示すことができず、人によって尺度も違う主観的なことだ。
 
自分の中に社会を持たなければ、疲れも多く、流されるだけ流されて、自分を見失ってしまう。
 
社会からすれば自己中心的であることが悪く見られそうであるが、自分からすれば自己中心的であることこそ健康的であるといえる。
 
人の本当の目的は自分の中に社会をつくることだろう。

客観的にどう思われるかは問題ではなく、主観的にどう思うかだけである。

ところが、一般的には社会の中の自分でしか見られないのが世の常である。

目覚めるためには自分の中の社会を広げることであり、これがストレスから人を解放するものだといえるだろう。

     京都へゴー
人は自分がいる場所からしか周りを見ることができないが、本当の世界はそれほど狭いものではない。
 
人の感覚は自分を抜け出すことができない限りどこまで行っても狭いものだ。
 
大きくなったつもりで感覚を広げようとしても、感覚は自分という物質を抜け切ることはできない。
 
自分という制約に惑わされ、自分という感覚を抜けようとしない。
 
この小さな人の存在が果たして在るといえるのか、それとも無いといえるのか。
 
そこには一人の行為を行う物質は存在する。
 
だがこの行為を行う存在は一体何なのか永遠に分からないままである。
 
人という感覚は人であって人でない、自分があって自分がないというような不可思議なものである。
 
普段人だと思っているものは本当の人ではない。
 
人はもっと不思議で神秘に満ちているものだ。
 
一生を生きても本当の人という感覚は知らないままだ。
 
おおよそ話すという行為も、思うという行為も、そこに居るという行為も幻想とさほど変わりない。
 
人は自らを恐縮させ、小さな井戸の中の蛙に甘んじることを選ぶ。
 
これも人という感覚を弱めさせる。
 
人は自らの感覚をすぐに信じてしまう。
 
人の脳は騙されやすく、感覚をすり替えてしまうことは簡単だ。
 
自分で自分を騙しながら人を続ける。
 
それが人であると信じているからだ。
 
人という幻想を抜けると、生きることも死することも同じことだと気づくだろう。
 
それが人に隠された感覚である。
 
そのことに気づかず、あるいは気づこうとはせずに生きようとする。
 
そこに自分を中心とした感覚があり、その感覚が全てであると思い込む。

それが人の定めである。
こちらの高野山の方が大人にとっては本命です!!

大伽籃の大日如来さま!良かったな~合格

金ピカで王冠1

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大門!

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帰りに見つけたお土産屋さんの前。

不動明王さまがいるっ目

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久々のブログ復帰です!

夏休みの家族旅行第一弾。

白浜の海水浴場はすごい人!

ちょっと離れた縮小版の海水浴場に変更しました。

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アドベンチャーワールドは結構空いていて、かなり良かったです。

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パンダって食べる時しか動かない!?

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イルカのハイジャンプビックリマーク

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シロクマがうまく撮れなかった爆弾カメラ

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朝の木曽三川公園。

波が立っていないと水面が鏡のようになって美しい霧波

ガチョウがガチョーンやぎ座かに座かに座女の子クマノミあせる

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できることなら、昔に戻ってみたいものだ。

この願望があるから、私は昔の夢をよく見る。

子どもの将来を伸ばすために、子どもには夢を持たせることが必要だろう。

子どもは自由な空想で夢を膨らませばいい。

本当に子ども時代そのものが夢であるように思う。

私にもまだ隠れた夢がある。

だがそれはすぐに実行しようとするほど軽いものではない。

だから普段の私は求道者として現実と戦う。

本当の夢には経済的な観点がない。

だから夢として持ち続けられる。

与えることが本当の夢である。

私は自己を防衛しながら、精神的な不安と戦いながら、夢を捨てないようにするべきだ。

物事を現実的に見てしまうのは良くない癖である。

夢は空想的に時空を離れて見るものだ。

現実的に見ると精神的に破綻してしまう。

私の性格からすると、今の仕事の現状では、精神的に破綻してもおかしくない状況にある。

理想主義を捨て去ることは結構難しい。

私は自分が思う嫌な人間の真似事を想像することによって正気を保つ。

それよりも、自分の好きなことだけ想像して、仕事をしていたほうがいいのだろう。

その方が自然に近い。霧霧霧霧霧霧虹
普段の静けさとお祭りの賑やかさとのギャップ。
 
ギャップはいいように取ることもできるが、本来は大きなギャップは不自然だ。
 
静かな書き人になろうとする。
 
静かな書き人は、閉じこもっているように見えるが、実は過去、未来のいろんな場所へ心を発散させている。
 
発散がなければ静かで居続けることは辛いことだ。
 
私は根本的な間違いをしているし、根本的な間違いは修正することが難しい。
 
ほとんどの人がこの根本的な間違いをしたまま、耐えている。
 
根本的な間違いであるから、それが常識であるとしたほうが人にとっては都合が良い。
 
間違えたまま行けば、間違いであることを忘れる。
 
大人の社会というものはそういうものだ。
 
それが常識を作っていく。
 
正義感はわがままとなり、協調性は無関心を増長させていく。
 
つまらない大人になっていく。
 
悪い意味での子供っぽさを残して。

良い意味での子供っぽさをなくしてしまっているようだ。ドクロドクロドクロドクロドクロ雷
自分に立ち返ることは辛いことである。

人は人の中、あるいは特定の世界に居て、自分を忘れてしまうから幸せになる。

自分に立ち返ることは、孤独であり死を認めることであるから、辛いことだ。

この業界で仕事をして感じにくいのは人の温もりである。

人の温もりは、別のところで勝手につくれということだ。

仕事に真面目なのはいいことだが、それでは人よりも物に重きをおくことになってしまう。

外見上はそのように見えても、理想は人が中心にあることだ。

単なる理想家となってしまった私は、空想の世界の住民であり、理想を求めないことよりも醜い。

自分に立ち返ると、この醜さと対面することになるから辛いのだろう。

ところが、醜さを認めてしまえば、ふっと気が楽になる。

理想は理想として持つことに醜さはないが、それに囚われてしまうと醜さとなる。

落ち込むことは浄化への道となるが、それと同時に醜さへの道ともなる。

自分は人と違う、人は自分と違う。

違いを大きく感じれば、人は人との溝を深めてしまう。

自分も人も同じ清らかさと醜さを持つ。

それを認めれば、溝はさほど深くなることはない。

人にとっての悲劇は自分の脳から離れられないことだ。

清らかさと醜さ、善と悪、明と暗、正しさと間違い。

人が人を分別する脳は、自分の心までも分別してしまう。

だから、一身になることは至って難しい。

キラキラ人にとって大切なことはなんだろう。


人を愛する気持ちは大切だが、それだけでも足りない気がする。


それは何か。


人に愛される気持ちを持つことである。


これは人だけでなく如来から愛されるという気持ちを持つことにも繋がっている。


子どもを愛する親は多いだろう。


だがそれ以上に子どもにとって大切なのは自発的に愛する気持ちを持つことである。


愛するというと大げさだが、簡単に言えば親しみの気持ちを持つということだろう。


極端な見方をすれば、敵と見るか味方と見るかになってしまうが。


子どもに対してだけではなく、友達、職場に対しても同じことだろう。


人に愛されるためにはどうするか。


隙をつくり、弱い一人の人間となればいい。


親しみとは、自らの弱さをさとり、他人の弱さを見ることにもある。


強みから受ける親しみもあるだろうが、持続しにくいのが欠点だ。


人はいつしか弱さをさとり、弱さを退けなくなる。


本当の強さは弱さを見せられることにある。


人は皆、一人では生きられず、弱い存在だ。


その弱さを克服するために、弱さから逃げるために必死になる。


自分の弱さを認め、人の弱さを知ることによって、如来に親しみを感じ、愛される人となれる。


愛される人となるのは簡単そうで難しいことである。天使オバケ天使オバケ天使オバケ天使オバケ天使オバケ